Episode 1 情火未名 -The Flame Yet Unnamed- Part 1
停止したモニターの表面に、格納庫の照明が細長く映り込んでいた。
機体は動いていない。
主電源は落とされ、操縦席には冷却装置の弱い送風音だけが残っている。開かれたハッチからは、工具が装甲へ触れる硬い音と、整備員たちの短い声が聞こえていた。
右脚部の再調整。
作業が終わるまで、そのまま待てと言われている。
彼女は座席へ身体を預け、膝の上で指を組んだ。
操縦桿を握っていない手は、ひどく所在がなかった。
足元から、小さな振動が伝わってきた。誰かが装甲の上へ工具を置いたらしい。
続いて、聞き慣れた声がした。
「そっち、補助電源だけ入れて」
機体の下からだった。
彼女は操作盤へ手を伸ばし、指示されたスイッチを押した。
低い起動音とともに、正面のモニターへ光が戻る。灰色の画面に診断項目が並び、その一角へ外部カメラの映像が開いた。
機体の右脚付近。
一人の少年が、開かれた装甲の下へ身体を入れていた。
軍服の上着を腰へ巻き、薄い作業着の袖を肘まで上げている。頬には油がついていた。片手に端末を持ち、もう片方の手で内部配線を押さえている。
映像越しの姿を、彼女は黙って見ていた。
初めて会った頃も、彼は機械を見ていた。
〇
輸送機の中は、焼けた油の匂いがした。
むき出しの骨組み。
冷たい座席。
身体の奥まで響いてくるエンジンの振動。
周囲では、同じ服を着た少年たちが戦場の話をしていた。
誰が最初に敵を倒すか。
何人倒せば勲章をもらえるか。
戻ったら何を買うか。
笑い声は明るかった。
その中で、隣に座った少年だけは、天井近くを通る配管を見ていた。
彼女はしばらく横顔を眺めた。
「何を見てるの?」
少年は視線を動かさなかった。
「冷却管」
「そんなものを見て、面白い?」
「別に」
それで会話は終わった。
感じが悪いと思った。
せめてこちらを見ればいい。もう少し言い方があるはずだった。
それなのに少年は、配管の接続部から床の固定具へ視線を移し、今度は座席の下を覗き込んでいた。
「怖くないの?」
なぜ、そんなことを尋ねたのかは覚えていない。
少年はようやく顔を上げた。
「何が?」
「これから行くところ」
少し考えてから、少年は視線を落とした。
「怖いよ」
あまりにも普通の答えだった。
彼女は言葉に詰まった。
平気そうに見えた。
少なくとも、自分よりは。
「そうは見えないけど」
「怖がっても機体は落ちなくならない」
少年は自分の座席を指で叩いた。
「だったら、壊れそうなところを見てた方がいい」
それが強がりだったのか、本心だったのか。
当時の彼女には分からなかった。
今でも、完全には分からない。
ただ、彼は最初からそういう人間だった。
分からないものを見ようとする。
怖いものほど、目を逸らさない。
そして、見つけてしまったものを放っておけない。
〇
画面の中で、少年が顔を上げた。
外部カメラを見たわけではない。機体の奥から何かを呼ばれ、そちらへ返事をしている。
声までは拾えなかった。
少年は立ち上がり、別の整備員へ端末を渡した。
歩き出した右脚が、僅かに遅れる。
見慣れた歩き方だった。
以前ほど露骨ではない。知らない者が見れば、負傷しているとは気づかないかもしれない。
それでも彼女には分かった。
あの脚を見るたび、赤い警報灯を思い出す。
〇
照準は敵を捉えていた。
指は引き金へかかっていた。
何をすべきかも分かっていた。
それなのに、動かなかった。
機体の中で、呼吸だけが速くなっていた。
敵が近づく。
警告表示が増える。
通信機から誰かの声がする。
けれど、言葉として頭へ入ってこなかった。
操縦桿を握る指先が震えていた。
撃たなければならない。
動かなければならない。
分かっているのに、身体が命令を拒んでいた。
モニターの端を、小さな影が横切った。
誰かが機体の前へ出た。
何をしているのか理解するより先に、その姿が地面へ崩れた。
脚が、不自然な方向へ折れていた。
その瞬間、別の恐怖が胸を貫いた。
自分が死ぬことではなかった。
敵を殺すことでもなかった。
目の前から、その人がいなくなることだった。
気づいた時には、彼女は別の鋼鉄の身体と繋がっていた。
熱が背骨を走った。
視界が広がった。
自分のものではない腕が持ち上がる。
重いはずの脚が地面を蹴る。
どう動かしたのかは、ほとんど覚えていない。
ただ、間に合えと思っていた。
まだ生きていてほしい。
それだけだった。
〇
「聞こえてる?」
現実の声が、記憶を切った。
彼女は目を瞬いた。
モニターの中で、少年がこちらを見上げていた。片手に通信端末を持っている。
「聞こえてるわ」
「反応がなかった」
「少し考え事をしてただけ」
「補助系統、一度落として」
言われたとおりにスイッチを戻す。
画面から診断表示が消え、外部映像だけが数秒遅れて暗くなった。
最後に映ったのは、こちらを見上げる少年の顔だった。
モニターが完全に消える。
「これでいい?」
「ああ。もう降りていい」
「作業は終終わったの?
「右脚は」
「ほかに何かあるの?」
通信の向こうで、短い間があった。
「左肩の応答が少し遅い。午後にもう一度見る」
「今やればいいじゃない」
「部品がない」
「取ってくれば?」
「どこから」
「補給班」
「昨日頼んだ。まだ来てない」
平坦な声だった。
彼女は小さく息を吐いた。
「役に立たないわね」
「俺に言われても困る」
「あなたのことじゃないわよ」
「分かってる」
本当に分かっているのかは怪しかった。
その返事まで、昔と変わらない。
彼女はハッチの縁へ手をかけ、座席から身体を起こした。
外へ出ると、格納庫の空気が頬へ触れた。冷却剤と油、それに金属を削った時の乾いた匂いが混じっている。
足場を下りる途中で、少年の姿を探した。
少し離れた作業台にいた。
もうこちらを見てはいなかった。別の機体から外された部品を受け取り、整備員と何か話している。
見つけた途端、胸の奥に入っていた力が少しだけ抜けた。
そのことに気づき、彼女は足場の途中で動きを止めた。
以前は、生きていると分かればそれでよかった。
戦闘から戻った時、彼の姿を探した。
声を聞いた。
触れられる距離にいることを確かめた。
それだけで、呼吸が戻った。
今も同じだった。
姿が見えないと探してしまう。
危険な場所へ行けば落ち着かない。
帰ってくれば、怪我がないか確かめる。
ここまでは、何も変わっていない。
けれど、今はそれだけでは足りなかった。
彼が生きている。
それだけではなく、自分のそばにいてほしいと思っている。
明日も。
次の作戦が終わった後も。
戦争が終わった先にも。
そこまで考えて、彼女は足場を握る手へ力を込めた。
戦争が終わった先。
そんなものを考えたことはなかった。
少なくとも、あの少年と出会うまでは。
〇
昨夜も、彼は一人でどこかへ行こうとした。
血に濡れた少女の背中を追い、自分にはここに残ってほしいと言った。
理由は分かっていた。
だから、追わなかった。
それでも、戻ってくるまで何度も同じ方向を見た。
彼は帰ってきた。
何も話さなかった。
こちらからも聞かなかった。
ただ、以前より少し遠いところへ行ってしまったように見えた。
彼はいつも、誰かが倒れれば手を伸ばす。
自分が何を背負うことになるのか考える前に。
そういう人間だから、信じられた。
同じ理由で、怖くもなった。
いつか本当に、戻れない場所まで行ってしまうのではないか。
自分の知らない誰かのために、自分の前からいなくなるのではないか。
作業台の前で、少年が笑った。
何を言われたのかは聞こえなかった。
ほんの僅かに口元が動いただけだった。
それでも彼女は、その表情を見ていた。
近くにいる。
無事でいる。
今は、それでいいはずだった。
彼女は足場を下りた。
最後の一段へ足をかけた時、格納庫の入口から声が飛んできた。
「搭乗員の方はいらっしゃいますか」
見慣れない伝令兵が立っていた。
彼女は床へ降り、そちらへ顔を向けた。
「私?」
「司令部棟に面会の方が来ています」
「面会?」
前線基地まで自分を訪ねてくる人間に、心当たりはなかった。
「誰なの?」
伝令兵は手元の端末を確認した。
「軍関係者ではありません。ご親族だと伺っています」
彼女の表情が止まった。
遠くでエンジンが始動した。
低い振動が格納庫の床を伝い、足元からゆっくりと這い上がってくる。
作業台の前にいた少年が、その音に紛れて別の機体へ歩いていく。
彼女は一度だけ、その背中を見た。
そうして彼女──クラリスは、伝令兵へ向き直った。




