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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅳ 残灯
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Episode 1 情火未名 -The Flame Yet Unnamed- Part 1

 停止したモニターの表面に、格納庫の照明が細長く映り込んでいた。

 機体は動いていない。

 主電源は落とされ、操縦席には冷却装置の弱い送風音だけが残っている。開かれたハッチからは、工具が装甲へ触れる硬い音と、整備員たちの短い声が聞こえていた。


 右脚部の再調整。

 作業が終わるまで、そのまま待てと言われている。

 彼女は座席へ身体を預け、膝の上で指を組んだ。

 操縦桿を握っていない手は、ひどく所在がなかった。

 足元から、小さな振動が伝わってきた。誰かが装甲の上へ工具を置いたらしい。

 続いて、聞き慣れた声がした。


「そっち、補助電源だけ入れて」


 機体の下からだった。

 彼女は操作盤へ手を伸ばし、指示されたスイッチを押した。

 低い起動音とともに、正面のモニターへ光が戻る。灰色の画面に診断項目が並び、その一角へ外部カメラの映像が開いた。


 機体の右脚付近。

 一人の少年が、開かれた装甲の下へ身体を入れていた。

 軍服の上着を腰へ巻き、薄い作業着の袖を肘まで上げている。頬には油がついていた。片手に端末を持ち、もう片方の手で内部配線を押さえている。

 映像越しの姿を、彼女は黙って見ていた。

 初めて会った頃も、彼は機械を見ていた。


     〇


 輸送機の中は、焼けた油の匂いがした。

 むき出しの骨組み。

 冷たい座席。

 身体の奥まで響いてくるエンジンの振動。

 周囲では、同じ服を着た少年たちが戦場の話をしていた。

 誰が最初に敵を倒すか。

 何人倒せば勲章をもらえるか。

 戻ったら何を買うか。

 笑い声は明るかった。

 その中で、隣に座った少年だけは、天井近くを通る配管を見ていた。

 彼女はしばらく横顔を眺めた。


「何を見てるの?」


 少年は視線を動かさなかった。


「冷却管」

「そんなものを見て、面白い?」

「別に」


 それで会話は終わった。

 感じが悪いと思った。

 せめてこちらを見ればいい。もう少し言い方があるはずだった。

 それなのに少年は、配管の接続部から床の固定具へ視線を移し、今度は座席の下を覗き込んでいた。


「怖くないの?」


 なぜ、そんなことを尋ねたのかは覚えていない。

 少年はようやく顔を上げた。


「何が?」

「これから行くところ」


 少し考えてから、少年は視線を落とした。


「怖いよ」


 あまりにも普通の答えだった。

 彼女は言葉に詰まった。

 平気そうに見えた。

 少なくとも、自分よりは。


「そうは見えないけど」

「怖がっても機体は落ちなくならない」


 少年は自分の座席を指で叩いた。


「だったら、壊れそうなところを見てた方がいい」


 それが強がりだったのか、本心だったのか。

 当時の彼女には分からなかった。

 今でも、完全には分からない。

 ただ、彼は最初からそういう人間だった。

 分からないものを見ようとする。

 怖いものほど、目を逸らさない。

 そして、見つけてしまったものを放っておけない。


     〇


 画面の中で、少年が顔を上げた。

 外部カメラを見たわけではない。機体の奥から何かを呼ばれ、そちらへ返事をしている。

 声までは拾えなかった。

 少年は立ち上がり、別の整備員へ端末を渡した。

 歩き出した右脚が、僅かに遅れる。

 見慣れた歩き方だった。

 以前ほど露骨ではない。知らない者が見れば、負傷しているとは気づかないかもしれない。

 それでも彼女には分かった。

 あの脚を見るたび、赤い警報灯を思い出す。


     〇


 照準は敵を捉えていた。

 指は引き金へかかっていた。

 何をすべきかも分かっていた。

 それなのに、動かなかった。


 機体の中で、呼吸だけが速くなっていた。

 敵が近づく。

 警告表示が増える。

 通信機から誰かの声がする。

 けれど、言葉として頭へ入ってこなかった。

 操縦桿を握る指先が震えていた。

 撃たなければならない。

 動かなければならない。

 分かっているのに、身体が命令を拒んでいた。

 モニターの端を、小さな影が横切った。


 誰かが機体の前へ出た。

 何をしているのか理解するより先に、その姿が地面へ崩れた。

 脚が、不自然な方向へ折れていた。

 その瞬間、別の恐怖が胸を貫いた。

 自分が死ぬことではなかった。

 敵を殺すことでもなかった。


 目の前から、その人がいなくなることだった。

 気づいた時には、彼女は別の鋼鉄の身体と繋がっていた。

 熱が背骨を走った。

 視界が広がった。

 自分のものではない腕が持ち上がる。

 重いはずの脚が地面を蹴る。

 どう動かしたのかは、ほとんど覚えていない。

 ただ、間に合えと思っていた。

 まだ生きていてほしい。

 それだけだった。


     〇


「聞こえてる?」


 現実の声が、記憶を切った。

 彼女は目を瞬いた。

 モニターの中で、少年がこちらを見上げていた。片手に通信端末を持っている。


「聞こえてるわ」

「反応がなかった」

「少し考え事をしてただけ」

「補助系統、一度落として」


 言われたとおりにスイッチを戻す。

 画面から診断表示が消え、外部映像だけが数秒遅れて暗くなった。

 最後に映ったのは、こちらを見上げる少年の顔だった。

 モニターが完全に消える。


「これでいい?」

「ああ。もう降りていい」

「作業は終終わったの?

「右脚は」

「ほかに何かあるの?」


 通信の向こうで、短い間があった。


「左肩の応答が少し遅い。午後にもう一度見る」

「今やればいいじゃない」

「部品がない」

「取ってくれば?」

「どこから」

「補給班」

「昨日頼んだ。まだ来てない」


 平坦な声だった。

 彼女は小さく息を吐いた。


「役に立たないわね」

「俺に言われても困る」

「あなたのことじゃないわよ」

「分かってる」


 本当に分かっているのかは怪しかった。

 その返事まで、昔と変わらない。


 彼女はハッチの縁へ手をかけ、座席から身体を起こした。

 外へ出ると、格納庫の空気が頬へ触れた。冷却剤と油、それに金属を削った時の乾いた匂いが混じっている。


 足場を下りる途中で、少年の姿を探した。

 少し離れた作業台にいた。

 もうこちらを見てはいなかった。別の機体から外された部品を受け取り、整備員と何か話している。

 見つけた途端、胸の奥に入っていた力が少しだけ抜けた。

 そのことに気づき、彼女は足場の途中で動きを止めた。


 以前は、生きていると分かればそれでよかった。

 戦闘から戻った時、彼の姿を探した。


 声を聞いた。


 触れられる距離にいることを確かめた。

 それだけで、呼吸が戻った。


 今も同じだった。


 姿が見えないと探してしまう。

 危険な場所へ行けば落ち着かない。

 帰ってくれば、怪我がないか確かめる。

 ここまでは、何も変わっていない。

 けれど、今はそれだけでは足りなかった。


 彼が生きている。


 それだけではなく、自分のそばにいてほしいと思っている。

 明日も。

 次の作戦が終わった後も。

 戦争が終わった先にも。

 そこまで考えて、彼女は足場を握る手へ力を込めた。

 戦争が終わった先。

 そんなものを考えたことはなかった。

 少なくとも、あの少年と出会うまでは。


     〇


 昨夜も、彼は一人でどこかへ行こうとした。

 血に濡れた少女の背中を追い、自分にはここに残ってほしいと言った。


 理由は分かっていた。

 だから、追わなかった。

 それでも、戻ってくるまで何度も同じ方向を見た。


 彼は帰ってきた。

 何も話さなかった。

 こちらからも聞かなかった。

 ただ、以前より少し遠いところへ行ってしまったように見えた。


 彼はいつも、誰かが倒れれば手を伸ばす。

 自分が何を背負うことになるのか考える前に。

 そういう人間だから、信じられた。

 同じ理由で、怖くもなった。


 いつか本当に、戻れない場所まで行ってしまうのではないか。

 自分の知らない誰かのために、自分の前からいなくなるのではないか。

 作業台の前で、少年が笑った。

 何を言われたのかは聞こえなかった。

 ほんの僅かに口元が動いただけだった。

 それでも彼女は、その表情を見ていた。


 近くにいる。

 無事でいる。

 今は、それでいいはずだった。

 彼女は足場を下りた。

 最後の一段へ足をかけた時、格納庫の入口から声が飛んできた。


「搭乗員の方はいらっしゃいますか」


 見慣れない伝令兵が立っていた。

 彼女は床へ降り、そちらへ顔を向けた。


「私?」

「司令部棟に面会の方が来ています」

「面会?」


 前線基地まで自分を訪ねてくる人間に、心当たりはなかった。


「誰なの?」


 伝令兵は手元の端末を確認した。


「軍関係者ではありません。ご親族だと伺っています」


 彼女の表情が止まった。

 遠くでエンジンが始動した。

 低い振動が格納庫の床を伝い、足元からゆっくりと這い上がってくる。

 作業台の前にいた少年が、その音に紛れて別の機体へ歩いていく。

 彼女は一度だけ、その背中を見た。

 そうして彼女──クラリスは、伝令兵へ向き直った。

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