Episode 5 余燼残響 -Echoes of Dying Embers- Part 4
夜は来た。
それは、安堵としてではなく、ただ光が減った結果として、機械的に訪れただけの夜だった。
フォート・グラーデンの大部分は、たしかに奪還された。
主要施設は取り戻され、通信も最低限ながら復旧し、格納庫も、司令区画も、いちおうは再び“味方の領域”として塗り替えられたことになっている。
ことになっている、だけだった。
実際には、どこまでが本当に奪還済みで、どこからがまだ危険区域なのか、誰にもはっきりとは分からない。
損傷した区画は閉鎖され、地下連絡路の一部は未確認のまま封鎖され、掃討班はまだ戻らない。通信記録の途切れた時間帯もある。敵性反応は“現時点で大規模なものなし”とされているが、それは単に、今この瞬間には観測されていないという意味でしかなかった。
だから基地は、勝利の夜ではなく、戒厳令下の夜を迎えていた。
照明は必要最低限。
通路の一部は落とされたままで、赤い非常灯だけが一定の間隔で床を照らしている。巡回は増員され、各区画の出入りは厳しく制限されていた。小さな物音一つで兵が振り返る。誰もが“終わった”とは思っていない。終わったことにしたいだけで、終わっていないことを、みんな知っていた。
リリィに割り当てられた仮眠室もまた、どこか借り物めいていた。
元は将校用の待機区画だったのだろう。狭いが壁は厚く、ベッドも硬すぎるほど整っている。洗い立てのシーツが張られ、毛布もきちんと畳まれていた。戦場のただ中に置かれた部屋にしては、妙に整いすぎている。
なのに、その清潔さが、かえって不気味だった。
リリィはベッドの縁に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。
疲れているはずだった。
頭も、目も、肩も重い。司令部で立ち続け、記録を見続け、空転する会議を聞き続け、前線と後方のあいだで何度も回線を繋ぎ直した。身体が眠りを欲していることくらい、分かっていた。
それでも、横になる気にはなれなかった。
白いシーツを見下ろす。
何の汚れもない。
それなのに、どうしても、そこに血の気配が残っているように思えた。
もちろん、そんなはずはない。
これは交換されたシーツで、消毒も済んでいて、部屋そのものだって戦場の最前線からは外れている。理屈では分かる。分かっているのに、鼻の奥にはまだ鉄錆と焦げた金属の臭いがこびりついていた。指先にも、管制卓を叩き続けた感触ではなく、戦況ログの赤い文字ばかりが残っている気がした。
部屋は静かだった。
静かすぎた。
壁の向こうでは、誰かが歩く靴音が時折遠くを横切る。
空調が低く唸る。
どこか別区画で閉まる重い防火扉の音が、遅れて鈍く伝わってくる。
その一つ一つに、リリィは無意識に耳を澄ませてしまう。
それがただの巡回か、ただの設備音か、それとも何か別のものか、確かめずにはいられない。身体のどこかがまだ司令卓の前に置き去りのままで、休めという命令だけが脳の表面を滑っているようだった。
リリィはそっとベッドへ手を置いた。
柔らかい。
冷たい。
不自然なくらい、ちゃんとしている。
戦場の中でこんな場所にいること自体が、どこか間違っているみたいだった。
昼間の議論が、ふいに蘇る。
クラリスの処遇。
異常なリンク率。
保護。監視。再投入。保留。
あの場で、自分は何もできなかった。
何も言えなかった。
一度だけ口を挟んで、即座に押し返されて、それきりだった。
自分には発言権がない。
そんなことは最初から分かっていた。
でも、分かっていたことと、実際に何もできなかったことの重さは、まるで違った。
クラリスは壊れかけていた。
ユリウスも、脚を負傷していた。
あの二人は戦ったあと、ようやく生き延びただけだった。
それなのに自分は、彼らのそばへ行くこともできず、ただ記録を持ったまま司令部の端に立っているだけだった。
「……っ」
喉の奥が熱くなる。
泣きたいわけではなかった。
泣けるほど単純な感情ではない。
悔しいのだと、ようやく気づく。
怖かったし、疲れていたし、今もたぶん震えている。けれどそれ以上に、自分の無力さが腹立たしかった。
役に立たなかった。
どれだけ画面を見ても。
どれだけ数字を覚えても。
どれだけ回線を繋いでも。
いちばん必要なときに、自分は誰も守れなかった。
その事実が、今になって遅れて胸へ落ちてくる。
リリィは、ゆっくりとシーツの上へ腰をずらし、背中を壁へ預けた。
目を閉じる。
すると、瞼の裏にはすぐ赤い警報灯が滲んだ。戦闘ログの数字、途切れかけた通信、クラリスの異常な波形、そして会議室で交わされた乾いた言葉が、順番もなく浮かんでは消えていく。
眠れるわけがない、と思った。
それでも身体は重くて、どこかで意識が沈みかける。
沈みかけるたび、びくりと浅い驚きに引き戻される。
まるでまだ自分も戒厳の一部みたいだった。
そのとき、ふと、自分の手がひどく小さいことに気づいた。
膝の上に置いた指先。
細くて、白くて、まだ幼い手。
こんな手で、何を守れるというのだろう。
それを見た瞬間、リリィは、自分がまだ十歳だったことを思い出した。
いや、違う。
思い出したというより、忘れていたことに今さら気づいたのだ。
今日一日、自分はそんなことを一度も考えなかった。
司令部に立っている間も。
記録を読み上げている間も。
軍の重鎮たちが言葉を交わす中に立っていた間も。
自分が十歳の子どもであることなんて、まるで関係ないものとして扱っていた。
そして周囲もまた、そうだった。
誰も「子どもだから」とは言わない。
言ってくれない。
戦場では、そんなものは最初から免罪符にならない。
だからこそ、今になってその事実が重かった。
十歳。
たったそれだけしか生きていない。
それなのに、自分は今日、基地の陥落と再奪還と、異常戦闘の記録と、軍の政治の一端を見てしまった。見ただけで、止めることはできなかった。
無力だった。
あまりにも、はっきりと。
リリィは俯いた。
肩が小さく震える。
泣くつもりはなかった。けれど、喉の奥が勝手に狭くなって、呼吸がうまく通らない。
ベッドは、やっぱり血生臭い気がした。
実際には匂わないはずなのに、そう感じてしまうのは、たぶん自分自身がまだ戦闘の中から戻れていないからだ。
フォート・グラーデンの夜は静かだった。
けれど、その静けさは休息ではなく、ただ次の何かが来るまでの空白にしか思えなかった。
壁の向こうで、また靴音がした。
巡回だ。
分かっている。
分かっていても、胸が小さく跳ねる。
リリィは毛布を引き寄せ、膝を抱えるようにしてその中へ身を縮めた。
その姿は、ようやく年相応の小ささに戻ったはずだった。
けれど、心だけは少しも子どもに戻れなかった。
十歳であることを思い出した今もなお、彼女の胸にあるのは、守られる側の安堵ではなく、守れなかった側の痛みだけだった。
夜は深まっていく。
再奪還されたはずの基地の中で、誰もがまだ完全には眠れないまま。
そしてリリィもまた、その長い夜の中で、自分の無力さだけを抱いて、じっと息を潜めていた。
〇
夜は、少しも深まった気がしなかった。
目を閉じても浅い眠気は訪れず、代わりに耳だけが冴えていく。
壁の向こうを過ぎる靴音。遠くで鳴る防火扉の開閉音。どこか別区画で交わされる、低く抑えた声。ひとつひとつを拾うたびに、身体の奥が小さく強張る。
リリィは毛布の中で膝を抱えたまま、じっと息を潜めていた。
眠れない。
眠ってはいけない気すらする。
それでも、意識は少しずつ沈みかけていた。
揺れるような覚醒と微睡みのあいだを、何度も行き来していた。
だから、最初にそれが現実の音だと気づくのが遅れた。
かすかに、金属の擦れる音。
部屋の外。
扉の向こう側で、誰かが静かにロックへ触れているような、ひどく小さな音だった。
リリィは顔を上げる。
けれどその動きより早く、扉が音もなく内側へ滑った。
冷たい空気が、細い隙間から流れ込んでくる。
「――」
声を出そうとした瞬間には、もう遅かった。
影がひとつ、素早く部屋へ滑り込む。
次の瞬間、リリィの口元は硬い手のひらで塞がれていた。悲鳴は喉の奥で潰れ、細い息だけが震える。肩が跳ねる。反射的に身を引こうとするが、その身体ごと後ろから抱え込まれるように持ち上げられた。
視界がぶれる。
毛布が膝から滑り落ちる。
足先が床を掠め、椅子の脚に軽く当たって鈍い音が鳴った。
リリィは目を見開いた。
何が起きているのか理解が追いつかない。
敵。
侵入。
連れ去り。
そんな単語が遅れて頭の中を駆け抜ける。けれど、もがこうとした次の瞬間、押さえつける手の力加減に、ほんのわずかな違和感があった。
乱暴ではない。
強いのに、不必要に痛くはない。
そこで初めて、至近距離にある相手の顔が視界の端へ入った。
赤い非常灯の残り明かりの中。
見慣れた輪郭。
見覚えのある眼差し。
リリィは、息を呑んだ。
その一瞬だけ、抵抗しかけていた身体から力が抜ける。
知っている顔だった。
けれど、その名を口にする前に、相手はもう一度強く「静かに」と言うように唇の前へ指を立てた。
そして次の瞬間、リリィはそのまま部屋の外へと連れ出されていった。




