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平安時代叢書 第十七集 平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~  作者: 德薙零己


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第十四部 平家滅亡

 カレンダーで言うと除目の翌日である元暦元(一一八四)年九月一九日に源頼朝は一通の書状を西国へ発送した。なお、何度も繰り返しているように京都から鎌倉へはどんなに急いでも陸路で半月は要する。海路ならば三〇時間だというのも紀伊半島から相模湾までの最短時間の話であり、いかに情報収集能力に長けた源頼朝とは言え、前日に除目があったことを源頼朝は知らない。カレンダーで記すと鎌倉での源頼朝の行動が京都での除目の翌日となったのは単なる偶然である。

 源頼朝の記した書状の送り先は讃岐国、現在の香川県である。讃岐国は屋島を抱えていることからわかる通り、平家の都落ちからこれまでずっと平家の勢力の強い国であり続けていた。しかし、国内全体が平家一色に染まっているわけではなく、平家を見限ったか、あるいは以前から源氏側であったのか、讃岐国にも源頼朝を選んだ武士たちはいたのである。場所が場所であるだけに平家の圧力が強く源頼朝に対して自らの救援を求めていたのであるが、場所が場所であるだけに簡単に救援を送ることはできない。

 しかし、彼らは鎌倉方が渇望する物を持っていた。

 軍船だ。

 源頼朝は讃岐国の隣国である伊予国、現在の愛媛県の武士である橘公成のもとに海路で向かい、橘公成とともに海路で九州に向かうように命じたのである。所領を捨てるのかという思いもあるが、彼らとて現実問題として源氏の軍勢が船に乗って瀬戸内海を渡って四国にやってきてくれる可能性が高くないことぐらい知っている。一時的に所領が奪われることとなるが軍勢が軍船に乗って航海するのであれば、彼ら自身も、彼らの家族も、彼らの仲間も助かる可能性が高いのだ。それに、自分たちの持っている軍船が鎌倉方で活躍を見せたならば勲功として本領安堵だけでなく新恩給与も期待できる。これは悪い条件ではない。

 橘公成は橘公長の次男である。橘公長はもともと平知盛の家人であり伊予国に所領を保有するという典型的な平家方の武士であったが、治承四(一一八〇)年一二月に平家を見限って源頼朝に仕える御家人となった。橘公成も父とともに平家のもとを離れて鎌倉に赴いたが、そのあとでかつての所領であった伊予国に戻り、西国における源氏方の拠点の一つを形成していた。瀬戸内海における海軍力は平家が圧倒的に優位にあったが、源氏方の海軍力はゼロでは無い。そのゼロではない海軍力の一翼を担っていたのが橘公成である。

 吾妻鏡にはこのときに源頼朝に臣従することを誓い橘公成のもとに赴いた武士たちの名前が列挙されており、彼らの所領がどこにあったのかを調べてみると、綺麗なまでに瀬戸内海沿岸に分散している。彼らは、橘公成に比べれば勢力は弱いものの、源氏方という視点では貴重な海軍力を提供できる環境の所領を保有していたのだ。

 軍船を渇望する源頼朝は、山陽道各国に対して税の減免や全免と引き替えの軍船建造を求めていたが、その他の方法も模索していた。おそらく源義経も絡んでいたと思われるが、京都で源義経に仕えていた豊島有経を紀伊国に派遣して紀伊国で軍船を建造させていることがわかる。ただし、紀伊国にある根来寺の荘園に対して強引に軍船建造を命じたため豊島有経はこのあと根来寺から訴えを起こされている。もっとも豊島有経の子孫はこの後、一族全体で紀伊国に留まり鎌倉幕府の海上戦力で重要な位置を占めることとなる。


 三権分立とは、政治権力を立法、行政、司法の三権に分け、三つの権力が互いに抑制しあって均衡を保つ政治システムであり、現在の日本国をはじめとするほとんどの民主主義国が採用しているシステムである。ただし、三権分立という概念の誕生は一八世紀のモンテスキューに始まり、それまで現在の意味での三権分立は存在しなかった。

 とは言え、権力を分散させることで特定の権力が暴走するのを制御するという概念自体は紀元前から存在しており、有名な例では古代ローマの元老院と執政官と民会との三権分立という例がある。

 現在の意味での三権分立は元暦元(一一八四)年の日本国にはまだ存在しない。しかし、元暦元(一一八四)年一〇月、鎌倉で画期的な政治システムが誕生した。現在の三権分立と比較可能なシステムとも言える。

 鎌倉には既に侍所が存在し、八月二四日には政務組織である公文所くもんじょの上棟式も執り行われていた。本来は公文所と侍所の職掌については重なるところがあり、公文所は侍所の上位互換の組織となっていたが、鎌倉においては、政務は公文所、軍務は侍所という権力分散となっていた。鎌倉における武士の数の多さと、武士の管理統括を考えると侍所の権力強化と公文所からの分離を念頭に置いた権力分散は必然と言えよう。

 これだけでも画期的な権力分散システムであるが、鎌倉では、ここにもう一つの権力を設けることとしたのである。

 それが問注所もんちゅうじょである。現在で言う司法だ。

 現在のように地裁、高裁、最高裁という構図に比べれば未熟であるとするしかないし、弁護士もいないので訴えを起こした側も起こされた側も自分で弁論の場に立たねばならないという構造であり、問注所が担当するのは民事訴訟に限られ刑事訴訟は侍所が担当するという司法システムの未熟もあるが、それでも司法を既存権力から独立させて一つの権力として機能させることにしたのは画期的であった。

 平安京のどこを探しても問注所は存在しなかったが、問注という概念自体は昔から存在していた。「問注」とは訴訟などの当事者の原告と被告の双方から訴えと証拠を審理すること、また、審理結果の文書記録のことであり、問注所となると問注専用の常設の設備となる。

 鎌倉が画期的であったのは、問注所として一つの組織として独立させたことである。平安京での問注は他の政務組織の一部業務でしかなく、問注所、すなわち民事訴訟の審判については既存の建物の一部を一時的に流用していたのに対し、鎌倉は問注所として個別の建物を用意し、既存権力から独立した新しい権力とさせたのである。

 平安京では民事訴訟が起こるたびに設置してきた問注のための施設を鎌倉では問注所として常設することとなったのは、単純明快な理由がある。

 訴訟が多いのだ。

 鎌倉の御家人の所領をめぐる争いが頻繁に起こっており、源頼朝の日常の政務の大部分が所領争いの整理に追われていたのである。揉めたならば源頼朝の裁決を仰ぐが、そうでないならば鎌倉における民事訴訟の専門部署で解決できるようにすれば、源頼朝の日常業務を軽くすることができるし、訴訟から結審に至る期間の短縮を図ることもできる。

 元暦元(一一八四)年一〇月六日、中原広元を別当とする公文所の業務開始。中原広元の兄で京都と鎌倉を頻繁に往復している中原親能のほか、藤原南家の出身であり朝廷で租税管理担当の主計允を務めていた二階堂行政こと藤原行政、京都でキャリアを積むことも可能な文人としての才覚を持ちながら高齢ゆえに鎌倉に留まった足立遠元、有職故実に通じていながら各地を流浪していたところを源頼朝にヘッドハンティングされた藤原邦通、そして、誅殺された一条忠頼の家臣である中原秋家の五名が公文所創設時の実務担当者である寄人よりうどに選ばれた。

 元暦元(一一八四)年一〇月二〇日、三善康信を執事とする問注所の業務開始。なお、公文所や侍所と異なり問注所はトップの役職名称を別当では無く執事としている。三善康信の補佐として、源頼朝の右筆である藤原俊兼と平盛時の両名が任じられた。


 鎌倉方が自分たちの組織体を後の鎌倉幕府につながる政治システムとして拡充させていた頃、西国はキナ臭くなってきていた。

 元暦元(一一八四)年一〇月のいつ頃かは不明であるが、平教盛の率いる軍勢が長門国の源氏を追い落としたことが判明している。一方、日付は判明しているが実際には存在しなかった出来事として、一〇月一三日に平家の軍勢が淡路国に到着したというデマが京都にまで届いている。この噂の影響によるのか、それとも先に行動があったために噂が広まったのかは不明だが、梶原景時率いる軍勢が淡路国に到着したのは記録に残っている。

 京都における唯一の希望となっていたのが源義経だ。ついこの間までその名を知られることすら無かった源義経は、今や京都中から判官殿と呼ばれ喝采を浴びる身となっていたのである。たしかに一ノ谷での戦いや伊勢国の平家の反乱を鎮圧したこと、現時点で検非違使として治安安定を一手に取り仕切っていることなど、源義経を頼りたくなる気持ちは理解できる。

 しかし、調子に乗りすぎた。淡路国に平家の軍勢が上陸してきたというデマの広まる二日前、源義経が院御所と内裏の昇殿を許されたことに対する壮麗な拝賀の式を挙げたのだ。義経は直衣を着て公家としての化粧をし、八葉の紋をつけた牛車に乗り、近衛府の三名の武官と二〇名の騎馬武者を供に従え参内し、宮廷の庭で拝舞の礼をし、殿上に昇り、後白河法皇に拝謁したのである。一つ一つの所作は京都における礼儀に則ったものであるが、これでは源義経が鎌倉の勢力から離れて後白河法皇の勢力に飲み込まれてしまう。

 さらに一〇月二五日には源義経が後鳥羽天皇の大嘗祭に供奉することが公表された。京都における武門の最上位者は源義経であることが内外に公表されたのだ。なお、源義経が後白河法皇に拝謁したときの様子が鎌倉に届いたときの源頼朝の様子を吾妻鏡は書き記していない。この後で源頼朝が源義経に送ることとなる書状を考えると、京都在駐であるためにやむをえぬこととして目を閉じたのだろう。

 一方で吾妻鏡の書き記しているのは、進軍している源範頼に向けての指令である。また日時を遡ることとなるが、元暦元(一一八四)年一〇月一二日に源範頼が源頼朝の命令で安芸国において殊勲のあった武将らに恩賞を与えたことの記録がある。安芸国で恩賞を与えたという報告が一〇月一二日に鎌倉に届いたのではなく、一〇月一二日に安芸国で恩賞を与えたという報告が日時は不明であるが鎌倉に届いたのである。ここまではいい。しかし、そこから先の情報が乏しくなっているのだ。鎌倉の源頼朝から山陽道に向かっているはずの源範頼への情報は送られる。京都の源義経からの鎌倉の源頼朝からの情報も送られる。つまり、山陽道の源範頼と京都の源義経との間の情報が閉ざされてしまっている。

 源義経が情報を意図的に遮断しているなどということはない。その証拠に、源義経にとっては失態としか言えないこと、鎌倉に情報として届けられては困ることも、京都から鎌倉へ情報として届けられている。ちなみに情報の送り主は源義経ではなく別の者である。

 一般に、源義経の勝手な任官に対して源頼朝は怒って源義経を突き放すようになったのだと思われているが、元暦元(一一八四)年の記録を見る限り、たしかに不機嫌にはなっても京都における源義経を源頼朝は頼っているし、源義経も調子に乗ってはいるが基本的に源頼朝の命令に従っている。

 月が変わっても情勢は変わらず、平家がどうやら盛り返しているらしい、源範頼とは連絡が取れない、源頼朝の元に届くのは京都より東の情勢のみで京都より西は何が起こっているかわからない。唯一の例外は梶原景時の郎従が淡路国に上陸して平家討伐名目で荘園の年貢を略奪したらしいという知らせのみ。事実かどうかもわからないが、源頼朝は淡路国に向けて書状を送り事実関係を確認させている。事実だとすれば取り返しのつかない失態だ。


 元暦元(一一八四)年一一月中旬、ようやく源範頼から書状が届いた。

 兵糧不足のためこれ以上の行軍は困難であり、和田義盛をはじめとする何名かの御家人が戦線離脱もやむなしとまで訴えているというのである。前述の梶原景時の年貢略奪は兵糧不足のもたらした結末だったのだ。

 兵糧の現地調達を可能な限り避けてきていた鎌倉方ではあるが、収穫の時期を考えれば正当な対価を用意した上での兵糧の現地調達までであればやむを得ないと考えていた。しかし、略奪は論外である。源頼朝はここで、源範頼の軍勢指揮官としての能力を見限ったとするしかない。兵糧不足まではやむを得ないにしても、兵糧不足を伝えるまでの連絡が遅く、不足した食料を現地での略奪で補おうなどというのは論外にすぎる。源頼朝はここで源範頼から源義経への指揮官交代を検討したようである。位階も得ているため源義経にも総指揮の権限はあるのだ。

 もっとも源範頼の権限をいきなり全て剥奪するのではなく、チャンスを与えている。

 元暦元(一一八四)年一一月一四日、源頼朝から源義経に対して、宇都宮朝綱と小野成綱の両名をはじめとする、平家追討の功績として新たに与えられた所領が西国の所領であるために実効支配できずにいることに対する措置を命じる書状を出した。

 ずいぶんとややこしい話であるが、構図を調べてみれば単純である。

 一ノ谷の戦い以降の平家追討の功績として、御家人たちに平家の持つ所領を分け与えた。ここまではいい。平家の所領は没収であり、没収した平家の所領をどうするのかは源氏で決めることが許されているというのが公的見解だ。

 問題は、与えられた所領が西国であり、今なお平家の実行支配下にある地域であるために、所領を手にしながら所領までたどり着けないでいる武士が多くいることである。宇都宮朝綱と小野成綱はその代表だが、その他にも多くいた。その処遇を源義経に任せるわけであるが、言うは易し行うは難しである。平家の所領を分捕って約束通り土地を渡すか、あるいは他の土地を渡すかという選択肢があり、その選択肢を源義経が決定するわけだ。そして、後者の選択肢を現時点での源義経は行使できない。

 これがおよそ一〇〇年前の後三年の役における源義家であったら自らの所領を分けて与えるところであるが、忘れてはならないのは、このときの源義経には自前の所領が全く無いことである。たしかに公的地位は手にしたが、武士としてはあくまでも源頼朝に仕える一人であって源義経個人の裁量でどうにかなる所領はない。

 ゆえに、方法は一つ、平家を討ち破って平家が実効支配している所領を渡すこと。

 ただし、源義経に京都を出て平家を討ち破れと言っているわけではない。既に平家討伐軍は源範頼が指揮して西国に向かっており、彼らが平家を討ち破ればそれで問題なし。あとは所領を予定通り渡せば済む。

 これは源義経に課されたミッションであると同時に、源範頼に与えられたラストチャンスでもあるのだ。

 行軍路の兵糧の略奪については源範頼に責任を負ってもらうことになるが、それでも平家討伐の完了とプラスマイナスすることで負うべき責任を軽くすることもできるし、源頼朝が全ての損害を弁済することで民心掌握も可能となる。そのためには源範頼がいかにして早々に平家を討伐するかが問われる。源義経に課されたミッションは源範頼の補佐をいかにするかである。

 現時点の役職を考えると源義経に京都を出るという選択肢は存在せず、あるとすれば朝廷が検非違使としての源義経に出動命令を下したときに限られる。こう書くと讃岐国司に任命した一条能保が令制国内の治安維持を名目として検非違使である源義経に出動命令を出せるのではないかとの疑念が浮かぶであろうが、数多くの検非違使の一人であったならばまだしも、京都における唯一の希望となり、後鳥羽天皇の大嘗祭に供奉するまでに名を上げた源義経を京都から連れ出すとしたら、国司の請願ではどうにもならず、最低でも院宣が発せられないと通用しない。そして、源義経の出発を命じる院宣が出される気配は全くない。ゆえに、源義経は京都に留まりつつ源範頼と連絡を取り、源範頼が戦場で勝利を手にできるよう京都から協力することが求められることとなる。

 源義経が無理難題を言いつけられていることを京都の人は知った。しかし、その無理難題は源範頼が平家を討ち破ることによって解決することも知った。平家に対する反感を強めることで京都における平家への同情者を減らし反平家の世論を喚起するのである。

 源頼朝はさらに世論の喚起を生みだした。

 後鳥羽上皇の大嘗会の興奮も覚めやらぬ元暦元(一一八四)年一一月二八日、源頼朝が平家没官領である若狭国遠敷郡玉置領を園城寺に寄進すると表明。さらに月が変わった一二月一日には近江国横山を園城寺へ寄進することが発表になった。こうした突然の園城寺復興計画は、園城寺が平家によってどのように破壊されたかを思い出させるのに充分であり、京都における平家への憎しみを醸成させる効果も生み出した。

 こうした園城寺を利用した世論喚起は元暦元(一一八四)年一二月三日に一つのピークを迎える。この日、京都に上った北条時政から源頼朝が園城寺に帰依したことが公表されたのである。これには長年に亘って園城寺と対立してきた延暦寺にとって寝耳に水の話であるが、これには裏がある。帰依するのは平家によって破壊された寺院だからであり、復興も平家による破壊からの復興のためであると伝えられたのだ。いかに延暦寺が園城寺と対立してきた歴史を持っていても、平家によって灰燼に帰した園城寺を見て平然としていられる人はそうはいない。源頼朝が平家による破壊に心を痛めているという姿勢を示すことの意味を理解し、延暦寺は動きを見せなかった。


 元暦元(一一八四)年一二月七日、ついに山陽道で源平双方が全面衝突した。これまでにも小競り合いはあったし、平家方のゲリラ的な攻撃もあった。しかし、詳細な記録の残る軍勢と軍勢の正面衝突となると一ノ谷の戦い以来である。いわゆる三日平氏の乱、すなわち、伊賀国や伊勢国で平家が反乱を起こして源氏と全面対決したではないかと考える人もいるであろうが、平家の残党が立ち上がったものであり、平宗盛や平知盛ら平家の本隊が源氏の軍勢と正面衝突した戦いではない。極論すれば、平宗盛は伊勢国や伊賀国での反乱勃発を知っていたであろうが、それと平家方の戦略とは全く無関係であったとすら言えるのだ。

 ところが、一二月七日の全面衝突は違う。平清盛の次男である平基盛の長男、すなわち、平清盛の孫で平宗盛や平知盛の甥である平行盛が率いる軍勢の話だ。源範頼の率いる鎌倉方の軍勢が山陽道を進んでいるのは平家側も理解しており、山陽道は以前から平家の家人が荘園を手にしていたこともあって源氏と平家が戦うとなったら平家側として戦う武士の数多くいる土地である。平家にしてみれば自分たちの勢力範囲を源氏方が土足で踏み込んできたことになるため、いかに四国屋島に本拠地を構えていようと山陽道を放置するなど許されない話であった。

 源氏の軍勢は山陽道各地に武士を残すように行軍している。進軍した経路の各地を通過ではなく占領中のままとするというのは王道と言えば王道であるが、戦力と物資に余裕があるときに限られる上に、残していた戦力がどこまで機能し続けることができるかという問題に加え、残した個々の戦力が孤立ではなく連携となる必要がある。残した個々の戦力の間で連携することで情報の適切なやりとりと物資の融通、そして、作戦に則った軍事行動を起こすことが可能となる。

 源範頼は失敗した。

 戦力の機能という点ではギリギリでどうにかなったにしても、個々の戦力の間の連携の構築に失敗したのである。それが源範頼からの連絡の遅延であり、兵糧不足である。

 平家物語に従えば、占領地の各所に軍勢を残したとしても源範頼のもとには三万騎からなる軍勢がいたという。また、この三万騎という数字は吾妻鏡も記している。もっとも、平家物語の人数の誇張はいつもの通りであるし、吾妻鏡の記述も完全無欠ではない。ただ、三万騎は誇張でも源氏の軍勢は多かったのは事実である。だから兵糧不足が起こったのだ。

 源氏の軍勢が山陽道の各所に点在し、かつ、相互の連携が取れていないことを見逃すほど平家は甘くない。富士川の戦いでは戦闘前に平家側の兵糧不足が起こったが今回は源氏方に兵糧不足が起こっている。しかも、場所は平家側の勢力圏であり、平家側に現地の情勢を知る者の多い山陽道だ。こうなれば平家は極めて簡単に源氏を追い詰めることができる。

 兵糧攻めだ。

 地元を熟知しているからこそ、どこを封鎖すれば源氏の軍勢への物資搬入が閉ざされるかをわかっている。しかも源氏軍は大軍だ。大軍となればなるほど必要とする物資も多くなり、物資搬入が閉ざされたときのダメージも大きくなる。

 平家が狙ったのは備前国藤戸、現在の岡山県倉敷市藤戸である。二一世紀の現地を眺めてもイメージは湧かないが、地形を眺めると当時の地形の痕跡は読み取れる。この時代の藤戸は海沿いで島が点在している地形であり、平家は平行盛に五〇〇騎ほどの兵を率いさせて備前国児島の篝地蔵かがりじぞうに城郭を構えさせたのである。篝地蔵のあたりは今でこそ多少の高台である地形なだけだが、この当時は海の中に浮かぶ島々の中の要塞であった。この要塞から軍船を出して源氏の物資供給路を封鎖して源氏軍を兵糧攻めにするのが平家の作戦であった。

 この作戦に対して立ち向かったのが佐々木盛綱である。

 以下は吾妻鏡における記載である。

 佐々木盛綱は波が激しく船もないために平家が海上を制圧しているが、海は深くなく、浅瀬を辿れば藤戸から篝地蔵まで船に頼らず移動できることに気づき馬に乗ったまま五〇〇メートルほど浅瀬を進んで篝地蔵に到着し、篝地蔵を攻略したという。なお、吾妻鏡にはこのときに平行盛を追い落としたとはあっても討ち取ったとは書いていない。城郭を陥落させて兵糧攻めの危機を脱したのはその通りでも、篝地蔵の平家の軍勢は海に出て四国屋島へと逃れていったため、平家の人的被害はさほど大きくなかったと推定される。

 ところが平家物語になると残酷なエピソードとなる。

 先に記しておくが、平家物語の以下のシーンは事実ではない可能性が高い。なぜ断言できないのかといえば、このシーンを記しているのが平家物語の、それも全てのバージョンの平家物語ではなくごく高野本をはじめとする一部のバージョンのみの記載であり、かつ、吾妻鏡によると元暦元(一一八四)年一二月七日の出来事とされているのが平家物語の高野本版だと九月のことにされているからである。しかし、残酷ゆえにカットしたのを平家物語の高野本だけが消さずに残していた可能性もある以上、断言はできない

 どのようなエピソードか?

 源範頼の軍勢が藤戸に陣を敷き、平家軍は五〇〇艘ほどの兵船を備前国の児島に配備した。源平両方の間には二キロから三キロほどの距離で海が拡がり、平家の軍勢から小舟がやってきては海上で扇を掲げ源氏軍を挑発してくる。この扇を打ち落としてみろというのだ。

 そんな中、佐々木盛綱が地元の漁師の一人を呼び寄せ、当時としては高級品である衣服を報奨として与える代わりに、馬が渡れる場所を聞き出した。漁師は、深くても肩口までの深さしかない浅瀬があることを佐々木盛綱に教え、佐々木盛綱は漁師とともに夜闇の中を実際に泳いで渡ることができることを確認した。

 漁師と二人で浅瀬までたどり着いた後、遠回りになるがこれよりさらに南にもっと浅い箇所があると聞き、これならば馬で渡ることができると確信した佐々木盛綱は、この秘密が他者に漏れてはならないと案内してくれた漁師をその場で刺し殺して首を切って捨ててしまった。

 日が昇った後、佐々木盛綱らが馬に乗って浅瀬を進んだのを見た源氏の軍勢は佐々木盛綱らの後を進んで馬を走らせて平家のもとへと突入。平家は海に船を浮かべて弓矢で対戦しようとするも多勢に無勢の状況となり四国屋島への敗走を選んだ。

 これが平家物語の一部の版のみに存在しているエピソードである。

 なお、地元の漁師を殺害した佐々木盛綱に対する憎しみから、漁師の母が佐々木盛綱の名に通じる「笹」を山から全て引き抜いたため、以後、この山には笹が生えず、笹無山と呼ぶようになったという言い伝えがある。現在も笹無山とされる山は岡山県倉敷市に存在するが、実際に訪れてみても山と言うよりは数メートルの盛り土としか見えない。ただし、その盛り土のそばにある伝承を記した看板は、息子を殺された母の怒りが今なお残り、その内容は残酷な内容である。

 この戦いを藤戸の戦いという。数字だけを見れば源氏が数の力で平家を圧倒した戦いということになり、平家物語の伝えるエピソードによると残酷極まりない場面となるのだが、もう一点、着目すべきポイントがある。

 藤戸の戦いは源平合戦における本州最後の戦いなのだ。

 これで山陽道の完全性圧となったわけでも、平家の本州からの駆逐となったわけでもないが、源頼朝は佐々木盛綱の功績を称えるとして、一二月二六日に報奨として児島を領地として与えている。


 藤戸の戦いから功績を挙げた佐々木盛綱への報奨までの間に、京都で一人の政治家が引退を決めた。

 権大納言平頼盛である。

 元暦元(一一八四)年一二月一六日、後白河法皇が八条室町にある平頼盛の邸宅に御幸して、摂政近衛基通の春日詣での行列を見物した。娯楽が現在と比べてはるかに乏しいこの時代、祭礼のために貴族が行列を作って出かけるときの様子を眺めるのも立派に娯楽として成立していた。貴族としても自分の移動が娯楽の素材とされているのは理解しているので、できる限り行列に鮮やかな装いをする。最高の馬を用意して最高の装飾を施した行列を作るのが通例だ。そして、後白河法皇という人はこうした庶民の娯楽を率先して楽しむ人であり、行列を眺めるのに最適な邸宅を選んで御幸することは珍しくない。

 しかし、このときは二つのポイントがあった。

 一つは春日詣であること。春日詣そのものは藤原摂関家の人間が、特に摂政や関白、あるいは藤氏長者である人間が京都を出発して奈良の春日大社へと参詣をすることであり、摂政である近衛基通が春日詣でをすること自体は何らおかしくはない。しかし、南都焼討から三年、奈良は災害からの復旧から生活の復興へと軸足を移しつつある局面であったことを考えるとこのときの春日詣が古式に則った行列であるだけに、ここ近年の戦乱から平穏を取り戻すという余計に強いアピールを生み出す。

 そして、後白河法皇が平頼盛の邸宅に赴いたことは平頼盛に一つの決心をさせる契機にもなる。平頼盛の政治家引退だ。五三歳で第一線から退くのはこの時代でも早いが、平頼盛に向けられている視線を考えるとこれ以上権大納言として議政官の一員であり続けるのは無謀であった。鎌倉方の代弁者としての役割は吉田経房が果たしてくれることはもう証明できていた。平頼盛の子のうち長男の平保盛と次男の平為盛は治承三年の政変の前から官職に就いている。ここで三男の平光盛の官界デビューが確約できるなら平頼盛としては政治家を辞すことも何ら不都合は無い。厳密に言えば平光盛の場合は二人との兄と違って平家の権勢下で官職と位階を獲得していたのを平家都落ちで失っていたのを父の政界引退と引き替えに取り戻すこととなるが、平頼盛の視点に立てば、それまで懸命にこなしていたのを終えるときの口実として受け入れることが可能な理由となる。

 また、平頼盛の政界引退については源頼朝からの書状も来ていた。既に平頼盛が心身ともに限界であることは鎌倉の源頼朝のもとにも届いていた。五三歳での政界引退は早すぎるが、吉田経房が後の業務を引き受けることができると判明したならば、ここで無理して平頼盛を議政官に留めさせる必要はない。

 それに、源頼朝は新しく官職復帰することとなる平光盛も計算できた。源頼朝はこの頃にはもう源義経を源範頼の軍勢のもとに派遣することを考えていた。こうなると源義経の代わりに京都の治安維持と、京都と鎌倉の間の情報連携の窓口を引き受ける人材が必要となる。その人材として平光盛は計算できた。

 元暦元(一一八四)年一二月二〇日、平頼盛、権大納言を辞任。同日、平光盛が右近衛少将に就任した。源義経が軍勢を率いて源範頼の軍勢の元へ向かったのちに空白となる京都の治安維持の任務、そして、公的地位にある者による京都と鎌倉との間の情報連携の窓口の確保はこれで目処が立った。

 ただし、一点極めて大きな難点がある。年齢だ。

 平光盛は元暦元(一一八四)年時点でまだ一四歳である。いかに元服を迎えているとは言え、また、キャリアを積んでいるとは言え、それまでのキャリアは平家の権勢下での平家の幼児への過剰な厚遇であり、事実上はこれからのキャリアスタートである。


 年が明けた元暦二(一一八五)年一月六日、鎌倉の源頼朝から西国の源範頼への書状を送る使者が出発した。既に前年一一月から源範頼の軍勢から個々に窮状を訴える連絡が届いており、その実情を把握させて源範頼から送らせた結果が届いたからである。

 すでに兵糧不足の件については確定事項であるとして源頼朝は船便で東国の兵糧を源頼朝の元に届けようとしていたのであるが、現地からの報告は源頼朝の予想をはるかに超えた悪状況であったのだ。戦線離脱を訴える声が挙がっていることは情報として届いていたが、もはや軍勢として成立しなくなっているというレベルで混乱しているというのである。以前から源範頼の総指揮官としての能力に疑念を持っていた源頼朝は、これで完全に源範頼の罷免を検討するようになった。とは言え、源頼朝の弟であるという一点を考えると、現時点の軍勢で源範頼以上に軍勢指揮の正統性レジティマシーを持っている人物はいない。軍勢指揮の正統性レジティマシーを血縁に頼るとすれば源義経が候補者として挙がることとなるが、源義経を京都から離して軍勢に向かわせるには時間を要する。最終的には源義経を送り込む必要があるが、それまでの間の対処については何としても検討する必要があり、その検討の結果がこの日に鎌倉を発つこととなった書状だ。

 源範頼からの訴えは兵糧が不足していることと戦線離脱を訴える御家人が出ていること、そして、馬の不足であった。

 これに対する源頼朝からの返答は一〇個存在し、その上での作戦指示を出している。

 まず、九州の武士たちにしてみれば源氏方に立つと宣言したとしても面識の無い軍勢がやってくるのだからそう簡単に従うわけにはいかないのだから、あれこれ騒がず落ち着いて行動し、現地の人に憎まれないよう行動せよと注意している。

 次に源範頼の訴えた馬の不足については、途中で平家に奪われる可能性が高いとして拒否するとした。兵糧が奪われるなら周囲の人たちの生活苦が改善されることになるので、源氏の軍勢のダメージはあるものの、政治家として捉えるなら最終的なダメージにはならない。しかし、馬が奪われたとあっては源氏の総大将の失態となるだけでなく、平家の軍勢強化につながってしまう。

 三番目に、足利盛家が周防国遠石、現在の山口県周南市遠石でやらかした略奪については論外であると断じている。なお、足利盛家のことも周防国での略奪のことも源頼朝の手紙においてはじめて登場しており、何月何日頃に起こったのかは不明である。なお、略奪について源頼朝が激怒したことは容易に想像できる。それが源範頼や源義経の身の破滅を招くきっかけとなったのであるから。

 四番目に挙げているのが安徳天皇や二位尼平時子を絶対に傷つけず保護することである。そうでないと二位尼平時子などは安徳天皇を道連れに死を選んでしまう可能性が高いとしている。残念ながら源頼朝が手紙に記した内容は当たってしまう。

 五番目に記したのは四番目との対比をなしている、平宗盛への処遇である。平宗盛は臆病者なので自ら死を選ぶなどしないだろうから、生け捕りにして京都へ連れてきて見せしめにせよとしている。そうしたほうが平家の評判をさらに下げるというのが源頼朝のアイデアだ。

 六番目に九州の武士たちを屋島攻撃に参加させるように命じている。鎌倉から派遣した武士だけで平家を討ち取るのではなく、全国から集まった反平家の武士が協力して平家を討ち破るのだという図式を源頼朝は求めている。

 七番目に、情勢はたしかに平家が不利になっているが、敵を侮ってはならないと釘を刺している。以仁王の令旨以降の戦闘を振り返ってみても、多勢に無勢とされながら多勢であるほうが敗北を喫した例は数多い。そして、多勢に無勢というシチュエーションで言うと今は源氏のほうが多勢である。

 八番目に朝廷への対応である。朝廷を揺るがすような大問題は起こすなという厳命であるものの、これについては抽象的な書きぶりになっている。

 九番目に千葉常胤を述べている。より正確に言えば千葉常胤を派遣するほどの重要な任務なのだと述べ、源範頼の奮起を促している。

 最後に、現地の人たちが源氏の軍勢に降伏してくるようなことがあれば大切な客人としてもてなすように命じている。

 以上の一〇点の回答を述べた上で、源範頼には豊後国の船を調達できれば九州から四国に向かって軍を進めるよう命じている。同時に、二月一〇日頃には関東から派遣した船を到着させられる見込みだとも伝えている。

 しかし、源頼朝はもう一つの命令も遂行させていたのだ。


 元暦二(一一八五)年一月八日、源義経が平家討伐のために京都を出発することを後白河法皇に奏上した。出発を願うのでは無い。出発すると報告するのである。

 二日後の一月一〇日、源義経が平家討伐に向けて出発した。ただし、その数はわずかに一五〇騎である。この少なさに多くの人は源義経が平家討伐に向かったことを信じることができず、平家討伐を口実として京都近郊の平家の残党を討伐するのだろうと考えた。実際、源義経が京都を出て西へ向かって進んだという知らせは届いたが、その次の知らせは和泉国から届いた、現地で暴れている武士を検非違使として源義経が討伐したという知らせである。京都から讃岐国屋島に行くのに摂津国に向かったというならわかるが、和泉国に向かったというのは意味不明である。さらに意味不明なのは、この後の源義経の動静が全く不明になることである。

 この意味不明さは平家の側にとっても同じであった。一ノ谷の戦いの前を思い出せば源義経という人が武人としては行方をくらます人であるというのは知識としてならば理解できるが、讃岐国屋島の平家を討伐するとして京都を出発しながら和泉国に向かい、そこから先の消息が失われた。

 一方、消息が掴めるようになったのが源範頼である。もっとも、消息が掴めてはいても順調というわけではない。

 元暦二(一一八五)年一月一二日、源範頼が周防国から長門国赤間関、現在の山口県下関市の下関港付近へと軍勢を進めて、関門海峡を渡って九州へ渡海しようとしたが、その途中で止められてしまった。

 彦島に平知盛が軍勢を構えていたのだ。源範頼の軍勢は平知盛らの軍勢に行く手を阻まれて船と食料の調達がままならず、軍勢を九州に向けるどころか赤間関から身動きできないまでになり、以前から軍勢離脱を公言していた和田義盛にいたっては脱走して鎌倉へ向かうことまで考えた。

 彦島は現在の山口県下関市の最西端に浮かぶ島であるが、この島への定期航路は無い。しかし、最盛期には三万人以上の人口を擁し、現在も二万人を超える人口を持つ島である。定期航路がないのにこれだけの人口を抱えることができるのはどういうことかというと、本州と橋でつながっているのである。現在でも関門トンネルは下関駅から鉄橋で彦島に渡った後に、彦島で地下に潜って北九州市の門司区で地上に出るという構造になっている。地図で見れば彦島は間違いなく島であり九州と本州との間に海峡が存在するのだが、現在は事実上、一つにつながった経済圏を構成している。ただしこれは現在の建築技術がもたらした地図であり、この当時は、本州と四国と彦島との間にあるのは海で、船に乗らなければ移動できない位置関係にあった。この位置関係にあるからこそ、関門海峡の出口を封鎖している彦島を平家が占拠していることは本州と九州との間の連携を平家が封鎖できることを意味する。

 源範頼にしてみれば九州まで目と鼻の先なのにもかかわらず平家のせいで身動きできなっている状態である。かといって軍勢を組織して彦島に渡って平知盛を討ち取ることはできない。船が無いのだ。現在のように橋が架かっているわけではなく、海も深いので馬で一気に渡るのも無謀だ。つまり、船を操ることのできる平家が小舟に乗って徴発して弓矢を放って地味にダメージを与えるのに源氏としては弓矢で応戦するより他に対策はとれず、兵糧不足もあってただただ不快な思いにさせられるだけであった。

 このまま地味に攻撃を受け続け消耗させられるまま源範頼らが赤間関から身動きでできなくなってからおよそ半月を経た一月二六日、情勢が一気に源氏方に流れた。豊後国の武士団を率いる臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が八二艘からなる船団を率いて源範頼のもとを訪問し、同日、周防国宇佐郡から宇奈木遠隆が兵糧米を献上したため源範頼の軍勢は一息つくことができ、いったん周防国へ退却した後で彦島の平家の軍勢を避けるような航路をとって豊後国へと船出した。

 吾妻鏡はこのときに源範頼とともに九州へ上陸した面々の名を例の如く列挙している。以下は吾妻鏡に帰されている御家人たちの名で、記載順は吾妻鏡での記載順そのままである。

 北条義時、足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、中原親能、千葉常胤、千葉常秀、下河辺行平、下河辺政義、浅沼広綱、三浦義澄、三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、渋谷高重、比企朝宗、比企能員、和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、加藤景廉、工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品坊昌寛、土佐坊昌俊、小野寺道綱らである。


 源範頼の軍勢は豊後国、現在の大分県に向かって船を進めたはずである。ところがその次の記録が不可解である。元暦二(一一八五)年二月一日、源範頼の軍勢から北条義時、下河辺行平、渋谷重国、ならびに、吾妻鏡には名前が記されていない品河清実らが最初に上陸して平家方の原田種直と賀摩種益との親子の率いる軍勢と対戦したのであるが、その場所が筑前国葦屋浦、現在の福岡県遠賀郡芦屋町だ。

 戦略としてならわかる。現在の福岡県遠賀郡芦屋町は北九州市の西隣にある港町で玄界灘に面している。彦島を制圧している平家が関門海峡を制圧したために源氏の九州上陸を阻んでいたのが、今や立場が逆転して彦島の平家を源氏が包囲する形になったのだ。無論、いかに豊後国の臼杵惟隆と緒方惟栄の兄弟が船を用意してくれたと言え海上戦力だけで言えばこれで五分だ。平家方の妨害を受けることなく兵力を輸送することができるが、海戦を挑んで平家を殲滅させることができるかというと、断言はできない。それに、彦島は平家の一部が陣を敷いている基地であり、本拠地では無い。無理して彦島に攻め込む必要はないのだ。

 それでも、これで長門国、豊前国、筑前国が源氏の手に落ち、関門トンネルの無いこの時代は海路で移動するしかなかった本州と九州の間も、源氏自身の保有する船で自由自在に移動できるようになったことは大きく、平家はさらに自らの勢力圏が狭まったことを自覚させられることとなった。

 ただし、源氏方も九州に上陸して平家勢力から九州北部を奪取し、彦島を逆に包囲する体制を構築できたといっても、それより前に存在する大問題の前にはどうにもならなかった。

 兵糧不足だ。

 兵糧不足の中で無理して軍勢を西国へと進めて九州上陸を果たしたところで、九州だけが豊作で兵糧不足とは無縁の土地であるなどという甘い話はなく、九州もやはり食糧問題が存在し続けていたのだ。いや、情勢としては本州よりも九州のほうが深刻かもしれない。山陽道は源範頼の軍勢が通過するだけであるし、残存部隊がいると言ってもその軍勢はさほど多くない。攻め込まれようと防衛はできるというぐらいの軍勢であり前年の収穫や今年度の収穫見込みが厳しくてもどうにかなるぐらいの数だ。一般に地域の総人口の二パーセントまでであれば職業軍人として地域で抱え込むことが可能と言われており、源範頼が残存させた兵力もこの規模であったろうと推測される。

 一方、九州に乗り込んだ源範頼の軍勢は、平家物語や吾妻鏡の数字の誇張をそのまま信じるならばという条件がつくが、当時の九州の人口と比しても過剰である。平家討伐完了までの一時的な措置であると言っても地域の人口で抱え込むことのできる人数を超える軍隊が常駐するとなったら、常駐そのものが困難な話となる。端的に言えば軍隊が食べていくことのできるだけの食糧を確保できなくなる。

 源範頼からの兵糧不足を訴える知らせが鎌倉の源頼朝のもとに届いたのは、吾妻鏡によると元暦二(一一八五)年二月一四日のことである。九州上陸の日付から逆算すると尋常ならざる早さであるが、源範頼が比較的早い段階で九州の食糧事情を把握して早期に使者を鎌倉に向けて派遣したとすれば納得はできる。その前日には武田信義の五男である武田信光から源頼朝の元に書状が送られてきており、そこには現地の飢饉と船舶不足から九州上陸は困難であり、安芸国に一旦引き返す予定であることが記されている。実際には九州に上陸しているので九州上陸が困難というのは豊後国からの船舶支援が届く前の話であり、武田信光からの書状も長門国赤間関に閉じ込められている間に記された書状であろう。

 さらに鎌倉と京都と西国の前線との間の情報連携速度の問題が起こって源頼朝が情報を発したときにはもう現地の情勢が激変しているという現象が珍しくなくなる。

 源頼朝は源範頼に対して、九州での戦線維持が不可能であれば、九州から四国に出向いて四国屋島の平家を攻撃するよう指令を送ったと同時に、源義経に対しても讃岐国屋島を攻撃するよう命令を下した。特に源範頼に対しては、平家の面々が、それも武士だけではなく女子供に至るまで長きに亘って都を離れて流浪生活を過ごしているのに対し、源氏の武士はこんな短期間の陣中生活も耐えられないのかと苦言を述べている。ただし、食料が無くてもどうにかするようになどというふざけた精神論などは語っておらず、兵糧は確実に届けるからそれまで待つようにとは伝えている。

 ところが、源頼朝からの指令が届く前に源範頼は兵糧不足を理由として九州から離脱して周防国に撤退し、源義経に至っては平家攻撃のために京都をとっくに出発しており消息不明となっていたのだ。

 後白河法皇のもとに源義経の所在が判明したのですら二月中旬に入ってからと思われ、後白河法皇からの使者が源義経のもとに到着したのは二月一六日に入ってからである。

 この所在不明の間に源義経が何をしていたのか。これが判明するのが二月一九日のことである。


 元暦二(一一八五)年二月一六日、源義経率いる軍勢が、摂津国渡辺、現在の大阪市の京橋のあたりに到着。平家物語によると、このとき後白河法皇からの使者である高階泰経が源義経の元にやってきたという。高階泰経が源義経に求めたのはただ一つ、京都への帰還だ。前年の三日平氏の乱で行方不明となっている伊藤忠清が再び軍勢を組織して京都に攻め込んでくる可能性があることを嘆き、京都とその周辺から武力が喪失してしまっているので源義経に戻ってもらわなければ治安維持が図ることができないというのが後白河法皇からの通達であった。なお、後白河法皇からの通達について権中納言吉田経房は、伊藤忠清の脅威は否定しないながらも後白河法皇が抱いているほどの脅威ではないことを日記に記している。その代わりに、源範頼の軍勢のもとにある兵糧が尽きるのが目に見えていること、長くても三月まで、下手すれば二月中に兵糧が尽きてしまうことへの懸念を記しており、早期に平家討伐を完了させなければならないことを認めている。

 源義経は後白河法皇からの通達を拒否して四国屋島に船で渡ることを決めていた。自分の後任には右近衛少将に就任している平光盛がいる。都落ちに帯同しなかったとはいえ平家の一員であることが気になるのかもしれないが、治安維持を念頭に考えるならば平家の武力は信頼を置くことができる。讃岐国屋島に攻撃を仕掛けるのは国家反逆者となった面々への対処であり、その多くは平家の者であることは認めても平家の全てが国家反逆者となったわけではない。平家の一員であっても平家都落ちに帯同せずに都に留まった者、あるいは鎌倉に赴いた者は討伐の対象ではなく、そうした平家の武力は信頼を置けるという理屈は成り立つ。たとえそれが空虚な建前であろうと。

 平家物語は源義経の出港時における一つのエピソードを挿入している。

 一つは、四国に向けて出港する前、自分たちには海戦経験がないことから梶原景時が船に逆櫓さかろを設置するべきだとしたエピソードである。源義経が逆櫓とは何かを梶原景時に尋ねると、梶原景時から帰ってきた答えは船を右へも左への後ろへも進ませることのできるであるという。これに源義経は激怒した。戦いというものは最初から逃げ支度をするものではなく、そのようなものを設置したければ梶原景時の船にだけ設置すればいいとし、源義経の船にはそのようなもの不要だとしたのである。これに対する梶原景時の答えは、良い大将軍とは駆けるべきところは駆け、退くべきところは退いて身の安全を守って敵を滅ぼすものであり、ただ攻めるしか考えないのは猪武者いのししむしゃといって褒められたものではないというものであった。これを源義経は鼻で笑った。いのししだか鹿かのししだか知らないが、戦いとは、攻めて、攻めて、攻め抜いて勝つものが最高なのだというのが源義経の意見だ。このあとで二人はいつ殴り合いになるかわからない対立となり畠山重忠が梶原景時を抑え込んで争いを止めたとするのが平家物語に挿入されている逸話である。

 ただし、このエピソードは完全に嘘である。なぜ嘘と言い切ることができるのかというと、このとき梶原景時は源範頼の軍勢に加わって行動していたからで、この頃は九州から脱出したかどうか、どんなに急いだとしても現在の広島市のあたりに到達できていたかどうかであり、源義経の出港時に現在の大阪市にいたのはありえないからである。大阪市福島区にはこのエピソードがあったことを示す石碑があるが、その石碑のあたりから源義経が出港したであろうことまでは同意できても、源義経と梶原景時との言い争いがあったとは同意できない。

 ただし、もう一つのエピソードは源義経であればやりかねないエピソードである。

 暴風が吹き荒れている夜中に強引に出港させたというエピソードである。

 源義経は地元の漁師から船を調達し、武器を積み、武具を積み、兵糧を積み、馬を乗せた。こう書くとどうと言うことのないエピソード、せいぜい勇猛果敢さを示すエピソードに思えるが、源義経は地元の漁師の舟を奪い、漁師を無理矢理船に乗せて出港させたのだ。対価を払って船を借りるどころか、船を奪い、漁師を拉致したも同然の有様で出港したのである。

 地元の漁師たちである。このときに吹いている風がいかに危険かは熟知しているし、出向に全く向いていないことも理解している。熟知も理解もせず、対価を用意することもなく強引に出港させたのは源義経の方である。出港して死んだとしても前世の報いであり宿命である。おまけに強風が吹き荒れているといっても向かい風ではなく追い風だ。暴風だろうとなんだというのが源義経の主張だ。しかも、出航に反対する者は弓矢で一人残らず射殺せというのだから、これでは軍事行動だとか以前に強盗団のやり口だ。

 地元の漁師たちは、海に出て死ぬのか、それとも弓矢で殺されるのかという最低最悪な選択を迫られ、だったらまだ生き残ることのできる可能性がある出港を選ばざるを得なくなった。

 ただし、源義経は一つだけ合理的なことをしている。船の上で炎を灯すことができる箇所の全てで篝火かがりびを灯させたのである。どうしても少数になってしまう船の数を少しでも多く見せるためであるが、結果として、他の船との目印になって航海できるようになった。そのおかげもあってか、通常は三日を要する海路をわずか一日と四時間で航海。

 なお、平家物語には三時みとき、すなわち六時間ほどとあるが、吾妻鏡では丑刻に出発して卯刻に到着したとあり、現在の時制に換算すると夜中の二時頃に出港して早朝六時頃に到着したこととなる。つまり、わずかに四時間だ。いかに追い風でスピードが出せたとしても通常は三日を要する航行距離を四時間で到着できた、あるいは六時間で到着できたというのはあり得ない。そこで九条兼実の日記を見ると、二月一六日に出港し、二月一七日に阿波国に到着したと書いてある。つまり、二月一六日の丑刻に出港して二月一七日の卯刻に到着したとすればおかしくない。


 さて、平家物語によると航海に適さないタイミングでありながら源義経が航海を強行させたことになっているが、これは否とするべきである。というより、綿密に日付を決めた上での行動であったと考えるべきである。そうしないと辻褄が合わないのだ。さらに言えば、失踪していた間に源義経が何をしていたのかの答えもここにある。

 平家の本拠地である屋島は現在の香川県高松市にある。

 一方、源義経の到着したのは阿波国の勝浦、現在の徳島県小松島市である。平家物語によると源義経はどこに到着したのかわかっておらず、到着してみると平家の赤旗がはためいていたので早速攻撃し、生け捕りにした敵兵の中から一人選んで土地の名前を聞くと、土地の名前が勝浦だと答えたというエピソードになっている。そしてこう付け加えている。これからの戦いを考えると縁起の良い地名であると。


 平家物語には源義経が阿波国を目指して出港したとは書いておらず、漂着したら阿波国であったと書いてある。しかし、源義経がどこから出港したのかを考えると源義経は最初から阿波国を目指して出港したと、それも元暦二(一一八五)年二月一七日に到着するという前提で航海したとしか考えられないのである。紀伊半島から出港したのなら阿波国に到着するのはわかるが、淀川河口から出港して阿波国に到着したのであるから、大阪湾を出港して南西へと進み、淡路島と紀伊半島との間にある紀淡海峡を越えた後に船の針路を西南西に変更して小松島湾に到着したと考えるべきである。これは偶然に偶然が重なった結果ではなく、最初から計算した結果とすべきである。

 どういうことか。

 平家とて讃岐国屋島の自分たちのもとに攻め込んでくる源氏の軍勢があることはわかっている。そして、海軍力では平家のほうが上回っている以上、源氏の軍勢はいきなり四国屋島に船で襲い掛かってくるのではなく、讃岐国のうち屋島から離れた場所、あるいは伊予国や阿波国に上陸し、陸上で戦列を整えてから陸路で讃岐国屋島に攻め込んでくることは考えられる。特に阿波国は京都から四国へやって来るルートとして最初に考えられるルートだ。

 そもそも淡路島の「あわじ」の語源は「阿波国への道」である。

 畿内から阿波国に行くには陸路で明石まで行き、明石海峡を渡って淡路島北部に到着したのちに陸路で淡路島を縦断し、淡路島の南部から鳴門海峡を渡って上陸するのが通例である。本来の南海道として定義されているルートは畿内から紀伊国の加太まで行き、淡路国由良まで海路で横断した後に淡路島を陸路で横断してから阿波国に船で渡るというルートであったが、平安遷都によって都から紀伊国に出るまでのルートが長くなってからは、陸路で明石に向かうルートが一般的になっていた。

 現在でこそ明石海峡大橋や鳴門海峡大橋が架かったことから陸路のみで移動できるようになっているが、この時代は本州と淡路島、淡路島と四国との間は海で離れていてどうしても船に乗らなければならず、瀬戸内海の航行や大阪湾の航行、あるいは渦潮に直面する可能性のある鳴門海峡の航行は琵琶湖の航行より航海の危険性が高い以上、物資ではなく人間が京都から阿波国に行くにはできる限り陸路で行くのが通例であった。そして、この時代における淡路島を経由するルートは京都から阿波国へ行く最も使われるルートであるだけで無く、京都から四国へ行くのに最も使われるルートでもあった。

 つまり、平家にしてみれば源氏の軍勢が淡路島を経由して阿波国にやって来ることは充分に考えられるのだ。

 源義経がこれを理解しないわけはない。淡路島を通ろうものなら平家に自分たちの手の内が読まれてしまう。ゆえに、淡路島に渡るという選択肢は外される。

 となると、淡路島に寄港しないで航海することとなるのはおかしな話では無い。それも、暴風であるために航海に適していないタイミングにあえて出港するのであるから二重の意味で平家の裏を狙うこととなる。暴風については偶然であるが時期については計算通りであり、源義経が到着した土地の名を勝浦と知らなかったことは考えられても、到着したのが徳島平野であることは知っていたはずである。


 平家物語にも吾妻鏡にも四国に渡った源義経の軍勢は一五〇騎であったと記している。普通に考えると少なすぎる数字であるし、平家物語も吾妻鏡も数字の誇張はいつものことであるから実際にはもっと多い数字であったろうとも思えるが、平家物語や吾妻鏡の記す一五〇騎という兵力は決して勝算の無い数字では無い。

 これは平家の防備状況を考えればわかる。

 平家がいかに讃岐国屋島に本拠地を構えているといっても、屋島に籠城しているわけではない。屋島はたしかに守るに適した土地であるが、屋島にいるのは安徳天皇と三種の神器であり、平家は安徳天皇と三種の神器を守る存在であると自負している。ゆえに、安徳天皇と三種の神器を危険にさらしてまで屋島に籠城するのではなく、屋島に向かって進撃してくるはずの源氏の軍勢を途中で迎え撃つ責務がある。特に、四国に向かって船を進めている源氏の軍船に対して瀬戸内海の海の上で迎え撃つことができれば海軍力で勝る平家に充分に勝機がある。

 ただし、海上で迎え撃つには難点がある。監視しなければならない範囲があまりにも広くなり、個々の拠点に配備できる兵力が乏しくなる。源義経が阿波国に上陸した段階で、平家の兵力の七割以上が屋島から離れて行動しており、讃岐国と阿波国に展開している平家の軍勢を合わせると一〇〇〇騎に達するかどうかであったという。しかも、個々の拠点ごとに一〇〇騎から一五〇騎を分散して配備していた。無論、拠点間の情報連携は取れるようになっているので、源氏の軍勢が上陸したという知らせが届いたならば近隣の部隊を援軍として派遣するぐらいの仕組みは作ってある。

 源義経が上陸した勝浦は平家の軍勢が配備している箇所の最南端であり、かつ、平家は城を構築していた。城と言っても江戸時代や戦国時代の城と比べると稚拙に感じるが、それでも三方を沼に囲まれ、残る一方には堀が設営されている堅牢な要塞になっており、防備の最南端として申し分ない陣容である。しかも、阿波国勝浦にあった城を守っていたのは田口良遠であり、兄の田口成良は平家の有力家人で平家が都落ちをする前は四国における最大の武士団を組織し、平家の都落ちのあとは讃岐国屋島に内裏を造営するなど四国における平家の有力武人であった。田口良遠は何かと兄と比べられる宿命を持っていたが、兄を支える有力武士であり、平家からの信頼も厚いものがあった。ここまでを考えると源義経の上陸地点としては相応しくないように思える。

 だが、大軍を率いることができていた兄と違い、田口良遠が守ることとなっていたのは源氏の到着する可能性などまず無いと考えられていた徳島平野、しかも、それでも堅牢な城を築いたものの、城で守っているのは一〇〇騎ほどの軍勢である。それがこの時点の平家の用意できる阿波国勝浦の防衛の人数の限界であったのだ。

 おまけに田口良遠の脳裏に自分が平家の前線に立って源氏の進軍に備えている意識は無かったとも言ってよく、知識としては知っていても事実上は無関係と思っていたと考えられる。そもそも上陸地点に選ばれるとは思っていなかった上に、航海に適した天候ではなかったからだ。その裏を突いて登場した源義経の軍勢の前に田口良遠は抵抗を見せたものの、源義経の軍勢の前に劣勢となったことで城を捨てて逃走した。

 逃走と言っても、味方の軍勢のいる場所に向かっての逃走である。源義経が上陸したと喧伝しながらの逃走は四国各地に配備された平家の軍勢に途中で迎え撃つ準備をさせることを可能とさせることを意味するのであるが、源義経はここでも裏を突くのだ。

 源義経はまず阿波国府を制圧したのち、軍勢を北に向け、現在のJR高徳線沿いに北上していった。ここまでは平家側の想像の範囲内であるが、そこから先は平家の想像を超えていた。阿波国と讃岐国との国境でもある大坂峠、現在のJR高徳線板野駅から阿波大宮駅を経て讃岐相生駅に至るルートを越えるには普通、まずは南の麓である板野駅のあたりで一泊して朝を迎え、一日がかりで大坂峠を越えてその日の夕方に讃岐相生駅のあたりに到着できるかどうかというのが当たり前であり、源義経もそれぐらいのペースでやって来るだろうと睨んでいたのである。

 ところが源義経は、夕方に板野駅のあたりに到着したら休むことなく徹夜で大坂峠を越えて夜が明ける前にはもう峠を越えていたのである。平家物語によると二月一八日の寅刻、現在の時制に直して午前四時頃に讃岐国引田、現在の香川県東かがわ市引田に到着して人馬を休息させたとある。最短距離で屋島に向かうことだけを考えれば、阿波国勝浦から讃岐国引田までの最短ルートである。源義経は讃岐国引田で三時間ほどの仮眠と軽めの朝食をとっただけでさらに馬を走らせて讃岐国を進軍。昼間はともかく夜もずっと進軍し続け、これもまた徹夜で二月一九日に屋島の目前まで到着したというのが源義経の屋島への行軍路だ。

 ただし、陸路だけでなかった可能性もある。阿波国勝浦に到着したのは二月一七日でその日のうちに阿波国府を制圧し、峠を越えて讃岐国引田に到着したのが二月一八日の午前四時頃である。ここまではいい。しかし、讃岐国引田から讃岐国屋島に至るまでに経由した地点として判明しているのは、丹生屋にふのや白鳥しろとりの二箇所のみ。他の記載からの推測でも志度を経由したであろうことが推測されるのみで、何れもこの時代の海岸線における港町だ。讃岐国引田から讃岐国屋島はおよそ四〇キロメートルあり陸路で移動できない距離ではないが、海路のほうが時間を稼ぐことができる。

 おそらくであるが、源義経は陸路を主としながらも海路でも軍勢を移動させたのであろう。源義経のこの後の戦い方が、陸路だけで移動してきた軍勢が繰り広げることのできる内容の戦いではないのだ。その内容については後述する。

 なお、源義経はこのとき、一ノ谷の戦いの前でもやらかしたことを四国でもやらかしている。悪辣と評するしかないが、夜の進軍において源義経は通り道にある民家を燃やしながら移動したのである。特に屋島の付近に到着したら屋島の周辺の民家に平然と火を放ち、夜闇に乗じて平家が大軍で押し寄せてきたと思わせ、屋島近辺の平家の武士たちは源氏の軍勢が陸路でやってきた、それも大軍でやってきたことと考えてしまい、我先に船に乗って避難をはじめるまでになってしまったのである。

 さらに源氏の軍勢は浅瀬を通って屋島に攻め寄せ、屋島に築いていた内裏に火を放った。

 ここに屋島の戦いが始まった。


 先に田口良遠が逃走するに際し、源氏の軍勢がやってきたと喧伝しながら逃走したと記したが、逃走した先々にはもう源義経がやってきていた。しかも、屋島まで到着したときにはもう屋島に源義経の軍勢がいて、屋島の内裏が燃えていたのである。源義経のスピードの前には平家が構築していた拠点間の情報連絡網など無意味であった。

 それに源義経が来ていることを喧伝することは、平家の軍勢にとって行動を起こすきっかけになると同時に、平家に従っていない軍勢についても行動を起こすきっかけになる。源義経は自らを消息不明とさせている間に四国在駐の武士に書状を送っていたのだ。この人は自らの軍勢を、自らの書状で現地において集めることのできる人だ。書状を記す能力もあったからというのは理由の半分でしか無い。源義経には検非違使大夫尉という公的地位が存在し、源義経の軍勢は官軍として行動している。源義経に従えば官軍の一員としての恩賞が期待でき、逆らえば国家反逆者として処罰される対象となる。そうでなくとも戦況そのものが平家不利で源氏有利となっている。ここで官軍たる源氏の一員となり勝ち馬に乗るのはおかしくない選択だ。

 一方、慌てて船に乗り込んだ平家の軍勢が目の当たりにしたのは燃えさかる屋島の内裏、そして、源義経のあまりにも少ない軍勢だった。その、あまりにも少ない軍勢が屋島に築いていた内裏を燃やしたことに平家の武士たちは我に返り、兵力差で圧倒できることに気づいた。

 屋島を守っているのは平宗盛であり、平知盛は関門海峡の彦島にいるため不在である。平家物語では無能と扱われることの多い平宗盛でも、自分たちの軍勢のほうが多いこと、ここで慌てて逃げなくとも源氏の軍勢を打ち負かすことはできる兵力差であることはわかる。平宗盛は全軍に対し引き返して源氏の軍勢に挑むように命令した。

 なお、このときにかなり下品な言い争いをしている。

 今日の源氏の大将は誰であるかという平家方からの問いに対し源氏方からは源義経が大将であると伝えたら、こうなった。

 平家の郎等である平盛嗣は「平治の乱で父親が殺されて孤児になって、鞍馬で稚児をやって、金商人の荷物運びをやって東北に逃げていった小物ではないか」と源義経のことを嘲笑。これに対し源氏方の伊勢義盛からは「そういうお前等は砺波山で無様に負けて物乞いをしながら京都に逃げてった奴らじゃないか」と返す。これに怒った平盛嗣は「俺らみたいな金持ちが物乞いなどするわけなかろう。そういうお前は鈴鹿山の山賊じゃないか」と言い返し、この悪口の奥州に嫌気を抱いたか金子親範が「根拠も無い悪口を言い合ってどうする。一ノ谷で武蔵や相模の武勇を思い出せ」と弓を引き絞って矢を放ち、平盛嗣の鎧を打ち抜いて倒したという。

 これが始まりとなり悪口の応酬から弓矢での応酬がはじまった。

 源義経にしてみれば明らかに多勢に無勢であるが、源氏は渡り合うことができた。多勢に無勢であっても奮闘したからではなく、消息不明の段階で源義経が展開し、行軍路を陸路だけとしなかった結果の策が実行されたからである。

 源義経は四国にいる武士たちに、元暦二(一一八五)年二月一九日に屋島に到着するように伝え、源義経の軍勢が間違いなく進んでいることを示すために陸路だけでなく海路でも軍勢を移動させたのである。さらに、山陽道に展開している源範頼の軍勢からも二月一九日に到着するよう伝えていた。ちなみに、このときに源範頼の軍勢から派遣されて船に乗ってやってきたのが梶原景時である。おそらく、逆櫓のエピソードを生んだのも屋島において梶原景時がいたことがきっかけとなって発生したものであろう。なお、梶原景時が屋島に到着したのはもう少し後とする記録もあるが、そうなると兵力差を埋めることとなった理由が説明できなくなる。

 これにより兵力差は源氏方が逆転した。ただし、源氏の軍勢には弱点があった。たしかに屋島まで船でやってきたが、海軍力そのもので言えばまだ平家のほうが上回っている。そこで、源氏の軍勢は海戦を最初から検討せずにいち早く上陸して陸戦に持っていこうとし、実際に陸上に展開する源氏の軍勢を増やしている。

 海上であれば平家有利であるが、海上からの上陸戦で陸上での戦闘となると平家が不利となる。平家は上陸戦を諦めて再び船に乗って海上で源氏と対峙することを選んだ。

 陸上戦に持っていきたい源氏と海上戦を挑みたい平家との間で膠着状態となり、二月一九日の戦闘は夕刻を迎えたことで一時休戦となった。


 このとき、屋島の戦いでもっとも有名なエピソードとして那須与一が登場する。

 平家から女性を載せた船がやってきて、船には赤地金丸の平家の日の丸があしらわれた扇が掲げられていた。この扇を射貫いてみよというのである。平家の誘いに対し源義経は弓の名手である那須与一を指名し、那須与一の放った矢が見事に扇を射落としたというエピソードだ。

 那須与一のエピソードが本当にあったのかとなると、実際のところは怪しい。そもそも那須与一のエピソードについて記しているのが平家物語と源平盛衰記だけであり、吾妻鏡をはじめとする他の資料に那須与一のエピソードは存在しないのである。それに、史実であったとしても、なぜ平家はこのようなことをしたのかという疑念が生じる。全くの無意味ではないかと。

 ところが、平家の立場に立つと無意味ではないのだ。

 まず、平家にはまだ余裕があることを見せつけるための挑発としての意味がある。陸上戦では劣っているが海上での戦いなら平家が有利であるというアピールは、源氏を悔しがらせると同時に平家を鼓舞できる。屋島の戦いそのものだけを見れば、平家はたしかに押され気味ではあるが一ノ谷の戦いのように負けているわけではない。翌日以後の戦闘で勝てる見込みはわりと高いのだ。

 また、扇を射落とすことができるかどうかが占いにもなっている。射落とすことができれば源氏の勝ち、失敗したら平家の勝ちという占いであり、ただでさえ波で上下に揺れている船の上に掲げられている扇だ。那須与一からの距離はおよそ七〇メートルあったとされており、射落とすとなるとかなりの技能が要求される。この時代の弓矢での殺傷能力は一五メートルほどの距離が限度だが、このときは殺傷までは求められていない。扇に矢を当てれば良いのであるから七〇メートルという距離は無茶を要求されているわけではない。理論上は。

 現実的に考えると極めて難しいことを平家は要求しているのである。遠距離に扇を掲げて射落としてみよというのは平家圧倒的有利で、源氏は失敗するだろうという挑発が含まれた上での占いであり、それでいて完全に無理であるわけではないので源氏にも成功の可能性が少しはあるのがキモだ。源氏が挑まなければ源氏の臆病を笑い、源氏が失敗したら源氏の失敗を笑い、成功したら互いに見事と誉め称え合うという、どう転んでも平家有利の挑発であり、平家にしてみれば平家の勝利となると平家の軍勢に対してアピールできるのだ。

 ここで一つのヒントとなるのが前年一二月の藤戸の戦いである。このときも平家軍は海上に船を並べて陣を敷き、小舟を差し向けては海上で扇を掲げ源氏軍を挑発した。たしかに藤戸の戦いは浅瀬を狙って攻めてきた源氏の軍勢に敗れたが、ここ屋島は平家の本拠地であり、陸についても海についても平家は熟知している。挑発に源氏が乗って失敗したら儲けもの、成功したらそのときは相手を誉めでもすればそれで済む話だ。

 つまり藤戸の戦いのときにも示した平家が圧倒的優位にある挑発を屋島でも繰り返したのである。

 これに対して源氏からは那須与一が弓矢の名手として推され、那須与一はみごとに扇を射落とすことに成功した。藤戸の戦いでは扇を掲げる挑発に源氏は乗らなかった、あるいは、挑発に乗ろうとしても挑発に乗った場合のリスクが大きすぎた。成功すればいいが失敗したら大恥だ。しかし、屋島の戦いでは平家から言われた源義経への罵詈雑言があり、その上での挑発だ。その挑発を那須与一が見事に打ち砕いたというのが、人口に膾炙されるところの那須与一のエピソードである。

 ところが、平家物語にも源平盛衰記にもその後がある。那須与一が扇を射落とした後、平家の側から一人の中年が船に乗って扇の掲げられていた場所まで船を走らせ船の上で踊ったところを、伊勢義盛が弓矢で射殺したのだ。船の上で踊るところまでは那須与一の弓矢の技芸を平家が褒め称えたという武士道精神の発露であったのだが、その人物を射殺したとなると大問題となる。これに源平双方とも騒然となり、本来であれば夕方になったことでの休戦どころか再び戦闘になってしまったのだ。

 礼儀を考えれば明らかに源氏の無礼である。だが、挑発したのは平家のほうだ。それも罵詈雑言を繰り返した上で平家圧倒的有利の挑発をしておいて、成功したらしたで相手を誉めたらそれで済むと考えたのはさすがに浅慮というものだ。しかも、船の上での舞は都の上流階級の嗜みであって粗野な東国の武士にはできないであろうという揶揄の意味もある。相手を誉めるのに自らが上流階級で相手が粗野だというアピールも込めたのであるから、称賛を装った挑発なのだ。弓矢を手にしたのは源義経ではなく伊勢義盛だと考えるかも知れないが、伊勢義盛は源義経の指示で矢を放っているのである。つまり、挑発という無礼に対して源氏も無礼で返したというところだ。

 無礼の応酬で再発してしまった戦闘は完全に日が暮れるまで続き、夜になったことでようやく戦闘は収まった。なお、源義経が海に弓を落としたので戦闘そっちのけで慌てて海に浮かぶ弓を拾い上げたというエピソードはこのときのものである。源氏の武士は屈強でなければならないのに、源義経は自分の弓がさほど強力ではないことが平家方に知られたくなかったので戦闘よりも弓を拾い上げることを優先させたのだという。


 源義経の四国上陸からの行動を考えると、ここまでまともに眠っていないことが読み取れる。そのためか、この日の戦闘が終わり、日が暮れた後で多くの兵士たちが眠りについた。ところが、源義経と伊勢義盛の二人は眠ることなく敵襲に待ち構えていた。実際に平家は夜襲を仕掛けようとしていたのであるが、夜襲計画そのものを立案できず夜襲をする前に朝を迎えたため夜襲は失敗に終わっている。

 平家はここで屋島からの完全撤退を考えた。既に屋島の内裏は焼かれた上に、源氏の軍勢が続々と増えてきていることから屋島に籠城することは自滅を意味する。籠城戦で勝機を掴むことができるのは包囲をしている側のほうが補給を断たれて包囲を解くというケースであり、海上戦力だけで見れば平家側はなおも有利であるが、源氏の軍勢が陸路でやってきているということは四国の陸路を源氏が制していること、すなわち、海上補給を平家の軍勢で封じても源氏の軍勢に対する補給路を封じることにはならないことを意味する。それならば海上戦力が有利であることを活かして屋島から脱出し、平知盛らが陣を構えている関門海峡の彦島に向けて出港し、平家の軍勢をより強固な物として源氏と渡り合うほうがまだ勝算はある。

 特に重要なのは安徳天皇と三種の神器を避難させることである。このまま屋島に留まって源氏の手にかかって安徳天皇の命にかかわる話になったら、あるいは三種の神器が失われるような話になったら、源氏の失態でもあるが、安徳天皇と三種の神器を守っているという平家の建前が崩れてしまうのである。

 ただし、撤退を見抜かれてはならない。あくまでも屋島に留まって源氏と対戦しているという構図を崩さないまま安徳天皇と三種の神器を関門海峡まで避難させなければならないのだ。

 平家は一部の軍勢を源氏に攻撃させるために四国に留め、残る軍勢を関門海峡に向けて出発させた。

 ただし、平家の軍勢は一目散に関門海峡の彦島に向かったわけではない。九条兼実の日記を追いかけると平宗盛が安芸国厳島に到着したという報告が京都に届いていること、備前国小島や伊予国五々島などに分散していること、周防大島などに援軍を要請していることが窺えることから、平家の逃走ルート上で天皇と三種の神器の滞在が可能な場所を考えると、安徳天皇と三種の神器、ならびに平家の女性たちは平宗盛とともに厳島に一時的に滞在し、平家は安徳天皇と三種の神器を守るための軍勢を厳島に残しつつ、他の武士を瀬戸内海沿岸各所に派遣して援軍を要請していたというのが自然なところであろう。

 そしてもう一つ、絶望を命じられる平家の武士たちもいた。

 二月二一日、屋島を脱出した平家の軍勢が屋島の東南にある讃岐国の志度にいるとの情報が源義経の元に届き、源義経は全軍から八〇騎を選抜して源義経自身とともに志度に向かわせた。これは完全に源義経にも漏れている計画であった。平家の軍勢の本隊は関門海峡に向かって航海しているが、一部の軍勢が讃岐国志度に移動しているというのが源義経の掴んでいた平家の作戦だ。

 屋島から志度へ海路で移動するのは現在であればかなり遠回りになるが、この時代の海がどこにあったかを考えるとさほど困難では無い。

 源義経にしてみれば、屋島から関門海峡方面へと向かっている平家の軍勢を追いかける必要がありながらも目の前に平家の軍勢の一部が残存していることとなる。一部だけであるとは言え平家の軍勢を放置することは許される話では無いが、かといって全軍で志度に向かってしまっては陥落させた屋島をもう一度平家に奪い返されてしまう可能性もある。

 源義経はかなり警戒して志度へと向かった。志度に残っているのは平家からの選りすぐりの、命を賭して平家のために残る勇者たちである、はずであったのだ。

 ところが実際にはそうではなかった。志度に着いた源義経が目の当たりにしたのは死を命令されて志度に放置された人たちであったのだ。九州に連れて行ってもらうこともできず、志度に放置されたままあとは死を迎えるだけになっている人たちの目はただ虚空を見つめるだけであり、源義経の到着にはついに自分たちが死ぬ時を迎えてしまったのかという思いであったのだ。もはや抵抗する意思も意欲も失った彼らに対して源義経は自軍に加わることを条件に命を奪わぬことを約束し、志度に残されていた平家の軍勢のトップであった田口教能をはじめとする志度の武士たちは源義経の元へと降ることとなった。このときに田口教能が源義経の元に降ったことが一ヶ月後に大きな意味を持つこととなる。

 同日、伊予国で水軍を率いる河野通信かわのみちのぶも源義経の元に降り、源義経は軍船と兵力を手に入れた。

 ここに屋島の戦いは完全に終わり、四国は源氏の支配下に置かれることとなった。なお、二月一九日の戦いのみを屋島の戦いとし、二月二一日については志度の浦の戦いと称すこともある。


 屋島の戦いの結末が京都に届いたのは九条兼実の日記によると元暦二(一一八五)年二月二七日のこと、鎌倉まで届いたのは吾妻鏡によると三月八日のことである。なお、源義経からの連絡にあるのは平家を取り逃したことであり、安徳天皇や三種の神器についての記載は無い。

 翌三月九日、今度は源範頼からの書状が京都に届いた。兵糧不足を訴える内容と、和田義盛らが鎌倉に戻ろうとするのを無理に引き留めていること、また、熊野別当の湛増が朝廷から追討使に任命された上に源義経とともに讃岐国へ進軍し、さらには九州へ向かうという噂が広まっていることの嘆きである。四国を源義経が制圧したのはまだいい。自分が九州、弟が四国という役割分担だ。熊野別当の湛増がやって来るとなると面目丸つぶれであるという嘆きの手紙であった。

 ここで熊野別当の湛増について記しておかなければならないことがある。

 熊野別当の湛増が四国に向かうという噂の初出は元暦二(一一八五)年二月二一日で、この日に源義経と熊野別当の湛増が阿波国へと渡海したという噂が京都に広まった。この噂を源頼朝は否定した上で源範頼に対して事実無根の噂であるとの返書を出したが、実際には既に官軍の一員として熊野水軍を派遣することを決めていたと思われる。というのも、この後の源義経の軍勢の中に熊野水軍が存在しているのである。

 湛増が熊野別当に就任したのは前年一〇月のことで、熊野別当に就任した直後から源平双方より自軍に加わるよう誘いがあった末、紅白二羽のニワトリを戦わせて白いニワトリが勝ったので熊野として源氏方に味方することを選んだというのが平家物語におけるエピソードであるが、このエピソードの信憑性は薄い。そもそも熊野そのものの存亡に関係する話を闘鶏で決めるなど無責任にも程があるし、元暦元(一一八四)年一〇月の時点では既に情勢が源氏有利になっていることは誰の目にも明らかとなっていたのである。ここで平家に味方するなど組織のトップに立つ人間として許される決断ではない。

 平家物語の数字の誇張はいつものことだが、ここで熊野別当湛増が熊野水軍を率いて源氏に加わったことで源義経は三〇〇〇艘を超える海軍力を手に入れたこととなる。ただし、熊野水軍が二〇〇艘で、河野通信かわのみちのぶが一五〇艘なのに合計三〇〇〇艘というのだからこれは計算に合わない。熊野水軍と河野通信かわのみちのぶとを合わせて合計五〇〇艘がどうにか捻出できた海軍力であろう。

 一方の平家側の海軍力を平家物語は一〇〇〇艘ほどであるとしているが、九条兼実はその日記に、四国屋島から関門海峡へと逃れていった船が一〇〇艘ほど、さらに彦島にいる平家の海軍力が三〇〇艘ほどであるとしている。右大臣九条兼実は現地にいたわけではなく伝聞での数字を書き記しただけなので実数ではない可能性が極めて高いが、それでも実際の海軍力となるとこれぐらいであろう。

 源頼朝はこれから間もなく最終決戦を迎えることを理解していたが、如何せん鎌倉と関門海峡との間の距離は長すぎるし、情報連携速度も当時としては異例のスピードであってもリアルタイムではないという問題がある。

 元暦二(一一八五)年三月一二日に兵糧米を積んだ船を九州に向けて出港させたのである。出港地は伊豆半島であるから、太平洋沿岸を航海する長距離航行となる。源範頼の兵糧不足を嘆く言葉を捉えると、源頼朝の命令による兵糧搬出は妥当なものと言える。

 さらにその二日後には、源氏軍の総大将である源範頼に対して、平家討伐は慎重を期して安徳天皇の身の安全と三種の神器の奪還を最優先とするように命じた書状を鎌倉から出発させている。

 しかし、現地では大きく情勢が動いていた。

 源範頼も源義経も平家討伐の最終決戦は間もなくであることを理解していたのだ。


 讃岐国屋島を陥落させた後で源義経は平家の最後の根拠地である関門海峡に向かった航海をスタートさせている。ただし、源義経のいつものことであるが、この人は途中で行方をくらませる。いや、この場合は途中ではなく最初からとするべきか、二月一九日に四国屋島を陥落させ、二月二一日に讃岐国志度で平家の残党を味方に引き入れたところまでは判明しているのであるが、そこから先の消息が喪失し、次に源義経の消息が判明するのがおよそ一ヶ月後の三月二一日なのだ。ここではじめて、源義経が周防国大津島に到着していること、源範頼との共同戦線を張っていることが判明したのである。

 三月二一日の記録も、周防国から出港しようとしたが大雨のため出港できないで延期となったこと、また、周防国で船の管理をしている在庁官人の五郎正利が数十艘の船を献上したため、源義経は五郎正利を鎌倉の御家人にするという文書を与えたという記録である。

 同じ頃、源範頼は現在の下関市にあたる赤間関と、関門海峡を渡った門司の双方に陣を構え彦島を包囲していた。さらに、大津島から目と鼻の先にある周防国府には三浦義澄が滞在しており、関門海峡への入り口への監視役にもなっていた。ただし、彦島の監視には成功していても、また、関門海峡の入り口への監視も可能とさせていても、平家の海軍力を止めることはできなかった。せいぜい関門海峡を通る船に対して弓矢を仕掛けることができるかどうかである。そのため讃岐国屋島から逃れてきた平家の艦隊の彦島入港を許してしまっている。

 というタイミングで源義経が艦隊を率いて周防国までやってきた。さらに大津島に寄港して現地でさらに船団を構成する船を増やしている。源氏の作戦はこれで決まった。源義経が艦隊を率いて関門海峡へと進んで彦島の平家の軍勢を閉じ込め、陸地で陣を構えている源範頼の軍勢が彦島に一気に襲い掛かって平家との最終決戦に挑むというものだ。ただし、関門海峡の情勢は陸だけを見ると源氏が圧倒的に優勢であるが海に視点を移すと平家も負けてはいない。船の数だけを見れば源氏のほうが上回るようになったが海上戦の経験となると源氏は完全に欠けている。源義経のもとに熊野水軍をはじめとする経験ある海上戦力が加わったとはいえ、海上戦闘経験を考えると源氏としては海での戦闘は避けたいところであり、源義経はあくまで平家の軍船を封鎖することが求められた。

 源範頼と源義経との間で使者が行き交い、陸と海とで協力し合う形での関門海峡封鎖に向けて動き出した。元暦二(一一八五)年三月二二日、周防国より出発した艦隊が関門海峡入り口の奥津に入港。最終決戦への準備が着々と進んでいった。ただし、この段階で到着してきているのは三浦義澄の率いる先遣隊であり、源義経率いる艦隊の本隊はまだ到着していない。


 陸海双方での関門海峡封鎖を狙う源氏の動きは平家の側にも読み取れていた。そして、平家の側がそこまで自軍にとって不利になる状況を唯々諾々と受け入れるわけはない。これから封鎖されようというのに抵抗しないほうがおかしい。そして、兵力の優劣を考えると陸上戦力で劣っている平家の軍勢が活路を見いだすとすれば海上だ。動員できる艦隊を全て動員して関門海峡を埋め、封鎖しようとしている源氏方の艦隊を突破して瀬戸内海に戻るというのが平家側の選択肢である。

 平家は源氏がかなり無理して艦隊を編成したことを理解している。ここで源氏の艦隊を打ち破って瀬戸内海に戻ることができれば、安芸国厳島をはじめとして今も残る平家の勢力のどこかを陸上の根拠地として京都への復帰を目指すことも可能となる。何と言っても平家には安徳天皇がいて三種の神器もあるのだ。

 平家は源氏の艦隊を壊滅させ瀬戸内海へと戻るために艦隊を出動させ、関門海峡東部の瀬戸内海側、いわゆる「壇ノ浦」に向けて動き出した。元暦二(一一八五)年三月二三日の夕刻、平家の艦隊が壇ノ浦を埋めるように配備を終えた。

 同日、源義経の率いる艦隊も関門海峡入り口に到着。平家物語の中にはここで源義経と梶原景時との間で合戦の先陣について互いに自分が立つと言い争い、梶原景時が源義経に対して大将自らが先陣に立つなどとは、源義経は大将の器ではないと言えば、源義経は我らが大将は源頼朝であり自分は配下の一武人でしかないと言い返し、殴り合いどころか刀を抜いての一触即発の事態になったというエピソードを掲載している版もあるが、多くの版はそのようなエピソードを掲載していない。平家物語は何かと梶原景時を悪役とするところがある。

 この時代の戦闘は、不意打ちもあるが、事前に戦闘開始を告げてから開始することもある。相互に陣形を敷いて向かい合っているときというのは戦闘開始を告げてから開始する典型的なケースだ。このようなときは、鏑矢を放つことでこれから戦闘を開始すると告げることとなる。このルールは陸上であろうと海上であろうと関係ない。

 もっとも鏑矢を放って戦闘開始を告げてから攻撃を開始するのがルールであろうと、源義経が特に顕著であるが、鏑矢など関係無しに夜闇に乗じて攻撃を仕掛けることは珍しくなく、壇ノ浦に船を浮かべて向かい合っていても相手がいつ攻撃をわからない状態のまま時間だけを経過させていた。壇ノ浦に浮かぶ船の上の人たちは船に乗ったまま、相手がいつ夜闇に乗じて攻撃を仕掛けてくるかわからないまま夜を過ごして朝を迎えたこととなる。双方の船の距離は三町、メートル法にすると三〇〇メートルほどしかなく、強めの弓を引き絞ることができる者ならば火矢を放って相手方にダメージを与えることも不可能ではない距離だ。

 また、平家軍にとっては正面に船を並べている源氏の艦船だけでなく、関門海峡の両岸に陣取っている源氏の軍勢も気になるところである。特に門司には源範頼が陣を敷いていることが船の上から確認でき、こちらもまた火矢を放てば船に届きそうな距離である。

 一ノ谷の戦い、屋島の戦いと、源義経はルール無視の攻撃や、ルールの範囲内ではあっても想定を越える奇襲攻撃を仕掛けてきた人物である。その人物が夜闇に乗じて何かしでかしてくるかも知れないという恐怖は平家の軍勢に広がっており、朝を迎えたときは寝不足よりもむしろ安堵の声が挙がったほどである。

 ただし、安堵の声はすぐに現実に引き戻された。

 日付が変わって元暦二(一一八五)年三月二四日の朝、現在の時制にして午前六時頃、源平双方から鏑矢が放たれ戦闘開始が告げられたのだ。

 源平合戦の最後を飾る壇ノ浦の戦いの始まりである。


 平家は関門海峡の潮の流れを熟知していた。また、平家の作戦は源氏の艦隊を突破して瀬戸内海に出ることなので、平家の攻撃にとって重要なのは源氏を倒すことではない。瀬戸内海へ向かって航海しようとする源氏の艦隊がいるなら倒すが、倒すことなく突破できればそれでよい。

 平知盛が中心となって立てた平家の作戦は、潮の流れが南西から北東、すなわち関門海峡から瀬戸内海へと向かう流れになる時間帯に平家の全船に進軍命令を出し、弓矢で源氏方に攻撃を仕掛けつつ中央突破を図るというものである。そのため平家は全軍の半分を山鹿秀遠に率いさせて前線に突入させ、九州の水軍である松浦党が全軍の三割を率いて第二陣を構成して安徳天皇と三種の神器の乗っている、ということになっている船の前に立ちはだかって防御する。その後ろを平知盛の率いる全軍の二割の艦隊が最後尾を守るという構成であった。

 一方、源氏にとってはこれが最初の海戦である。海戦に限定すると経験の差で源氏が不利となるのは源義経も源範頼も理解しているが、海の上だけで戦いを終わらせなければならないという決まりは無い。それに、平家の艦隊が源氏の艦隊を突破して瀬戸内海に出るのを目論んでいることは源氏方も理解している。また、源氏はここで安徳天皇を救出して三種の神器を無事に取り戻し、平家を完全に討ち取ることを最終目的としている。ゆえに、源氏の艦隊を突破させずに関門海峡に平家の艦隊を釘付けにさせない状態にするほうが最終目的を果たしやすい状況となる。

 潮の流れは関門海峡から瀬戸内海に向かっている。源氏の艦隊にしてみれば船の進行方向と真逆の流れであるため、船を操りにくい。そうでなくとも平家の艦隊の半分が一気に突っ込んできており、平家の艦隊からは弓矢による攻撃が容赦なく仕掛けてきているのである。源氏方もここまでは想定通りであり、陸上から平家の艦船に向けて矢が放たれている。

 この段階で平家の損害はゼロではないが、損害でいうと源氏のほうがはるかに損害を被っていた。情勢は明らかに平家優位であった。

 ところが正午頃になると情勢は逆転する。平家物語によるとこの頃になって潮の流れが変わったとしている。潮の流れが逆転し、瀬戸内海から関門海峡へと流れるように変わったというのが平家物語の伝える話であり、大正時代に黒板勝美氏が提唱して以降、多くの研究者が潮の流れの変化を源氏の起死回生の契機としている。しかし、この説に反対する研究者もいる。たとえば細川重男氏は、潮の流れではなく源義経が採用した作戦が源氏の起死回生の契機であったとしている。

 源義経はどんな作戦を採用したのか?

 卑怯千万と言うしかない作戦である。

 船を操る水手かこに向けて矢を放つように命令したのだ。

 武士同士の戦いが海の上や湖の上で繰り広げられることはこれまでにあった。そして、そのときはマナーとして、船を操る水手かこは攻撃から免れていたのである。矢を放ちあうわけであるから流れ矢が当たってしまう水手かこならばいた。しかし、水手かこを狙って矢を放つなどあり得なかった。

 そのあり得ないことを源義経は命令した。


 水手かこを失った平家の艦船は動きを止められてしまった。

 動きを失った船は源氏からの攻撃を受けるだけの存在になってしまったのだ。

 源義経の作戦を卑怯千万と貶そうと、平家の艦船の動きは既に止まってしまった。

 それでも平家には奥の手が存在していた。

 源氏の最終目的は安徳天皇と三種の神器である。ならば、源氏のもとに安徳天皇と三種の神器が渡らないようにし、生き残った水手かこを集めて安徳天皇と三種の神器を乗せた船に戦線を離脱させれば源氏は最終目的を果たせないこととなる。

 平家の艦隊の中には皇室の方でなければ乗ることが許されないであろうという豪勢な御座船ござぶねがあった。誰もが御座船に安徳天皇と三種の神器が乗っていると考え、源氏の船は御座船ござぶねに向けて船を進めていたのである。

 平知盛は源氏のこの動きを読んでおり、安徳天皇と三種の神器、それに二位尼平時子と建礼門院平徳子を普通の武士が乗る平凡な船に乗せ、御座船ござぶねには屈強な武士たちを乗せていたのである。普通に考えれば源氏は安徳天皇と三種の神器を見つけることができず、その間に安徳天皇と三種の神器は戦線を離脱できるはずである。

 自分たちは安徳天皇と三種の神器が逃走できるまでの時間をいかにして稼ぐかというのがこのときの平家に課せられていた課題であったのだが、そのとき平家を絶望させる情報が飛び込んできた。

 田口成良が平家を裏切って源氏についたというのだ。

 田口成良はかつて四国で最大の武士団を組織していた武士であった。それが、源義経が阿波国勝浦に到着したときに弟が敗れ、屋島の戦いの後では平家を関門海峡に逃すために讃岐国志度に放置された平家の軍の中に息子である田口教能も加えさせられた。しかも、田口教能に命じられたのは志度の平家の軍を指揮した上で死ねという命令だ。平家の本隊が逃れるための時間稼ぎをするのも武士としての務めであると頭では理解していても、見捨てられただけでなく死ねと命じられて平然としていられるわけはない。本人もそうだが、親も平然としていられる話ではない。

 源義経は平然としていられないであろう田口成良に対し、息子の田口教能が無事であり源義経の元に降ったことを伝えたのである。その上で壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に寝返るように求めたのだ。

 田口成良は源義経の誘いに乗る形で平家を裏切り源氏についただけでなく、平家が安徳天皇と三種の神器をどの船に乗せているのかを源義経に伝えたのである。

 平知盛はもはや全てが終わったと理解した。

 平家はここで滅びるのだ。

 しかし、源氏の目的を全て果たすのを黙って認めるつもりはなかった。

 平知盛は安徳天皇と三種の神器の乗る船に赴き、これから源氏の武士たちがこの船に押し寄せてくること、平家の女性たちは源氏の武士たちに捕らわれることになることを伝え、暗に自害を促した。

 最初に行動を起こしたのは二位尼平時子である。彼女は三種の神器のうち天叢雲剣あめのむらくものつるぎを腰に差して八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを持ち、安徳天皇には波の下にも都があると告げて、安徳天皇とともに入水した。ただし、吾妻鏡によると安徳天皇は二位尼平時子ではなく、建礼門院平徳子に仕えていた按察使局伊勢あぜのつぼねいせが安徳天皇を抱きかかえて入水したとある。ただし、按察使局伊勢あぜのつぼねいせは入水後に源氏によって救出されて

 三種の神器の残る八咫鏡やたのかがみは平重衡の妻で大納言佐だいなごんのすけと呼ばれる女性が持ち、建礼門院平徳子は大納言佐だいなごんのすけに対して自分の後追うように命じた後、息子を追うように海に飛び込んだ。

 しかし、建礼門院平徳子はただちに源氏の軍勢に引き上げられ源氏の船に乗せられた。

 この様子を見ていた大納言佐だいなごんのすけは、自分はともかく八咫鏡やたのかがみについては源氏の手に渡してはならぬと考え、八咫鏡やたのかがみの入った唐櫃からびつを持って飛び込もうとした。しかし、源氏の武士たちは大切なものを持って高貴な女性が海に飛び込もうとしているのを見て矢を彼女の裾に打ち込むことで彼女を船から動かせなくさせた上で唐櫃からびつを奪い取った。この瞬間、三種の神器のうちの一つが平家の手から源氏の手に渡った。

 入水したのは女性たちだけではない。平家の武士たちもここで終わりであることを悟り、せめて最後の抵抗だけはしようとする者、諦めて海へ飛び込む者、飛び込むこともできず右往左往する者が出ている。

 最後の抵抗をしようとした者として平家物語が取り上げているのが平教盛である。平知盛から無駄な殺生をするなと言われた平教盛は、ならばせめて源義経を道連れにしてくれると源義経を追いかけ、ここで源義経は八艘もの船を飛び越えて逃げたという。この八艘飛びはさすがに現実離れしている話であるが、実際に隣の船へと飛び越えたことは考えられる。このときのエピソードに尾鰭がついて八艘飛びというエピソードが生まれたのであろう。なお、平家物語によると平教盛は源義経をどうしても捕らえることができないので、せめて道連れを増やすとして源氏の武士を二人抱えて入水したという。

 諦めて海に飛び込んだのは平知盛である。もはや平家はどうにもならない。しかし、安徳天皇と三種の神器を三つとも源氏の手に渡すという源氏の最終目的は妨害できたとして、鎧の上に鎧を重ねて着ることで重りとして海に飛び込み、平知盛が飛び込んだのを見た平家の多くの者がいかりをはじめとする重りとなるものを身に括り付けて海に飛び込んだ。

 平家物語の記す右往左往した者が平宗盛である。平知盛だけでなく他の武士が飛び込み、女性が飛び込み、さらには幼い安徳天皇まで飛び込んだというのに、飛び込むことを促されていることを理解してはいても怖じ気づいて動けないでいる平宗盛に対し、平家の大将が晒し首になるのは許される話ではないとして海に向かって突き落とされた。だが、平宗盛は何ら重しをつけていなかったので海に浮かんでしまい源氏に捕らえられることとなった。

 その他、平宗盛の長男の平清宗、平時忠、平時忠の長男の平時実、安徳天皇の弟で高倉院の第二子である守貞親王、そして建礼門院徳子が源氏の軍勢に生け捕りとなった。また、平家とともに都落ちに帯同してきた二人の元検非違使が入水前に源氏に降伏した。

 一方、平教盛と平知盛のほかに、平家一門だけでも平資盛、平有盛、平行盛、平教経、そして平経盛がこの戦いで命を落とした。亡くなったことに名を記されることもない武士や、身の安全が守られるべき水手かこであったはずなのに弓矢で殺されることになった人がどれだけいたのか、記す史料は何もない。

 確実に言えるのはただ一つ、元暦二(一一八五)年三月二四日に平家が滅亡したということである。

挿絵(By みてみん)


 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。

 猛き者も遂にはほろびぬ、 ひとへに風の前の塵におなじ。


 治承三(一一七九)年一一月にいったい誰が想像したであろうか。

 権力者となった平家がこのような最期を迎えることとなることを。

 京都が無名の武士によって蹂躙されることを。

 平治の乱で配流となった少年が四半世紀の歳月を経て戦乱の勝利者となることを。

 治承三年の政変から五年半、日数を計算すると一九五六日目で源平合戦、歴史用語で言う治承・寿永の乱が、平家の完全消滅という形で終わりを迎えることを。


 しかし、戦いはまだ終わっていない。

 治承・寿永の乱の勝者となった鎌倉方の中で争う時代が始まるのである。

 それは鎌倉幕府という新しい権力組織が誕生した後も続く争いである。

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