ハンスじいさんの最後
どんなことが真理とか寓話とか言って、
数千巻の本に現れて来ようとも、
愛がくさびの役をしなかったら、
それは皆、バベルの塔にすぎない。
(ゲーテ『温順なクセーニエン』から)
むかしむかし、北の国にオーデンセという町がありました。
オーデンセは、冬はながく、雪がおおくて、寒い町でした。
しかし夏になると、短い間ですが、あたたかくなります。うつくしい草原は、太陽のやさしい光にゆらめき、小鳥たちは青空のもと、すずやかな風にのって飛びます。
ある日のこと、ハンスじいさんはうすいコートをはおって、草原へと散歩へ出かけました。遠くには、しずかに町へと向かう馬車が見えました。
ハンスじいさんが小川のほとりを歩いていると、どこからともなく、小さなかわいらしい女の子があらわれました。
女の子は、悲しそうな目をしていました。そして、ハンスじいさんを見て、こう言いました。
「おじいさん。どうして、あたしを殺したの?」
ハンスじいさんはびっくりしました。なぜなら、ハンスじいさんは、だれも殺したことなんてないし、その女の子は目の前に生きているように見えたからです。
ハンスじいさんは言いました。
「ぼくは君を殺したことなんてないと思うんだけどなぁ。ぼくはハンス。君は、だあれ?」
女の子は答えました。
「あたしはアン。アン・マリー」
ハンスじいさんは、ふしぎそうな顔をして言いました。
「アン・マリーだって? ぼくの死んだお母さんの名前といっしょじゃないか。 君は、ぼくのお母さんなのかい?」
女の子は答えます。
「いいえ、お母さんじゃないわ。あたしはおじいさんの娘よ」
ハンスじいさんは、もっと分からなくなりました。なぜなら、ハンスじいさんは結婚をしたことはないし、子供もいなかったからです。
ハンスじいさんは、むかしはたくさんの恋をしました。でも、その恋が実ったことは、いちどもありませんでした。ハンスじいさんは、自分が、みにくかったから結婚できなかったと思っていました。
ハンスじいさんは思いました。
〈ぼくには娘はいなかったはずだけど。どういうことだろう? それに子供だったら、ぼくをおじいさんと呼ぶんじゃなくて、お父さんと呼ぶはずだ〉
女の子はハンスじいさんの手をとりました。
「おじいさん。おぼえてないの? いっしょに来て」
そう言うと、まわりの景色がぐるりと回転しました。
ハンスじいさんは女の子と手をつないで、うす暗いオーデンセの町の中に立っていました。
家々の屋根にも、道にも、雪が厚くつもっています。町の人たちは、コートをギュウッと着こんで、帰宅を急いでいました。
「はて、さっきまで夏の郊外にいたのに、どうしたことだろう?」
ハンスじいさんは首をかしげました。
「おじいさん。あれを見たら、あたしを殺したことを思い出す?」
女の子は通りの向かいを指さしました。行きかう人々の間に少女がはだしで立っているのが見えます。ハンスじいさんの横にいる女の子にそっくりです。
「アン、彼女は君に似ているけれど、ふたごか何かかい?」
「いいえ、あれは、あたし」
「あれが君なら、君はだれなんだい?」
「あたしもあたし」
ハンスじいさんは、よく分かりませんでした。でも、そのことを考える前に、はだしの女の子が凍えているのを見て、かわいそうだと思いました。そして、自分のコートを女の子にかけてあげようとしました。しかし、近づくことができません。
ハンスじいさんと女の子のすがたは、他の人には見えないようでした。みんな、わき目もふらずに歩いています。はだしの女の子も、ハンスじいさんたちには気づかず、道行く人たちにマッチを売ろうとがんばっていました。しかし、なかなかマッチは売れません。
「思い出したぞ。これは、たしか30年くらい前、ぼくが書いた童話だ。君は、マッチ売りの少女だね」
「おじいさん、思い出したみたいね」
そのうち暗くなりました。マッチ売りの少女は、少しでもあたたかい所をもとめて、さまよい歩きました。そして、ある家の軒下、雪だるまの横に、すわりこみました。
少女はあまりの寒さに、マッチをすってあたたまりました。マッチに火をともすたびに、ストーブや、七面鳥の丸焼きの幻があらわれては消えていきます。
「とても寒くて、いたくて、お腹がすいて、つらかったの。どうして、たすけてくれなかったの?」
女の子はハンスじいさんに聞きます。
「ごめんね。どうしてって聞かれても、これはお話なんだ。みんなが読むための、お話だったんだ」
と、ハンスじいさんは答えました。
「おじいさん。わたしのことはおぼえていますか?」
ハンスじいさんは、急に声をかけられて、びっくりしました。見ると、マッチの炎の中に、クリスマスツリーが立っています。
「ええと、君のお話も書いたおぼえがあるよ。たしか、君は、もみの木だね」
「そうです。わたしは苗木のころから、大きく、りっぱになることを夢見ていました。なのに、若木のうちに切られて、クリスマスツリーにされました。そしてクリスマスが終わると、屋根裏にしまい込まれ、枯れたら、薪にされて燃やされました。どうしてです?」
「ごめんね。どうしてって聞かれても、これはお話なんだ。みんなが読むための、お話だったんだ」
と、ハンスじいさんは答えました。
「おじいさん。ボクのこと、おぼえてる?」
ハンスじいさんは、また声をかけられて、びっくりしました。見ると、軒下の雪だるまが、ハンスじいさんを見ています。
「ええと、君のお話も書いたおぼえがあるよ。たしか、君は、ストーブにあこがれた雪だるまだね」
「そうさ。ボクはストーブに会いたかったんだ。でも、ボクは溶けちゃうから部屋の中には入れない。外が寒いと窓がこおりついて、中をのぞいて、ストーブを見ることもできない。けっきょく、ストーブには会えず、外があたたかくなるころに、ボクは溶けてなくなっちゃったんだ。どうしてなの?」
「ごめんね。どうしてって聞かれても、これはお話なんだ。みんなが読むための、お話だったんだ」
と、ハンスじいさんは答えました。
ハンスじいさんは、自分の書いたお話の女の子や、クリスマスツリー、雪だるまに悪いことをしたなあ、と思いました。まるで本当に、みんな生きていたように思えてきたからです。
「ほらほら、みんな、あんまりおじいさんを困らせるものじゃ、ありませんよ」
見ると、そこには白くかがやく、うつくしい天使がいました。
「あのう、あなたはどなたですか?」
ハンスじいさんはたずねました。
「わたしは、あなたの守護天使です。これから、あなたたちを別の場所につれて行きましょう」
そう言うと、まわりの景色が、また、ぐるりと回転しました。
ハンスじいさんと女の子、クリスマスツリーと雪だるま、それから天使は、大きな町の、大きな家の屋根の上にいました。
目の前には、大きな聖堂があり、そのまわりには、何千人もの人が集まっていました。
大人も子供もみんないます。町の人たちだけでなく、王子さまや浮浪者、外国の人もいます。
「あれは、なんですか?」
ハンスじいさんは、天使にたずねました。すると、天使は言いました。
「あれは、あなたのお葬式ですよ」
ハンスじいさんは、おどろきました。
「ええっ! ぼくは死んだのですか?」
「そうです。あなたは死にました。そして国じゅうの人たちが、それを悲しんでいます。あなたの書いた童話を、だれもが読みました。これから世界じゅうの人も読むことでしょう」
「そうでしたか」
ハンスじいさんは、悲しそうな、満足そうな笑みをうかべました。
天使は言いました。
「人生には、幸福の真珠がひつようです。でも、それだけでなく、悲しみの真珠もひつようなのです。だからこそ、あなたのお話はみんなに愛されました。これから先も、愛されつづけるでしょう」
女の子は、やさしくハンスじいさんの手をにぎりました。クリスマスツリーと雪だるまは、あたたかく光っているように見えます。
雲のすき間から光がさしこみました。天上の音楽が聞こえてきます。
「さあ、みんな、お待ちかねですよ」
天使が言うと、ハンスじいさんは聞きました。
「みんなって、だれです?」
「あなたのお父さん、お母さん、それから、おやゆび姫や人魚姫もいますよ。みんな、人々から愛されて、たましいを持ったのです。さあ行きましょう」
天使が言うと、光の階段があらわれました。
そうして、ハンスじいさんは、女の子や天使といっしょに、空にのぼって行きました。
地上では、だれもがハンスじいさんの死をいたみ、感謝の祈りをささげています。そして、聖堂のレクイエムは、天上の音楽とまざりあい、光の雨をふらせていました。
おしまい
1875年8月。ハンス・クリスチャン・アンデルセンは亡くなり、コペンハーゲンに埋葬されました。70歳でした。