第1話 日常の終わり
あの日、俺は――。
「……なんで。」
目の前の光景が信じられない。
崩壊した建物。
そこらじゅうが火の海で、焼け焦げた匂いが鼻を刺した。
でも、俺の目に映っていたのはそんな景色じゃない。
(息が上手く吸えない…。)
どうしてこんなことになった。
どうして。
どうして――。
(あぁ……俺は。)
震える拳を握り締める。
爪が掌に食い込むが痛みすら感じない。
――どこで間違えたんだろうか。
◇◇◇
このお話は主人公 一ノ瀬 雪斗が普通の高校生だった頃まで遡る。
◇◇◇
ピピピピピピピッ!!
「…チッ。」
雪斗は、けたたましい目覚まし音に機嫌を悪くし思わず舌打ちをしてしまう。
布団から手を出し時計を手探りで探すが見つからない。仕方なく布団から顔を出しアラームを止めた。
「……朝か。」
カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しく思わず目を細めてしまう。そのままベッドから降り、両腕をゆっくりと上げ姿勢を伸ばした。
「ふぁ〜…。」
「雪斗!起きてる?ご飯できてるわよー!」
大きな欠伸をしていると、一階から母さんの声が聞こえた。
最近はアラームだけで起きれるよう頑張ってはいるが、三日に一回はそのまま寝てしまう。そのため最後はこうして起こしてもらっている。
「あぁ…起きて…」
「母さん!僕の靴下知らない!?ほら黒の!」
雪斗が返事をしようとした瞬間、父さんの慌てた声に遮られた。
「えー、知らないわよ。タンスの中にあるでしょ?」
「あれは休日用のやつだよ!仕事用の黒いやつだって。」
「知りません!」
「そんな事言わないでっ。」
二人のやりとりを聞き、雪斗は思わず吹き出す。
「たくっ…朝から何やってんだよ。」
いつもの朝。
何も変わらない、平和で少し騒がしくて仲の良い両親。
返事をしてもどうせ聞こえないだろうと思い、そのまま部屋から出て階段を降りる。リビングからは味噌汁の良い香りが漂ってきた。腹の虫が鳴る。
「おはよ…。」
「あ、起きてたの。おはよう。」
母さんが振り返り、雪斗に飲み物を渡す。
その横では父さんがソファの裏を覗き込んでいた。
「靴下どこだ…。」
「まだ探してたのかよ。」
呆れて乾いた笑いが出る。雪斗の反応に父さんは少しムッと表情を歪ませた。
「笑い事じゃ…。」
「もう!お父さんのことは放っておいて、雪斗はさっさとご飯食べちゃいなさい!」
母さんの言葉を聞き、雪斗は素直に椅子へ座る。そして味噌汁を手に取りゆっくり啜った。
(…うま。)
味噌汁片手にテーブルの上に置いてあったリモコンを手に取ると、そのままテレビの電源を入れた。
電源が入るとニュース番組が流れてきた。画面には見慣れたテロップが。
『感染者による被害拡大』
アナウンサーが神妙な顔で話している。
『昨夜未明、神奈川県内にて感染者による襲撃事件が発生しました』
『現在確認されている死傷者は――』
(また感染者か…。)
数十年前からウイルスに感染した人間が、怪物のような見た目になり暴走するという事件が発生していた。雪斗が小さかった頃から同じようなニュースが度々流れてきているが、どこか現実味がない。
「嫌ねぇ…。」
「…そうだな。」
母さんに一言返し、雪斗は黙々と朝ごはんを食べ続ける。
(…しょっぱい。)
母さんはいつも焼き鮭に塩をかけすぎている為、正直あまり食べたくは無い。だが、文句を言ってしまうと母さんの機嫌を損ねる為、毎回気合いで食べている。
「ふぅ…。ご馳走様でした。」
小さく手を合わせリビングを後にし身支度を始めた。
今日は始業式。
久しぶりに会う友人に少し照れくさくなるが楽しみでもある。
きっと楽しい一日になる。
――そう思っていた。
♢♢♢
「じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい!」
玄関から少し大きな声で挨拶をする。雪斗の声に気付いた母さんが、リビングから顔を出し笑顔で手を振った。
その横に、ようやく見つけたらしい靴下を掲げた父さんもいる。
「雪斗!見つかったんだよー。テレビの裏にあってね。良かったぁ…。これで会社に行ける。」
「もう!そんな事どうでもいいから、お父さんは早くご飯食べて!雪斗、気を付けてね。」
両親のやりとりを見届け、雪斗はゆっくりと玄関の扉をあけた。その瞬間、春風が頬を撫でる。空は青く、雲も少ない爽やかな朝だ。
家を出て少し歩いていると、
「おーい!」
聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、友人二人が雪斗に向かって走って来ている。
「おはよう!」
元気よく手を振る少女。
“吉野 まどか”は前髪をピンで止め、肩まで伸びた髪を揺らしながら駆け寄ってくる。小柄な体格ながら、態度は誰よりも大きい。
その後ろには、
「ふわあぁ〜。眠〜」
眠そうな顔をした少年。
“佐久間 光太郎”は短く整えられた黒髪に、キリッとした一重が特徴的だ。無駄のない引き締まった身体は大きく近寄りがたい雰囲気もあるが、まどかと違い小心者だ。
光太郎もまどかも幼稚園からの幼なじみ…というより腐れ縁だ。
「おー、雪斗。おはよー。」
「おう。」
家も近所のため、部活の朝練が無い日はだいたい三人で登校している。
「やっと始業式だねー!クラス替えドキドキしちゃう!」
「そうかー?俺は怖くない先生ならどこでもいいけど。」
「…光太郎に聞くんじゃなかった。雪斗は?」
「まぁ…知り合いがいればどこでもいいかな。」
「俺も!俺も!」
「だから、光太郎には聞いてないって言ったでしょ!」
朝から始まる言い争い。まどかと光太郎は口を開けばよく喧嘩をしている。二人とも声が大きい為、隣にいる雪斗の耳はいつも痛くなる。だがそんな時間も意外と悪くない。
「ほら。まどかも光太郎も早く行くぞ。」
二人に声をかけ、雪斗は軽く走り出した。
♢♢♢
やがて学校が見えてくると、校門付近には大勢の生徒が群がっていた。
久しぶりに会う友達同士で盛り上がっているのだろう。
始業式特有の賑やかな空気が広がっていた。
グラウンドにクラス替えの貼り紙がある為、三人は体育館へ向かう前に確認しに行く。そのとき、どこからか聞き覚えのある声がした。
「雪斗。」
声のする方へ顔を向けると、手をヒラヒラと振りこちらへ微笑んでいる男子生徒――“神代 怜侍”がいた。
整った顔立ち。頭もよく帰国子女だとも聞いた。
誰に対しても優しい性格で、先生からの信頼も厚く、生徒からの人気も高い俺の自慢の親友だ。
その隣には、
「三人とも、おはよう。」
静かに手を振る少女――“桜庭奈々子”もいた。
奈々子も頭が良く、容姿端麗で怜侍の恋人でもある。
「おう。おはよ。」
その後ろから遅れてやってきたまどかと光太郎も、二人に挨拶をする。
怜侍とは中学校からの仲だ。一年生の頃に入ったサッカー部で意気投合し、そのまま光太郎にも怜侍を紹介した。その流れでまどかとも知り合った。ちなみに奈々子はまどかの紹介だ。
「三人とも今来たところ?じゃあクラス発表はまだ見てないんだ。」
「あぁ。今から見に行こうと思ってて。怜侍たちはもう見たんだろ?俺らのクラス分かる?」
「うん。俺と雪斗は二組で奈々子と光太郎は一組。まどかだけ三組だったよ。」
「えぇ!!?私だけ!!?うそーー!」
まどかはショックを受けているようだったが、雪斗は親友と同じクラスで嬉しそうだ。
「はぁー…奈々子と同じクラスが良かったあぁ。」
まどかは奈々子へ抱きつきながら慰めてもらっているようだ。奈々子もそんなまどかが可愛いのか、頭を撫でながら微笑んでいる。
「奈々子おおぉ…。ん?…なにそれ?」
まどかは奈々子の首元にキラリと光る物を見つけた。よく見ると銀色のネックレス。シンプルだけど綺麗なデザインだ。
「あぁ…これ?」
「綺麗だねー…。でもそんなの付けてたっけ?」
まどかが聞き返すと、奈々子は少し照れくさそうに怜侍を見た。
「お揃いで…怜侍くんがプレゼントしてくれたの。」
「えぇ!?本当に!?」
反射的に怜侍の胸元を見てみると、確かに同じネックレスを付けていた。
「怜侍ってそんなシャレたことする人間だったのー?意外!」
「まぁ…たまにはね。」
怜侍は少し照れくさそうに答えた。
「ヒュー!!ラブラブだぁ!」
「まどか…。もうネックレスの話はいいからさ。そんなことより、三人に渡すものがあるんだ。」
怜侍が鞄をガサゴソと漁ると、中から小さな袋が出てきた。
「はい。今年も頑張れってことで。」
それは見覚えのある小さな包装だった。
雪斗たち三人は、思わず顔を見合わせ苦笑する。
「でたでた。」
光太郎が呆れたように言うが、怜侍は特に気にせず持っていた小さな梱包を三人に配り始めた。
「勉強には糖分が必要だからね。ほら、どうぞ。」
小さな包装の中身は高カカオチョコレート。雪斗たちにとっては見慣れたものである。
雪斗たち三人は、怜侍や奈々子に比べると成績はそこまで良くはない。そこで怜侍が勉強には糖分がいいんだよと、毎回こうして律儀にチョコを配ってくれている。
正直チョコレートだけで成績が上がるとも思えないが…中学からの習慣みたいなもので今更断れなくなっている。
「今回はいつもよりカカオを多めに使っているから、少し苦いかも。」
「えー。いつも苦いのに、それよりも苦いのぉ?」
怜侍の言葉に、まどかが顔をしかめる。
「それがいいんだよ。」
「もっと甘いのないの?」
「僕はただ君たちにオヤツを配っている訳じゃないんだけど…。」
怜侍も困ったように笑っている。それを横目に雪斗は包装を破りチョコを口に放り込んだ。
「苦っ。」
途端に苦味が口の中で広がる。
(確かにいつもより苦ぇ。)
光太郎も、もらったものだし…とチョコを口に入れる。
「うわああぁ、苦ぇ…」
「子供だな。」
「雪斗も苦いって言ってただろー。」
「ふふふ。ほら、みんな早く体育館に行こう?始業式始まっちゃうよ。」
奈々子が自身の腕時計を雪斗たちに見せてくれた。確かに始業式開始まで時間があまりない。
「!やべ。早く行こうぜ。」
光太郎がチョコの苦味を我慢しながら、体育館の方へ足を向ける。
すると、怜侍が申し訳なさそうに雪斗たちへ謝ってきた。
「ごめん。この後野崎先輩に呼ばれててね。悪いけど奈々子と一緒に先に行っててくれるかな?」
「野崎先輩に?」
野崎先輩というのはサッカー部の先輩だ。俺と怜侍は同じサッカー部で、野崎先輩とも仲は良い。小柄でお人好しだがサッカーの技術は天才的だ。
「始業式前に?なんで?」
「部活のことみたい。急ぎらしいから行ってくるよ。だからごめんね。」
「まぁ…そういうことなら。早く来いよ。」
「うん!じゃあまた後で。」
そう言い残し、怜侍は体育館とは逆方向へ向かい走り出した。
「じゃ、私達も行きますかー。」
まどかが皆に声掛けをし、その後をゾロゾロと全員が着いていく。
ゴミとなったチョコの包装をクシャッとポケットへ入れ、雪斗も歩き出した。
◇◇◇
少しして雪斗たちは体育館に着いた。だが、皆新しいクラスの場所へ行くのに手間取っているのか、それとも行く気が起きないのか整列が全然出来ていなかった。
「ったく。どこ行きゃいいんだよ。」
雪斗たちの後ろからも、まだゾロゾロと生徒たちが体育館の扉から入ってくる。
前が詰まっているのか中々進まない。
時間も押していたのだろう。教師がマイク越しに体育館の中央へ行くよう指示を始めた。
どこへ進んでいるのか全くわからないが、雪斗たちは流れに身を任せ動いていく。
そんな中、雪斗たちの後方で顔面蒼白の教師が物凄い速さで体育館に入ってきた。他の生徒には目もくれず、そのままマイクを握りしめている教師の元へ辿り着いた。
「!佐藤先生!?」
驚いている教師からマイクを横取りし、佐藤先生と呼ばれた教師が生徒へ向かって大声で呼び掛ける。
「全員、体育館から出るな!!!」
教師の叫びが体育館中に響いた。
「な、なんだっ。」
いきなりの叫び声に雪斗はマイクを持った教師を確認した。その顔は真っ白だ。
「か…感染者だ!!」
教師のその言葉を聞き、生徒たちは顔を見合わせた。
誰も状況が理解できない。
雪斗にとって感染者はテレビの中の存在だ。
それが今、自分たちの学校で起きているなんて…。
「とにかく、扉の近くにいるものはすぐに閉めて全員真ん中に集まりなさい!早く!」
教師の声は半ば悲鳴だった。
だが、パニックになった生徒たちは教師の虚しい叫びなど聞こえていなかった。
「嫌だ!!」
「ここにいたら危ない!」
「逃げろ!!」
数人の生徒が立ち上がり、それを見た他の教師が止めようとする。
「待て!」
「外へ出るな!!」
「落ち着け!」
しかし、生徒たちの数が圧倒的に多いため教師は簡単に押しのけられる。
そのまま生徒たちは、我先にと体育館の外へ飛び出してしまった。
悲鳴に怒号。体育館の空気は一瞬で崩壊してしまった。
「…俺たちはここにいよう。」
雪斗が周りにいたみんなにそう伝える。
外に出るより、体育館にいた方が比較的安全だろうと判断したのだ。
その問いかけに光太郎とまどかも頷いてくれた。
だが、奈々子は違っていた。
「怜侍くんがいない…。」
雪斗はハッとした。確かに怜侍は今、先輩に呼ばれて別行動をしている。
「…体育館にいるかもしれねぇし、違っててもどこかに避難してるだろ。」
「でも……!」
奈々子の目には涙が浮かんでいた。
「もし一人だったら……」
「奈々子!」
奈々子はそう呟くと一目散に扉へ走り出した。
「奈々子!!!待って!!」
それを見たまどかも後を追ってしまった。
「おい!まどか!!!!」
雪斗が呼び止めるが、まどかは振り返らず進んでしまう。それを見た光太郎は焦り出し雪斗の肩を揺らす。
「雪斗っ…どうしよう!?」
「チッ!光太郎行くぞ!!!」
「!わ、わかった!」
放って置けるわけがない。
雪斗はそのまま、体育館の出口へ走り出した。
♢♢♢
ほとんどの生徒が外へ出たのだろう。
校舎内は意外と静かだった。
(…逆に怖ぇな。)
まどか。
奈々子。
怜侍。
何度も名前を呼ぶが見当たらない。
(どこにいる…。)
その時だった。
「きゃああああああ!!」
廊下に響き渡る女子生徒の悲鳴。
それは、聞き覚えのある声だった。
「……まどか?」
雪斗の背筋が凍る。
光太郎も顔色を変え、二人は同時に走り出した。
階段を駆け上がり、声のした方へ向かう。
三階へ続く階段を全力で上がった。心臓が止まりそうなぐらい緊張した。
そして階段を登りきった先に探していた人物がいた。
「まどか!!」
雪斗が叫ぶ。まどかは腰が抜けているのか、壁際に寄りかかって座っている。その顔は真っ青で唇は震え、瞳から涙が溢れていた。
「まどか!」
光太郎が名前を呼びまどかに駆け寄る。
「大丈夫か!?おい!しっかりしろ!まどか!」
だが、まどかは光太郎の声に反応しない。ただ一点だけを見つめて震えている。まどかの視線に先に気付いたのは雪斗だった。
「まどか?どこ見て…」
雪斗はゆっくりとまどかの視線を辿る。
…廊下の奥に何かいる。
それに気付いた瞬間、雪斗の思考が止まった。
そこにいたのは、人ではない。
―――怪物だった。
二メートルほどの巨体。異常なまでに膨れ上がった筋肉。
皮膚は裂け、赤黒い肉が剥き出しになっている。
顔だった部分は原形を留めていなかった。
グルルルルルル……。
低い唸り声。
獣のようで、獣とも違う。
“ 逃げなきゃ。“
全身がそう叫んでいるが、足は動かない。
そして怪物はゆっくりとこちらへ顔を向けた。
――時が止まったようだった。
逃げなきゃいけないことは、誰が見ても分かることだ。ただ、あまりの恐怖に雪斗たちは目の前の怪物を見つめることしかできなかった。
(どうすればいい…。)
心臓がドンドン早くなる。冷や汗が止まらない。
雪斗の様子に光太郎も気付いたようで、小さく悲鳴をあげている。
ジリッ…
雪斗が一歩後ろへ下がった瞬間、怪物の脚が弾けるように動いた。
一瞬で雪斗たちとの距離を詰めてくる。
「っ!!」
光太郎が、咄嗟に震えているまどかに両手を伸ばし、そのまま覆い被さるように抱きしめた。
自分の体を盾にするように。
(…くる!)
雪斗も諦めた訳ではない。一瞬で周囲を見回し、視界の端にある消化器へ手を伸ばした。
消火器は見た目以上に重かったが、雪斗は両手で抱え上げ勢いをつけると怪物に思い切り投げた。
「おらあああぁ!!」
消火器が宙を舞い、怪物に向かって一直線に飛ぶ。
ガァンッ!!
鈍い音が廊下に響く。消火器が怪物の頭部に直撃したのだ。
その衝撃でノズルが外れたのか、
ブシュウウウウウウッ!!と白い粉末が勢いよく噴き出した。
「!?」
白い薬剤が周囲へ広がり、廊下を徐々に白煙で埋め尽くしていく。
視界が真っ白になり、だんだんと怪物の姿が見えなくなる。
「今だ!!逃げるぞ!!!」
雪斗が叫んだ瞬間、光太郎が思い切り顔を上げた。
廊下に広がる白煙を見てすぐに状況を理解をし、光太郎は放心状態のまどかを背負った。そして雪斗と共に駆け出した。
背後からは怪物の叫び声が響いている。
ガアアアアアアアアアアッ!!
怪物の咆哮があまりにも恐ろしく、鳥肌がたつ。
階段の手すりを掴み、転げ落ちるように駆け下りた。
光太郎とまどかの様子を少し気にしながら、怪物から距離をとっていたその時だった。
「た、助けて……」
か細い声が聞こえ、思わず雪斗の足が止まる。
一階へ続く階段、あと数段降りれば校舎の出口だ。
このまま行けば逃げられる。
「……っ」
雪斗は奥歯を噛み締める。
…聞こえなかったことになんて出来なかったのだ。
「雪斗?」
光太郎は先程の声が聞こえなかったのか、雪斗の顔を心配そうに覗き込む。
そんな光太郎を横目に雪斗はゆっくりと階段から足を戻し、声のした方向を見た。
「悪い…光太郎、まどかを頼む。」
「はぁ!?何言って…」
光太郎の言葉を最後まで聞かず、雪斗は声のした方へ走りだした。
「雪斗!!!!」
光太郎は雪斗の背中へ叫ぶが、その足を止めることは出来なかった。
♢♢♢
「どこだ…。」
人気のなくなった廊下を突き進んでいく。先程の怪物と鉢合わせにならないよう、慎重に。
「……!」
第二校舎へ足を踏み入れると、廊下に座り込んでいる男子生徒と女子生徒を見つけた。
ネクタイの色から見て三年生だろう。
怪我をして動けなくなっているのだろうか。
雪斗は急いで二人へ駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
声を掛けながら手を差し伸べると、雪斗に気付いた女子生徒が勢いよくその手を掴んできた。
「お願い……!」
泣いていたのだろうか。目が充血している。
「助けて…!拓が…拓がおかしいの…」
「た…拓?」
女子生徒の唇が震えている。
拓…おそらく隣にいる男子生徒の名前だろう。
何があったのか、雪斗は拓へと視線を向けた。
「――!」
雪斗は言葉を失った。
拓は肩を落としうつむいたまま動かない。
両手をだらりと垂らし、まるで糸の切れた人形のように座り込んでいた。
「アーーーー……」
その口から漏れ続ける一定の音。
「アーーーー……」
雪斗の背筋に嫌な汗が流れた。
男子生徒の目は虚ろだ。
焦点は合っていないし、顔色も悪い。
―――どう見ても普通じゃなかった。
「先輩……」
雪斗は女子生徒へ向き直る。
「…ひとまず逃げよう。」
その言葉を聞き、女子生徒が思い切り首を横に振る。
「無理よ…拓を置いて行けるわけないじゃない……!」
「じゃあ…無理やりにでも――。」
その時、男子生徒の唇が微かに動いた。
「み……か……」
「!拓…!」
女子生徒は雪斗の手を離し、拓の両手を優しく包んだ。
女子生徒は名前を呼ばれたのが嬉しかったのか、涙を浮かべながら拓の顔を覗き込む。
「拓っ……大丈夫?」
拓の肩が小さく震えた。
「どうしたの……?大丈夫なの……?」
拓は答えない。よく見ると、拓の腕に浮き出た黒い血管が異様に脈打っていた。
首筋も額も。皮膚の下を何かが這い回っているように見える。
その時――
ビクンッ!!
拓の体が大きく跳ねた。
「拓!?」
拓は苦しそうに喉を鳴らした。
全身が痙攣している。
まるで体の中で何かが暴れているようだった。
「がっ……!」
拓が床に手をつく。その指先は震えていた。
爪が床を引っ掻き、ギギギッ…と嫌な音が響いた。
「拓……!」
美香と呼ばれた女子生徒は、必死に拓の名前を呼び続けた。
名前を呼ばれた拓は、苦しそうに顔を上げ大きく息を吸い込んでいる。
拓の体が限界を迎えていると雪斗にも分かった。
拓は大きく吸った息を、一気に吐くように大きく叫んだ。
「逃げろォォォォォッ!!」
バキバキバキバキッ!!
拓の体が大きく跳ね上がり、全身の骨が砕けるような音が響いた。
筋肉が膨張し、制服が弾け飛ぶ。
「きゃあああああっ!!」
「!!!?」
雪斗は反射的に美香の腕を掴み、そのまま強引に自分の方へ引き寄せる。
(やばい…!逃げないと!)
こうしている間にも、拓の見た目はどんどん恐ろしいものに変化していく。指先からは鋭い爪が伸び、口元が裂け人間の面影が急速に失われていった。
「だれ…」
美香の声は掠れていた。拓だと言われても面影は一ミリもない。
目の前にいるのは、完全に人間ではなかった。
ドサッ。
拓と思われる怪物は四つん這いになっていた。
裂けた口からは長い舌が1本でている。
先ほど雪斗たちを襲った怪物と姿は違うが、根本は一緒なのだろう。
「……っ」
怪物はゆっくりと顔を上げた。
濁った瞳が動く。
化け物は後ろ脚に力を入れたのか、爪が床へくい込んでいる。
――飛びかかる気だ。
「先輩ッ!!」
雪斗は美香を自分の後ろへ思い切り突き飛ばした。
「きゃああっ!!」
美香は体勢を崩し、床へ尻もちをついた。
怪物が雪斗目掛けて飛びだし、一瞬で目の前に迫った。
(避けられない…!)
雪斗は反射的に両腕を顔の前へ上げガードする。
それしかできなかった。
「っ――!!」
ブォンッ!!
怪物の腕が振り下ろされると、その直後雪斗の両腕に激痛が走った。
「がぁぁぁっ!!」
雪斗の体が吹き飛び、背中が壁へ叩きつけられた。
肺から強制的に空気が吐き出される。
息ができない。腕が熱い。
見ると制服の袖が裂け、爪で引き裂かれた腕からは血がとめどなく流れていた。
「いやぁぁぁぁ!!!」
美香の叫び声が聞こえる。だが返事をする余裕はなかった。
痛い…傷口が焼けるように熱い。
まるで何かが体内へ流れ込んでくるような感覚。
ドクン。
心臓が大きく脈打つ。
視界が揺れ、今にも吐きそうだった。
「っ……」
(なんだ…これ…。)
雪斗は溢れ出る血を手ですくう。その血に混じって黒い粒子のようなものが見えた気がした。
「うぁっ…!!」
ドクン――。
また心臓が鳴る。体が熱い。
「もうやめてっ!拓!!!」
美香が雪斗の傍まで走り、庇うようにして前に立つ。
雪斗は荒い呼吸を繰り返した。
怪物は低い唸り声を上げ、濁った瞳が美香を捉えている。
そして、ゆっくりと怪物の腕が持ち上がる。
雪斗にしたように美香へ攻撃するつもりだ。
(…もう、ダメだ…。)
その時だった。
――パリーンッ!!
凄まじい破砕音が廊下に響き、窓ガラスが一斉に砕け散った。




