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18話 高校最初の授業たち

 教科書という名の「物理的な知識の重圧」を三階の教室まで運び終えた俺たちは、もはや一日の全エネルギーを使い果たしたような顔で机に突っ伏していた。だが、非情にもチャイムは鳴る。窓のない、密閉された潜水艦のような教室に、外部との唯一の繋がりであるスピーカーから、無機質な音が響き渡った。


 「……嘘だろ。まだ三時間目かよ」


 隣でイチ(弐野一郎)が、消え入りそうな声で呟く。彼の前には、まだインクの匂いが新しい現代文の教科書が置かれていた。


 「諦めろ。俺たちは今日、教科書運びという『体育』を終えたばかりだが、学校側にとってはこれが『始業』なんだろうな」


 俺がそう答える間もなく、教室の引き戸がガラリと開いた。


 【三時間目:現代文 】


 三時間目、教壇に現れたのは結城先生だった。昨夜、椅子から転げ落ちて大の字で寝ていたあの女だ。しかし、今の彼女はそんな「猛毒の夜」など微塵も感じさせない、凛とした「教師の顔」をしていた。


 「はい、全員座って。教科書配りでお疲れのところ悪いけど、授業を始めるわよ。……佐渡くん、そんな死にそうな顔してどうしたの? 若いんだからシャキッとしなさい」


 (誰のせいで寝不足だと思ってるんだ……)


 喉まで出かかった言葉を飲み込む。彼女の「切り替え」の早さは、もはや恐怖すら覚える。


 授業が始まると、彼女は驚くほど真面目だった。夏目漱石の『こころ』を開き、その行間に隠された「エゴイズム」について淡々と、しかし鋭く解説していく。時折、黒板に書くチョークの音が「カタカタッ」と響くたび、昨夜のキーボードの打鍵音を思い出して、俺は妙な親近感と、それ以上の疲労感に襲われた。


 【四時間目:数学Ⅰ 】


 結城先生が去り、四時間目のチャイムと共に、その静寂は爆砕された。


 「ッッシャアアアラアアアア!!野郎どもッ!数学の時間だッ!!」


 引き戸が外れるかと思うほどの勢いで飛び込んできたのは、Tシャツの袖を肩まで捲り上げ、血管が浮き出るほどの筋肉を誇示する男だった。名前は熱血あつかね先生。


 「いいかッ!数学とは筋肉だ!論理のプロテインだ!公式を覚えるんじゃない、細胞に刻み込めッ!」


 彼は教壇に立つなり、教科書も見ずに黒板に凄まじい速度で数式を叩きつけ始めた。チョークが折れるたびに、その破片が散弾銃のように前列の生徒へ降り注ぐ。


 「佐渡ッ!この二次関数の頂点はどこだッ!?」


 「えっ、あ…… (x−3) ^2+2 だから、(3,2) ですッ!」


 「正解だッ!いいパンチを持ってるなッ!気に入ったぞッ!!」


 何がパンチなのかは全く不明だが、彼の授業中、居眠りをする者は一人もいなかった。隣のイチは、あまりの気圧けおされっぷりに、シャーペンを持つ手が小刻みに震えていた。


 【五・六時間目:化学基礎・世界史 】


 五時間目の化学基礎を、周期表の呪文に耐えながら消化し、ついに六時間目。世界史の時間がやってきた。


 教壇に現れたのは、先ほどの熱血先生とは真逆の、枯れ木のような老人だった。田中一彦、六十歳。その語り口は穏やかで、致命的なまでの催眠効果を持っていた。


 「……さて、えーっと十九世紀のタイ……そう、シャム王国ですね。植民地化の波が押し寄せる中、ある偉大な王が現れました……」


 田中先生の声が、子守唄のように教室を包む。ついに耐えかねたのか、俺の左隣で夜露が完全に「あちら側の世界」へ旅立っていた。


 田中先生の手が止まった。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ鋭く光る。


 「おや……秋山さん。タイの近代化については、夢の中でラーマ5世から直接教わっている最中かな?」


 先生はゆっくりと歩み寄り、夜露の机をコトッと叩いた。


 「……ふぇっ!?何の用なのです……?」


 クラス中に失笑が広がる中、田中先生はいたずらっぽく微笑んだ。


 「秋山さん。せっかくなら、その夢の続きを教えてもらおうか。……まずは肩慣らしだ。今、私が話していた『ラーマ5世』。彼には非常に長く、荘厳な正式名称がある。これを、一つも省略せずに答えてもらおうか」


 クラスが静まり返る。そんなの、専門家でもカンペなしでは無理だ。だが、夜露は大きく一つ欠伸をすると、眠たげな目をこすりながら、朗々とその「呪文」を唱え始めた。


 「プラバート・ソムデット・プラ・パラミントラ・マハー・チュラーロンコーン・ボディントラ・テープ・パマハームングット・ブルサヤラット・ラーチャラウィウォン・ワルッタマポン・ボリパット・ウォラカッティヤ・ラーチャニクローダム・チャトゥラン・ボロムマハー・ジャッカパットラート・サンカト・ウパトー・スチャート・サンスッタ・クロハニー・ジャクリー・ボロムマナート・マハームングット・ラーチャワランクーン・スチャリットムーン・スサーティット・アッカウクリット・パイブーン・ブラパードゥーン・クリサダーピニハーン・スパティカーン・ランサリット・タンヤラック・ウィチット・ソーパーク・サッパパン・マハー・チャノータマーン・プラノット・バートボンコット・ユコン・プラシット・サッパスパポン・ウドム・ボロム・スクムマーン・ティッパヤ・テパーワターン・パイサーン・キアッティクン・アドゥンヤピセート・サッパテーウェート・ラーヌラック・ウィシッタサック・ソムニャー・ピニット・プラチャーナート・プレームグラモン・カッティヤ・ラーチャプラユーン・ムーン・ムックマータヤーピロム・ウドム・デーチャーティカーン・ボリーン・クンナサーン・サヤーマーティ・ナコン・ワルッタ・メータラート・ディロック・マハー・パリワーン・ナーヨック・アナン・マハンタ・ウォラリット・デート・サッパウィセート・シリントーン・アネーク・チョンニゴーン・サモーソーン・ソムムット・プラシット・ウォラヨット・マホードム・ボロムラーチャ・ソンバット・ノッパパドン・サウェータチャット・ラーディチャット・シリラッタノー・パラック・マハー・ボロム・ラーチャーピセー・ガーピリット・サッパ・トッサティット・ウィチットチャイ・サコン・マハイサワリヤ・マハースワーミーン・マヘースワン・マヒントラ・マハーラーマーティラート・ワロダム・ボロムマナート・チャート・アーチャーワサイ・プッターティ・トライラッタナ・サラナーラック・アドゥンヤサック・アッカナレート・ラーティボディー・メッター・カルナー・シータラハルタイ・アノーパマイ・ブンヤカーン・サコン・パイサーン・マハーラサダーティ・ボディン・パラミントラ・タンミガ・ハーラーチャーティラート・ボロムマナート・ボピット・プラ・チュンラチョームクラオ・チャオユーフアなのです」


 一言一句、淀みがない。この呪文が正しいかわからないが、田中先生の眉がピクリと跳ねた所を見ると、正しかったのだろう。


 「…………ほう。では、彼が断行した改革の名称と、その最大の功績は?」


 「夜露はチャクリー改革だと思うのです。一八七四年の奴隷解放令による奴隷制の廃止、そして一九〇五年の完全廃止。さらに、内務省や国防省といった近代的官僚機構の整備、コラット鉄道をはじめとする鉄道網の敷設……これらによって中央集権化を推し進めたのです。外交面では一八九六年の英仏協定を巧みに操り、シャムを緩衝地帯として維持することで独立を守り抜いた……。おじいちゃん、次は何がいいのです?官区制テーサピバーンの詳細?それとも一八九三年の仏暹戦争におけるパークナム事件の余波についてなのです?」


 「………………ほう。少しあなたに興味が湧いて来ました。少し難しい問題を世界史全範囲から出させていただきます。1641年11月に、イングランドで「議会の大諫奏」が僅差で可決されました。この時の賛成、反対の票数をそれぞれ答えてください」


 「賛成159票、反対148票なのです。互いに素なのですよ」


 「正解です。古代インドのナンダ朝の最後の王は?」


 「ダナナンダ!」


 「正解です。1867年に、オーストリア帝国がハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立した国の正式名称は?」


 「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦なのです〜」


 「正解です。古代エジプトの…………」


 この後、10問ほど世界史の問題を出した後、田中先生は絶句した。そして、ゆっくりと、深く、敬意を込めて頭を下げた。


「参りました。秋山さん、君の脳内には国立図書館でも入っているのかね。」


 パチパチパチ……と、困惑と称賛が混じった拍手が教室に響く。当の本人は余韻に浸る間もなく再び机に突っ伏し、数秒後には規則正しい寝息を立て始めた。


 【七時間目:英語 】


 最後の一時間は英語だった。しかし、夜露の無双劇で精神的リミッターが外れたクラスメイトたちに、もはや構文を理解する余力は残っていなかった。


 ようやく放課後のチャイムが鳴る。

 俺は、爆睡する「タイ歴史マスター」の夜露を揺り起こした。


 「起きろ夜露。帰って飯だ。今日は奮発して、お前の好きな秋刀魚を焼いてやるよ」


 「……さんま! ラーマ5世より秋刀魚なのです!」


 窓のない教室に、ようやく活気が戻った。俺たちの高校生活二日目。教科書を運んだ腕の痛みと、異様なまでの知の洗礼を胸に、俺たちは閉鎖空間を後にした。

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