19話 世界8位
「ふぅ……。ようやく、一息つけるか」
玄関の引き戸を閉め、俺は大きく伸びをした。教科書運びという名の重労働と、夜露の脳内図書館が爆発した世界史の授業、そして何より、窓のない閉鎖空間という特殊な環境下での初授業。それらすべてが、俺の肉体と精神を削り取っていた。だが、主夫に休息はない。鞄を放り出すより先に、俺はキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開けると、昨日買っておいた秋刀魚が三匹、静かに冷気を纏って横たわっている。
「約束通り、今日は秋刀魚だ」
俺は手際よくグリルを予熱し、秋刀魚に塩を振る。ジュゥゥ、と脂が弾ける心地よい音が静かなキッチンに響き始めた。その音を聞きつけてか、二階からドタドタと騒がしい足音が降りてくる。
「さんま!秋刀魚の匂いがするのです!ラーマ5世も驚きの香ばしさなのです!」
鼻をヒクヒクさせながら現れた夜露は、文字通り「猫」のように俺の周りを一周し、食卓の椅子に飛び乗った。続いて、まだ制服のままの彌生と、口元にパフェの食べ残し(?)のようなクリームをつけた皐月も現れる。
「あー、いい匂い。斉昭、あんた本当に料理だけはまともよね」
「『だけ』は余計だろ。ほら、焼けたぞ」
大根おろしを添え、ポン酢をひと回し。黄金色に焼き上がった秋刀魚を食卓に並べる。女子三人は、一瞬の静寂ののち、猛烈な勢いで箸を動かし始めた。夜露にいたっては、骨の周りの身を綺麗にせせり取り、「完全なる解体なのです」と満足げに喉を鳴らしている。
夕食という名の短い喧騒。それが終わると、彼女たちは驚くほど現金だった。
「ごちそうさまー!私、お風呂入って寝るわ!明日の予習があるし!」
「私も〜」
「夜露は冬眠……じゃなくて、記憶の整理に入るのです……」
嵐が去った後のように、彼女たちはさっさと二階の自室へと消えていった。残されたのは、積み上がった皿と、秋刀魚の骨の山。そして、疲労困憊の俺。
「……さて、皿を洗うか」
シンクに向かおうとした時、外からバカげた排気音が聞こえてきた。
ヴアアアアアアアアン!!キュキィィィィッ!!
「……ああ、あのプロボックスか」
結城先生だ。彼女は今日、学校へは愛車のR34 GT-Rで出勤していた。だが、父親から押し付けられた「化け物プロボックス」をこの家に置かなければならない。結果として、一度帰宅してプロボックスをガレージに突っ込み、再び徒歩で学校へ戻る必要があったのだ。
「ただいまー……あー、死ぬ。このプロボックス、サスペンションがコンクリートで作られてるんじゃないかしら。腰が……私の腰が……」
玄関から入ってきた結城先生は、幽霊のような足取りでキッチンを通り過ぎた。
「先生、ご飯食べました?」
「……今、食欲より睡眠欲、それ以上に『安静』が必要。でも、また学校に戻らなきゃいけないのよね。しおりの最終確認があるし……あ、佐渡くん。悪いけど、この鍵、ガレージのフックにかけておいて」
彼女はプロボックスのキーを俺に放り投げると、水を一杯だけ飲み、再び夜の闇へと消えていった。
家事のすべてを終え、ようやく俺の自由時間が訪れたのは深夜0時を過ぎた頃だった。
二階は静まり返っている……はずだった。だが、ふと耳を澄ますと、廊下の奥、皐月の部屋から微かな話し声と、聞き慣れない効果音が漏れ聞こえてくる。
ドォォォォン……。
『敵巡洋艦を発見』
「……何やってんだ、あいつ」
俺は少し気になり、彼女の部屋のドアを軽くノックした。返事はないが、中の音は続いている。俺は意を決して、ドアを少しだけ開けた。
「おい、皐月。夜更かしもほどほどに……」
言葉が止まった。部屋の中は暗く、トリプルモニターの放つ蒼白い光だけが、皐月の集中しきった横顔を照らしていた。彼女は巨大なヘッドセットを装着し、マウスを狂ったような精度でクリックしている。
画面に映し出されていたのは、荒れ狂う海。そして、巨大な鋼鉄の巨艦。
「……それ、何のゲームだ?」
『潜望鏡を確認』
『右舷から、魚雷接近』
俺の問いかけに、皐月は一瞬だけ視線を向けたが、すぐに画面に固定した。
「あ、斉昭くん。これ?『battle ships』だよ。第一、二次世界大戦中の戦闘艦で戦うオンラインゲーム。……ちょっと今、大事な局面だから静かにしてて」
『battle ships』。その名を聞いた瞬間、俺の脳裏にクソ親父の姿が浮かんだ。あいつも昔、酒を片手にこのゲームを熱心にやっていた。「斉昭、海戦の本質は物理演算と心理学だぞ」とか何とか言いながら、深夜までモニターに張り付いていたっけ。
画面上では、皐月の操作する艦艇が、信じられないような機動を見せていた。魚雷6本を逆ハンの要領で船の後部を振り、華麗にかわす。敵の戦艦から放たれた巨砲の弾丸が、彼女の艦の周囲に水柱を立てる。だが、彼女はその弾道を読み切っているかのように、最小限の回頭で回避し続ける。
「……速い。いや、反応速度がおかしいだろ」
「ラジコンと同じだよ〜。慣性の法則を理解して、先を読めば、砲弾なんてスローモーションに見えるし〜」
彼女が操作している艦は、細長く、甲板に異様な数の円筒形を搭載していた。
「その船……戦艦じゃないのか?なんか弱そうだけど」
「はぁ?何言ってるの斉昭くん。これは『重雷装巡洋艦・北上』。ロマンの塊だよ?」
彼女がマウスをサイドボタンごと押し込んだ。画面上の北上の側面から、文字通り「壁」のような数の魚雷が放出された。片舷20門、両舷合わせて40門の酸素魚雷。それは美しい扇状の死の網となり、進撃してくる敵艦隊の進路を完全に塞いだ。
「いっけぇ〜!お魚さんたちのパレードだよ〜ん!おっと!あの艦載機はミッドウェイのかな?おーっと爆撃してくるねぇ!おっもーかーじ!」
北上は、12発の爆弾を全て避け切った。そして約1分後。画面の向こう側で、逃げ場を失った敵の大型巡洋艦と駆逐艦が、次々と水柱に包まれ、沈んでいく。キルログが滝のように流れ落ちた。
「ふぅ……。勝利。やっぱり北上の『面』での制圧能力は最高だね〜。装甲ペラくて対空死んでるのはアレだけど」
皐月はヘッドセットを外し、椅子に深くもたれかかった。
「お前……。今の動き、素人じゃないだろ」
「あはは。バレちゃった?私、前のオンライン大会の個人戦で世界8位だったんだよ。その時の使用艦も、もちろんこの北上。敵からは『蒼い悪魔の投網』って呼ばれて恐れられてたんだ〜」
世界8位。このシェアハウスには、タイの歴史を完コピする奴や、10000回転オーバーのプロボックスを操る女がいるが、まさか世界レベルのゲーマーまで潜んでいたとは。
「……親父もやってたんだ、そのゲーム」
「あ、城太郎さんのこと?知ってるよ。ハンドルネーム『W-Tora』でしょ?あのおじさん、戦術はメチャクチャだけど、回避だけは神がかってたよね。あの人、ティルピッツっていう戦艦使うんだけど、私は一度も当てられなかったもん」
親父と皐月。二人はこの電脳の海で、俺の知らないところで砲火を交えていたらしい。
「……あのおじさん、今頃どこかで本物の海を泳いでるんだろうね〜」
「ああ。今頃クロールで時速40ノット出して、本物の魚雷と並走してても驚かないよ」
俺はため息をつき、画面の中で静かに波に揺れる北上を見つめた。窓のない教室、深夜のスピリタス、世界8位の重雷装巡洋艦。
「……もう、何が起きても驚かないと思ったんだけどな」
「ナリくんもやる?サブPCあるよ?」
「いや、やめとく」
俺は皐月の部屋を後にし、一階のソファへと向かった。
明日は4月8日。宿泊学習の前日。嵐の前の静けさのような深夜の家で、俺は眠りに落ちていった。




