表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/19

19話 世界8位

 「ふぅ……。ようやく、一息つけるか」


 玄関の引き戸を閉め、俺は大きく伸びをした。教科書運びという名の重労働と、夜露の脳内図書館が爆発した世界史の授業、そして何より、窓のない閉鎖空間という特殊な環境下での初授業。それらすべてが、俺の肉体と精神を削り取っていた。だが、主夫に休息はない。鞄を放り出すより先に、俺はキッチンへと向かった。


 冷蔵庫を開けると、昨日買っておいた秋刀魚が三匹、静かに冷気を纏って横たわっている。


 「約束通り、今日は秋刀魚だ」


 俺は手際よくグリルを予熱し、秋刀魚に塩を振る。ジュゥゥ、と脂が弾ける心地よい音が静かなキッチンに響き始めた。その音を聞きつけてか、二階からドタドタと騒がしい足音が降りてくる。


 「さんま!秋刀魚の匂いがするのです!ラーマ5世も驚きの香ばしさなのです!」


 鼻をヒクヒクさせながら現れた夜露は、文字通り「猫」のように俺の周りを一周し、食卓の椅子に飛び乗った。続いて、まだ制服のままの彌生と、口元にパフェの食べ残し(?)のようなクリームをつけた皐月も現れる。


 「あー、いい匂い。斉昭、あんた本当に料理だけはまともよね」


 「『だけ』は余計だろ。ほら、焼けたぞ」


 大根おろしを添え、ポン酢をひと回し。黄金色に焼き上がった秋刀魚を食卓に並べる。女子三人は、一瞬の静寂ののち、猛烈な勢いで箸を動かし始めた。夜露にいたっては、骨の周りの身を綺麗にせせり取り、「完全なる解体なのです」と満足げに喉を鳴らしている。


 夕食という名の短い喧騒。それが終わると、彼女たちは驚くほど現金だった。


 「ごちそうさまー!私、お風呂入って寝るわ!明日の予習マンテカトゥーラのイメトレがあるし!」


 「私も〜」


 「夜露は冬眠……じゃなくて、記憶の整理スリープモードに入るのです……」


 嵐が去った後のように、彼女たちはさっさと二階の自室へと消えていった。残されたのは、積み上がった皿と、秋刀魚の骨の山。そして、疲労困憊の俺。


 「……さて、皿を洗うか」


 シンクに向かおうとした時、外からバカげた排気音が聞こえてきた。


 ヴアアアアアアアアン!!キュキィィィィッ!!


 「……ああ、あのプロボックスか」


 結城先生だ。彼女は今日、学校へは愛車のR34 GT-Rで出勤していた。だが、父親から押し付けられた「化け物プロボックス」をこの家に置かなければならない。結果として、一度帰宅してプロボックスをガレージに突っ込み、再び徒歩で学校へ戻る必要があったのだ。


 「ただいまー……あー、死ぬ。このプロボックス、サスペンションがコンクリートで作られてるんじゃないかしら。腰が……私の腰が……」


 玄関から入ってきた結城先生は、幽霊のような足取りでキッチンを通り過ぎた。


 「先生、ご飯食べました?」


 「……今、食欲より睡眠欲、それ以上に『安静』が必要。でも、また学校に戻らなきゃいけないのよね。しおりの最終確認があるし……あ、佐渡くん。悪いけど、この鍵、ガレージのフックにかけておいて」


 彼女はプロボックスのキーを俺に放り投げると、水を一杯だけ飲み、再び夜の闇へと消えていった。


 家事のすべてを終え、ようやく俺の自由時間が訪れたのは深夜0時を過ぎた頃だった。


 二階は静まり返っている……はずだった。だが、ふと耳を澄ますと、廊下の奥、皐月の部屋から微かな話し声と、聞き慣れない効果音が漏れ聞こえてくる。


 ドォォォォン……。

 

 『敵巡洋艦を発見』


 「……何やってんだ、あいつ」


 俺は少し気になり、彼女の部屋のドアを軽くノックした。返事はないが、中の音は続いている。俺は意を決して、ドアを少しだけ開けた。


 「おい、皐月。夜更かしもほどほどに……」


 言葉が止まった。部屋の中は暗く、トリプルモニターの放つ蒼白い光だけが、皐月の集中しきった横顔を照らしていた。彼女は巨大なヘッドセットを装着し、マウスを狂ったような精度でクリックしている。


 画面に映し出されていたのは、荒れ狂う海。そして、巨大な鋼鉄の巨艦。


 「……それ、何のゲームだ?」


 『潜望鏡を確認』


 『右舷から、魚雷接近』


 俺の問いかけに、皐月は一瞬だけ視線を向けたが、すぐに画面に固定した。


 「あ、斉昭くん。これ?『battle ships』だよ。第一、二次世界大戦中の戦闘艦で戦うオンラインゲーム。……ちょっと今、大事な局面だから静かにしてて」


 『battle ships』。その名を聞いた瞬間、俺の脳裏にクソ親父の姿が浮かんだ。あいつも昔、酒を片手にこのゲームを熱心にやっていた。「斉昭、海戦の本質は物理演算と心理学だぞ」とか何とか言いながら、深夜までモニターに張り付いていたっけ。


 画面上では、皐月の操作する艦艇が、信じられないような機動を見せていた。魚雷6本を逆ハンの要領で船の後部を振り、華麗にかわす。敵の戦艦から放たれた巨砲の弾丸が、彼女の艦の周囲に水柱を立てる。だが、彼女はその弾道を読み切っているかのように、最小限の回頭で回避し続ける。


 「……速い。いや、反応速度がおかしいだろ」


 「ラジコンと同じだよ〜。慣性の法則を理解して、先を読めば、砲弾なんてスローモーションに見えるし〜」


 彼女が操作している艦は、細長く、甲板に異様な数の円筒形を搭載していた。


 「その船……戦艦じゃないのか?なんか弱そうだけど」


 「はぁ?何言ってるの斉昭くん。これは『重雷装巡洋艦・北上きたかみ』。ロマンの塊だよ?」


 彼女がマウスをサイドボタンごと押し込んだ。画面上の北上の側面から、文字通り「壁」のような数の魚雷が放出された。片舷20門、両舷合わせて40門の酸素魚雷。それは美しい扇状の死の網となり、進撃してくる敵艦隊の進路を完全に塞いだ。


 「いっけぇ〜!お魚さんたちのパレードだよ〜ん!おっと!あの艦載機はミッドウェイのかな?おーっと爆撃してくるねぇ!おっもーかーじ!」


 北上は、12発の爆弾を全て避け切った。そして約1分後。画面の向こう側で、逃げ場を失った敵の大型巡洋艦と駆逐艦が、次々と水柱に包まれ、沈んでいく。キルログが滝のように流れ落ちた。


 「ふぅ……。勝利。やっぱり北上の『面』での制圧能力は最高だね〜。装甲ペラくて対空死んでるのはアレだけど」


 皐月はヘッドセットを外し、椅子に深くもたれかかった。


 「お前……。今の動き、素人じゃないだろ」


 「あはは。バレちゃった?私、前のオンライン大会の個人戦で世界8位だったんだよ。その時の使用艦も、もちろんこの北上。敵からは『蒼い悪魔の投網』って呼ばれて恐れられてたんだ〜」


 世界8位。このシェアハウスには、タイの歴史を完コピする奴や、10000回転オーバーのプロボックスを操る女がいるが、まさか世界レベルのゲーマーまで潜んでいたとは。


 「……親父もやってたんだ、そのゲーム」


 「あ、城太郎さんのこと?知ってるよ。ハンドルネーム『W-Tora』でしょ?あのおじさん、戦術はメチャクチャだけど、回避だけは神がかってたよね。あの人、ティルピッツっていう戦艦使うんだけど、私は一度も当てられなかったもん」


 親父と皐月。二人はこの電脳の海で、俺の知らないところで砲火を交えていたらしい。


 「……あのおじさん、今頃どこかで本物の海を泳いでるんだろうね〜」


 「ああ。今頃クロールで時速40ノット出して、本物の魚雷と並走してても驚かないよ」


 俺はため息をつき、画面の中で静かに波に揺れる北上を見つめた。窓のない教室、深夜のスピリタス、世界8位の重雷装巡洋艦。


 「……もう、何が起きても驚かないと思ったんだけどな」


 「ナリくんもやる?サブPCあるよ?」


 「いや、やめとく」


 俺は皐月の部屋を後にし、一階のソファへと向かった。


 明日は4月8日。宿泊学習の前日。嵐の前の静けさのような深夜の家で、俺は眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ