『入浴』
待つ者のいない家に帰ってきて手を洗う。キッチンで弁当箱を片付けて再び脱衣所へ。今度は自分を洗う番だ。
座り仕事が中心だから、それほど汚れている気はしない。けれども一日でも欠かすと落ち着かないのだ。帰宅直後のシャワーは、もはやオンとオフを切り替える儀式のようである。
窓のない浴室へと駆け込み蛇口を捻る。指先に当たる無数の水玉が暖かくなるのを待つ私は無心だった。
ぼんやりとただそこに在る。心は少しも動かない。
しんとした風呂場の足元に湯気が立ち込めだした。頃合いを見計らって私は顔から湯の雨に滑り込む。照明のせいだろうか。瞼に閉ざされた景色はチカチカと赤い。
いくつもの小さな熱の塊が、頬を伝い体を滑り降りていく。少しずつ思考がぼやけてくる。しかし、遠のく意識を現実へと引き戻す感覚が胸の辺りにあった。
心臓だ。顔は火照っているというのに、それより下が懸命に寒さを訴えてくる。湯気しか当たっていない肩など放っておけば震えだしそうだ。
仕方なく私は肩を狭め、湯のサークルに収まろうと身を捩る。排水口へと続くタイルの流れを見下ろしていて、ふと視界の端の壁が気にかかった。
浴槽だ。そういえば、もう長く使っていない。
シャワーの手軽さに慣れてしまったせいだ。湯を張り、抜くだけの労力がもったいなくて気がつけば遠ざかっていた。かがみ込んでその内側を指でなぞってみる。人差し指の腹にはごわっとした不快な感触が残った。時折水で流していたが、やはり磨かないといけないらしい。
無感動な心臓の上に手を当ててみる。まだ動けそうだと思った。
シャンプーを置く棚の一番上に置かれた浴槽用スポンジと洗剤に手を伸ばす。
湯を流し続けるシャワーヘッドを手に取り湯船の汚れを落としにかかった。
裸で掃除にかがむ姿は、さぞ滑稽なことだろう。高温多湿の中で「手荒れの心配はなさそうだ」などと考えながら黙々と垢を擦る。湯に包まれて行う作業は、存外快適だった。
一通り擦り終えて一息。呆気なく使える状態になった。あまりにもノータッチでこびりつく汚れもなかったらしい。
キュッキュッと音をたてるホーローに耳を傾けながら、しばし考える。
たまには沸かしてみようか。