夜、煩悶。
男女が床を共にするのは、特別なことだと思っていた。
きれいな子と隣で、寝間着で……。
いつかの空想が現実になってもう一月になる。
それなのに、心がちっとも動かないのはなぜだろう。
恋愛感情がないわけではない、と思う。好きあって、ようやくこの関係にまでこぎつけたのだから。
だが、幸福に浸る気分になれない。悪事を働いているような後ろめたさが常に付き纏う。
いや、分かっている。俺はただ不安なのだ。自分にはもったいないパートナーを得て、彼女に何を返せばいいのか分からない。どうすれば彼女が喜ぶのか分からない。
俺は笑えないし、喋りも下手だ。話すこと自体が嫌いと言っていい。側に居たってつまらないだけだと思う。
下手なりに「恋人」を務めてきた。だが砂上に積み上げた幸福は、俺を不安定にしただけだ。足元が崩れ去る予感が常につきまとう。
「……起きてる?」
鬱々としていると、左腕の辺りから声が届いた。すっきりとした甘い声。
布団の中はじんわりと温かい。
「起きてる」
答えると、暗闇にころころと笑い声が響いた。
「やっぱり。寝息聞こえなかったし」
気配に敏いと思うと同時に、観察されていたことに驚く。意外、というか俺のどこにそこまで興味を持てるんだろうか。
観察対象としてこれ以上退屈なものもないだろうに。付き合っているのに何だが俺には恋愛が分からない。
「それで、どうかしたか?」
一旦思考を断ち切って俺は尋ねた。就寝前に声を掛けたのだ、何か用事があるのだろう。
「ううん、何考えてるのかなって思ってさ」
俺が考えていたこと、か。一般社会を考えれば、多分答えは「伝えるべきでないこと」になる。つまらないこと、人の気分を沈ませること。
だが、それを隠すことは不誠実であるように思われた。
どう伝えればいいだろう。人を思いやるのは苦手だ。人を落ち込ませることを考えているのに、それとなく話すなどできるだろうか……。
「お前のこと」
気まずく黙り込まないように、俺は咄嗟にその場を濁した。
「えっ! ……本当?」
予想外に嬉しげな驚嘆の声に、わずかに胸が痛む。問いかけを無視して俺は続けた。
「それから俺のこと」
「ふーん、そうなんだ……」
いくらか落ち着いた声が返ってくる。普段から明るい声を陰らせてしまう罪悪感。俺は、なんて暗い人間なんだろう。
「俺といて、楽しいか?」
聞くべきでないことだと分かっている。恋をできる歳にもなって自分の価値を人に問うなんて馬鹿らしい。
そう思いながらも、問いを発する自分はどこかすっきりとした心持ちだった。馬鹿らしいことに、いつまでも蝕まれているせいかもしれない。
部屋の微かな光を集めて瞳が揺らいでいる。彼女と眼差し。久しぶりに彼女と向き合った気がする。
今まで曖昧にしてきた部分がひりついて痛い。沈黙の中で思わず身をよじりたくなるのを堪えた。
「楽しい、って言うのは、ちょっと違うかな。すごく落ち着く。すごく、……安心する」
届けられたのは、考えてもいない答えだった。こんなつまらないやつといて、どこに安心できるのだろう。皆目見当もつかない。
「安心、か。……できるのか?」
疑わしげな俺にも彼女は動じない。茶化すことなくはっきりと頷いてくる。
「うん。少なくとも嘘を言ってるようには見えないから。いつもとっても真っ直ぐだから」
人柄が、と言うことだろうか。
確かに交際の上ではできるだけ正直にありたいとは思っている。そして、そう心掛けてきた。俺は思った以上に信頼を勝ち得ていたらしい。
「楽しい」と言われるより、余程信じられる褒め言葉だ。
傍から見ればきっと些細なやり取り。それでも心がすごく軽い。一歩前に進めた気がする。
「そっちは、さ」
安堵とともに眠気に誘われていたが、どうやら俺だけだったようだ。
「私といて、楽しい?」
揺れていた瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。何かを訴えてくるような鋭い光じゃない。それなのに視線を外せない。
どう答えるべきか言葉に迷った。
「分からない」
表面的な考えれば十分に楽しい日々だ。ただ、いつ壊れてしまうとも知れない関係に怯えていた自分は否定できない。「心から喜べていた」と言ってしまえば嘘になる。
濁した答えに彼女の表情は曇った。
ふざけていい場面じゃないのは分かっていた。この反応も当然だろう。
彼女の目から光が完全に失われてしまう前に、俺は言葉を続けた。
「ただ、これからも居たいとは、思ってる」
最後の方は掠れて声にならなかった。考えていることを声にするだけのことが、俺には存外難しい。
目の前で彼女が目を見張る。ほんの一瞬の無防備。うつむく姿がしおらしい。
とりあえず、伝わりはしただろうか。
「一緒に、だよね?」
「ああ」
「私と、だよね?」
「……ああ」
質問に応じながら、思わず顔を逸らす。言葉として確かめられると気恥ずかしかった。どんどん密着してくる感触も体に悪い。
好かれていると思う。愛されていると思う。その事実はもどかしいものの、後ろめたくはなかった。
こういう時、どうするのが正しいのだろう。さり気なく彼女の背に手を添えてみる。
寝間着を通していても分かる。触れた先の肌がかすかに跳ねた。だがそれもすぐに収まって、なだらかな形だけを伝えてくる。
無抵抗というのが逆に怖い。俺はどこまでを求められているのだろう。
思考をまとめようとしてみたが、人と触れている実感に全てを飲み込まれていくようだった。
温もりの伝わる距離感が、信じられないほどに心地よい。全身がじんわりと幸福に包み込まれて包み込まれていく。抵抗すべきと分かっていても、どうしても抗いがたい。
「……眠そうだね」
胸の辺りから聞こえた声に、俺は意識を呼び戻された。知らず知らずのうちに夢へと誘われていたようだ。
俺は辛うじて頷いてみせる。
顔を確かめられないが、動きや音は伝わったようだ。俺の耳にクスリと笑い声が届いた。
「それじゃあ、また明日ね」
「ああ、おやすみ」
悶々と、しかし真っ直ぐに、俺は眠りへと落ちていった。




