第九十八話「因果応報」
新白金タワー。新宿に林立する超高層ビル群をさらに見下ろすように聳え立つ、先端が針の如く尖った白銀の新しき巨塔。かつて同地域で最も高かった東京都庁第一本庁舎、通称バブルの塔のゆうに四倍の高さを誇るそれは、今の日本の支配者が誰であるかを物語っているようだった。
ロビーを極めて規則的な動きで歩くぜんまい仕掛けの人形じみた警備兵はぼくの顔を知っているので、そのまま〈関係者以外立入禁止〉と書かれた奥の廊下へと歩いていく。突き当たりには姉さんの会長室含む特別フロアへ至る特殊エレベーターが三基。設置された顔認証監視カメラがぼくの顔面情報を認識し、人工知能IRISは無言で真ん中のエレベーターの扉を開けた。白金エレクトロニクス製の世界最速エレベーターは最高時速百二十キロメートル、およそ三十秒ほどでぼくを最上階まで連れて行く。
最上階は全面強化ガラス張りであり、まるで空の中に佇むような錯覚をぼくに与えるが、すべてマジックミラーなので外からは中の様子はまったく見えない。まあそんなことはどうでもいい。ぼくは会長室まで早足で歩みだす。
「姉さん。大事な話が」
会長室の扉を開けるや否や飛びこんできた光景に、ぼくは絶句した。
姉さんとサリーが、仲良くお茶を飲みながら、仲良さげに語りあっていたのだから。
「あら。何ですか。ヒデル。レディのお茶会にいきなり不躾な。ノックぐらいしなさいな。ぷんすか」姉さんがあまり怒ってなさそうな芝居がかったり口調でぼくをたしなめた。
「そうよ。ヒデル。今は私がヒヅルと大事な話をしているのよ」サリーがあろうことか便乗した。
「貴様、自分の立場が」
「ヒデル」サリーに凄むぼくを、いきなりヒヅル姉さんが真顔で一喝した。「ここへ座りなさい」
「はい」姉さんの命令とあらば仕方ない、と、ぼくは言われたとおり姉さんの隣に着席した。
「よかったらヒデルも飲んで」サリーが十代少女の如き天使の微笑みでぼくに紅茶を注いだ。先日のぼくの暴力沙汰などまるでなかったかのように。「毒なんて入ってないわよ。私もちゃんとこうして飲んでるから」
サリーはおどけた調子で、しかしあくまで上品な仕草でティーカップに残されていた紅茶をひと口飲んだ。だが紅茶には何も仕込まずカップに毒を塗っておく、なんて手もある。古い手口だが。
「さて。そろそろ本題に入ろうかしら。ヒヅル。私たち色々あったけれど、今後の友情の印として、我がミラクル・オラクル財団の保有する全資産の九割を、あなたに託すことにしたわ。大切に使ってね」
サリーのその提案に、ぼくはふたたび絶句してしまった。
ミラクル・オラクルは表向き慈善事業を支援する財団だが、実質サリーのいかがわしい洗脳研究のための機関、あるいはサリーの私兵団と言っても過言ではない組織で、その組織の資産の九割を姉さんに譲渡するとは、要するに完全なる降伏宣言である。
本当に何を考えてるんだ。この女?
「あゝ。サリー。我が心の友よ」
姉さんは感極まったのか、いきなり立ちあがりサリーを抱擁した。
「ヒヅル。私たち、ずっと友達よね」サリーは相変わらず少女のように屈託のない笑みでそう訊ねた。
「もちろんですわ。共に世界を変えましょう、我が親友よ」
サリーはぼくを洗脳し、親愛なる同胞たちを十八人、あるいはそれ以上殺した極悪人だというのに、あろうことか姉さんがそんなやつと抱きあって永遠の友情を誓いあうなど予想だにしなかった光景に、ぼくの頭は混乱を極めていた。
いつしかぼくがサリーに捕らえられた時、姉さんがアメリカまで〈会談〉という名目で乗りこんできてくれたことがあり、その時もサリーは笑顔でお友達になりましょうと姉さんに(無礼にも!)提案したのだが、あの時は腹の中で邪悪な策謀を巡らせていたのがぼくにもわかった。
しかしながら今の姉さんとサリーのやりとりは、そんな上っ面だけのやりとりとは思えなかった。
いくら姉さんが圧倒的カリスマ指導者あるいは恐るべき白金機関の総帥とはいえ、世界一の富豪一族ブラックメロンの令嬢ともあろう女がおいそれと自分のほぼ全財産を差しだしたりするだろうか。サリーも所詮は人の子、命が惜しくなったのか。ぼくはこんなやつにいいように操られていたのか。
「うれしいわ。ヒヅル。財団の皆にも白金グループの活動を全力でサポートするように伝えておくわね。るんるん」
サリーはとても上機嫌に鼻歌を歌いながらスキップし、会長室を後にした。
茫然とサリーを見送ったぼくに、姉さんは「不思議ですか」と、ひと言。
同時にぼくの頭に、ひとつの仮説が浮かんだ。
「まさか。姉さん」
ヒヅル姉さんは常人の何百倍、あるいは何千倍というスピードでありとあらゆる知識を吸収し、地球上すべての言語を操る最高の〈人工全能〉だ。
「そう。サリーはこの私自らの手で洗脳しました。彼女は曲がりなりにもあのブラックメロン家の四女。その利用価値は計り知れない」
つまり姉さんはサリーから洗脳のノウハウを奪い、サリー自身を洗脳して自らの手駒にしたのだ。
我が姉ながら恐ろしい人である。
「しかしサリーによると、彼女の洗脳手法も未だ研究段階で、完全ではないそうですね。特に問題なのが知能が著しく衰えることで、サリーを白金機関のスパイとしてブラックメロン家に忍びこませるのは難しそうです。なかなかうまくはいかないものですわ」