第九十六話「別人」
読者の皆様。おひさしぶりです。白金ヒデルです。
あろうことか、我々最大の宿敵ブラックメロン家が四女サリーの奸計にはまり、洗脳され、仲間を手にかけてしまった恥ずべき男でございます。
だがしかし! ぼくにも白金機関のエージェントとしての矜持がある!
恥じてヒヅル姉さんに自刃を申し出たものの、それは許されなかった。
太陽の女神が如き慈愛で記憶を取り戻したぼくを迎え入れ、すべてを許したのだ。
ぼくが晴れて白金機関に帰還してから早二週間ほど経ち、復帰後の初任務が与えられた。あの憎き魔女サリーからヘリオスやブラックメロン家の情報を引き出すことである。これは〈偉大なる太陽〉直々の命令であり、後の戦局を決定づける重要な任務だ。
と言えば聞こえはいいが、実のところぼくは姉さんとの戦いで決して軽くはない傷を負い、失われた両腕は結局元には戻らず、姉さんと同じ機械仕掛けの義手となっていた。白金グループの技術の粋を集めて作られたそれは、神経伝達パルスを機械信号に変換し、あたかも本物の腕同然に動くらしいのだが、そこに至るまでは長いリハビリを要すると聞く。今はフォークとナイフを使うのすら覚束ないざまだが、姉さんも同じだったのだと考えると、少しだけ嬉しい。いや、大いなる幸福である!
話が逸れたが、つまり実戦では使い物にならないので裏方に回されたのと、サリーがぼくとの対話を(身の程知らずにも!)熱烈に希望しているらしく、白羽の矢が立ったというわけだ。
ちょうどいい。
ぼくもあの女には言ってやりたいことがたくさんあるし、良いように操られていた恨みも晴らしてやりたかったところだ。
サリーは現在武装要塞第百五十四白金タワーの地下室に幽閉されている。表向きは日本への観光旅行ということになっているが、ヘリオスの息のかかった欧米のマスコミでは悪の枢軸国日本がブラックメロン家の令嬢を不当に拘束し、重大な人権侵害を犯しているなどと喧伝しているようだ。なお、サリーのSNSアカウントはすべて白金機関の情報部が管理しており、彼女が貸切新幹線やチャーター機で日本各地を遊び回っている写真や動画が毎日投稿されている。言うまでもなく合成であるが。
サリーの幽閉されている地下室は鉄筋コンクリートの刑務所……とはまったく趣きの異なる、むしろ高級感溢れる大理石造りのオフィスビル内のような場所だった。王宮さながらの刺繍入りの高級絨毯の上を歩き、B101と書かれた表札なき部屋の扉に付いている端末にカードキーを差しこむと、赤いLEDが緑色に変化し、がちゃこんと丈夫そうなロックが解錠された。
「やあ。よく眠れたかい」
ぼくがノックもなしに部屋へ立ち入ると、サリーはネグリジェ姿で布団にくるまっていた。どうやら眠っていたようだが、ぼくの存在に気づいたのか、眠たそうに眼をこすりながらこちらを向いた。はだけたネグリジェからはみだしがちな彼女の豊かなふたつのメロンがその存在を強烈に主張しているが、今のぼくにはどうでもよかった。
「あら。誰かしら」
サリーはまるで初めて会う人間に接する態度で、ぼくを迎え入れた。別に記憶喪失になったというわけではなく、彼女がぼくを認識できない理由は他にある。
「あなた。まさか、パエトン?」
驚いたように眼を見開き、口元に手を当て、両手を広げて歓迎するサリーであったが、ぼくがあくまで友好的ではない雰囲気なのを瞬時に察知したようだった。
「ああ。なるほど。そういうこと。まあ、そうよね。あなたは組織の人間に手をかけてしまった。だから、ヒヅルは」
ひとりで勝手に納得していたサリーに、ぼくは冷淡な声で述べた。
「サリー・ブラックメロン。これからお前を取り調べる。ブラックメロン家やヘリオスの情報を引き出すためなら、ありとあらゆる手段を使うことを〈偉大なる太陽〉から許可されている。痛い目に遭いたくなければ」
「それなら全部話すわ」
拷問するまでもなく、むしろ積極的にサリーはべらべらと壊れた水道の蛇口のごとき勢いで暴露しだした。父親がブラックメロン家当主にしてヘリオスの最高指導者であるハロルド・ブラックメロン一世であること、母は彼の側室(というべきかわからないが、セカンドワイフ、と言っていた)のリリア、兄にハロルド二世とナサニエル、弟にヴィンセント、姉にアレクシアとアリア、エステル、妹にナディーヌ。うち何人かはハロルド一世の生誕祭で会っている。また、サリーにはベロニカという娘がいて、今年中学生になるらしい。以前マイクという男がいたという話は聞いていたが、まさか子供までいるとは思わなかった。
家族構成はおろか、彼らが所持する企業や団体、支配下にある政治家や官僚、経営者、各国要人との関係などの情報も得られた。これは白金機関情報部の優秀な職員たちでも掴みえなかった極秘情報であり、後にすべてリスト化、姉さんに提出しよう。
しかしこの女、こんなにも簡単に白状して、自分の家族を守ろうという意志がないとしか思えない。自分の保身のことばかり。自分が洩らした情報で家族がどうなるかなんて、知ったことではないのだろう。
こんな女に、ぼくは操られていたというのか。
唐突にぼくの脳裏にサリーと寝たあの夜の記憶が蘇り、すさまじい生理的嫌悪に襲われた。記憶が蘇っても洗脳された時の記憶は消えずに残っている。姉さんからの指示で、あえてそうさせたらしい。サリーはブラックメロン家の四女ではあるが、ヘリオスの内情にはあまり詳しくない。麗那や村正、クローディアと一時期行動をともにしていたものの、基本的にヘリオスの兵隊を仕切っていたのは麗那であり、サリーは要望を出す依頼人のような立場だった。故に、ぼくがヘリオスにいた頃の記憶からヘリオスの内部事情を聞き出すため、記憶を残すことにしたのだろう。無論ぼくは白金機関のエージェントとして私情よりも機関への貢献、殊に姉さんの役に立つことを選ぶが、まったくこの女と過ごした時間を思い出す度に吐き気がする。
「君のくれた情報で、ぼくたちは世界征服に向けて大きく前進した。感謝するよ。サリー・ブラックメロン。情報の裏づけが取れれば、君の身の安全は我々が保障しよう。ただし、君の家族の身の安全については、ぼくの関知するところではない」わざとぼくは意地悪くそう言った。
「どうでもいいわ。そんなの。私の人生には何の関係もない人たちだもの。私は、私の身の安全が確約されればそれで充分よ。家族なんて所詮は赤の他人だわ」サリーは平然とそう言ってのけた。
「ふん。どこまでも卑しい女だ」ぼくは汚物を吐くように言った。
「あら。あなたは違うっていうの。パエトン」
「その名でぼくを呼ぶな。穢らわしい」
ぼくの反応を面白がるように、サリーは不敵に笑み続ける。どこまでも憎たらしい女だ。安全保障上の約束がなければ、ここで絞め殺してやるのに。まあいい。白金機関に大きな損害を与えたこの売女を姉さんが生かしておくとは思えない。用済みになればいずれ消されるだろう。
「パエト……いいえ、ヒデル。かつての記憶を取り戻していても、私と過ごした時間を、あなたは忘れていない。そうよね」
サリーは藪から棒に、そんなことを言い出す。
「そうだな」ぼくは特に否定しない。する理由もない。
サリーはこともあろうことか、おもむろに服を脱ぎ始めた。
「何の真似だ」
サリーは見た目にそぐわぬ色眼でぼくを見つめ、顕になった豊かな乳房をぼくに突き出し、見せつけながら続ける。
「だったら、私と過ごしたあの夜のことも憶えているでしょう?」サリーの魔性の魅力。一見十代の少女と見紛うばかりのあどけなさに不釣りあいなほど豊かなふたつの膨らみ、その一種の背徳的な魅力が、ぼくの本能的な欲望を刺激する。「仕事のことなんか忘れて、あの時みたいに、ふたりで楽しみましょ。大丈夫。ヒヅルには内緒にしておくから」
「ぼくがそんな色仕掛けに惑わされると思っているのか」
ぼす。
完全に油断していたサリーの鳩尾に、ぼくの右拳がめりこんだ。
金属製の無骨な義手による、まさにハンマー同然の強烈な一撃に、サリーは眼を見開き、己の腹部に埋没したぼくの文字通りの鉄拳を見つめながら「うげ」と胃液を吐き出し、素っ裸で無様に地面に横たわってびくびくとのたうち回る醜態を晒していた。もはや世界の支配者一族の令嬢の威厳や気品など欠片もない。
何とも言えぬ征服感が、ぼくの全身を支配した。
「サリー・ブラックメロン。君から情報を引き出すためなら、ぼくはあらゆる非人道的手段に出ることを許されている。さあて。洗脳されていた復讐も兼ねて、どんな生き地獄を味わわせてやろうか。指を一本一本へし折ってやろうか。爪をゆっくりと一枚ずつ剥がしてやろうか。くくく。それとも歯を一本一本抜いてほしいかな。君のおかげで新しくなったこの義手で、原型がなくなるまで顔の骨をたたき割ってやろうか。くく、うくくく」
ぼくの狂気じみた笑いに、終始へらへらしていたサリーの顔がわずかに引き攣った。決して洒落や冗談で言っているのではなく、ぼくや宮美の心を弄び、自らの愛玩動物となるよう洗脳し、偉大なる姉さんに歯向かうように仕向け、親愛なる同胞たちを殺させた。かつてない恥辱を受けた恨みを、これから晴らせるのかと思うと、胸がドキドキする。
「ねえ。パエ……ヒデル。別に私は、何が何でも情報を死守しようとか、そういうつもりはないの。あなたにブラックメロン家やヘリオスの、私の知りうるすべての秘密を教えたわ。だからもうこれ以上乱暴はやめて。私の望みは、私の平穏。それ以外は何も望まないわ」
「まだ隠している情報があるはずだ。それをすべて吐き出すのだ。そうすれば、少しは加減してもらえるかもしれないぞ。あと、君の処遇を決めるのはぼくの役割ではない。ぼくの任務は君から情報を引き出すことだけだ。手段問わずね。君にできる唯一の生存戦略は、今ここで洗いざらい情報を渡し、〈偉大なる太陽〉の慈悲を祈ることだ」
「あ。やめ」
ぼくはサリーの長く艶やかな黒髪をひっつかみ、乱暴に引きずりあげ、ゴミを投棄するように壁にたたきつけた。
「うえ」
さっきのボディブローで内臓が潰れてしまったのか、あるいは以前ヒヅル姉さんに折られた肋骨が内臓を傷つけたのか、サリーは血反吐を吐き出した。
おっと。殺してしまっては元も子もない。すべての情報をいただくまではな。うくくくく。
「何をしているのですか」
唐突に背後から姉さんの声がして、ぼくの心臓が跳ねあがった。
ぼくは可能なかぎり平静を装い、姉さんに向きあった。
「何って、彼女を拷問しているのさ」
「そんなことを許可した憶えはありません」姉さんは毅然と言い放った。
そう。ぼくに与えられた本当の任務は、サリーから〈事情聴取〉をすることであり、本来なら捕虜となったサリーを拷問することは白金機関の掟にも国際法にも背いている(先ほど「どんな拷問も許されている」とサリーに述べたのは、彼女を揺さぶるためのブラフだ。念のため)。
「甘いよ。姉さんは」ぼくは姉さんの〈圧〉に負けじと反論した。「人の心を弄んで操るようなクズが更生するとでも思っているのかい。こういうやつには肉体的な苦痛と恐怖を与えてやるのが一番効果的だろう。ましてこいつはまだヘリオスに勝つための重要な秘密を握っている可能性が極めて高い。今は手段を選んでいる余裕はないはずだ」
「それはヘリオスの考え方と同じですよ」
姉さんにそう言われ、ぼくははっとなった。
「暴力と恐怖ですべてを支配する。高神麗那や安那子善三と、今のあなたと、何が違うというのですか」
「じゃあ、姉さんは他の方法でこの女から情報を引き出すのかい。どうやって」
「あなたは憎しみに囚われて周りが見えなくなっている。私にはそれが何よりも、心配でならない」
「憎しみに囚われもするさ!」
ぼくは大声で喚きだした。
「こいつに洗脳されたおかげで、ぼくは表の世界から抹殺された。星子とも二度と会えなくなってしまった。同じ志を持ち共に戦ってきた機関の同胞を、殺してしまった!」
そう。機関の同胞を多く殺してしまったぼくは、あくまで表向きは〈粛清〉されたことになり、顔を変えられ、別人として生きることとなったのだ。
ぼくという戦力を失うデメリットからか、弟をその手にかけるのが耐えられなかったのか、とにかく姉さんはぼくを殺さなかった。
「全部ぼくの自己責任だとでも言うのかい。この女さえいなければ、ぼくは」
髪を振り乱して喚き続けるぼくを、姉さんはただ黙って抱きとめた。
「あなたの失敗は、この私の責任です。あなたは何も悪くありません。しかしあなたが道を踏み外そうとしているなら、私は全力で阻止します。あなたは私の大切な弟ですから」
「姉さん」ぼくの眼尻から、とめどなく涙が溢れ出てきた。
「行きなさい。少しの間、休暇を与えます。あなたには休息が必要です」