第五十二話「脱北」
完全に予定が狂った。
ナサニエル・ブラックメロン率いる《超人種》たちの横槍によって忍美が戦死、《解放戦線》は李を失って後継者争いが勃発し、分裂。真茶も負傷し、ぼくたちは元山から沿岸部を北上し咸興へと逃れ、町の診療所へ駈けこんだ。北朝鮮には無償の医療制度が存在するが、実際はとうの昔に崩壊していて、賄賂でも渡さない限りまともに治療も受けられないことが多い。逆に言えば、金さえ出せばある程度の処置は施してくれるということである。
咸興の外れにある廃屋で、ぼくと真茶と美煐はしばらく息を潜め、白金機関からの支援を待つことにした。
今、ぼくは特殊な暗号化処理が施された衛星電話を使い、姉さんと話している。
『送っていただいた写真を確認しました。ナサニエル・ブラックメロンがいたのは予想外でしたが、彼は突飛な行動をすることで有名です。対北朝鮮工作に深く関わる気があるとは思えません。隣にいるのは、オフィーリア・ベレスフォード。秘密結社ヘリオスの幹部です。詳細は不明ですが、かなりの切れ者であると聞いています。彼女が対北朝鮮工作部隊の指揮官かもしれません。くれぐれも用心してください。増援の件ですが、《白金の剣》からふたり、さらにもうひとり、計三名をそちらへ向かうよう手配します。三日後に元山に到着する予定です。追加の物資も持たせましょう。何か必要な物はありますか。……もしもし、聞こえていますか。ヒデル。応答してください。もしもし』
ぼくはしばらく沈黙し、姉さんに求められてようやく重い口を開いた。
「姉さん。忍美の死については……隊長である、ぼくの落ち度としか言えない。本当に申しわけない」
『なぜ、謝るのです。ヒデル』姉さんはぼくの言を遮った。
「なぜって」
『あなたは最後まで諦めずに戦って、美煐を助けてくださいました』
「だけど、忍美も《解放戦線》も……」
それでもなお、悔やみ続けるぼくの言を再び遮って、姉さんは言った。
『ヒデル。我々の理想は何ですか』
姉さんは、今一度、ぼくに訊いた。
「何って……そりゃ、《完全世界》の実現だろう。星子や宮美のような、力を持たない善良な人々が、安全に暮らせる世界を作ることだ」
『その通りです。あなたは《我々》の理想に従っただけ。ヒデル。自分の行動に、大義はあるか? ……常にそう自問することを、忘れないでください。あなたの行動には、大義があった。そうでしょう? あなたは、犠牲こそ出してしまいましたが、美煐を救うという大義のために、諦めずに戦った。我々の理想は、ひとりの生命を軽んじるところから、崩れてゆくのです。たかがひとりの生命だから、たかが数人の、たかが数十人、数百人、数千人の……。世界の管理者となる我々がそう考えるようになれば、《完全世界》の大義は崩れ去る。あなたは、《我々》の理想を貫き通したのです。私はあなたのような弟を持ったことを、誇りに思います』
「姉さん」ふいに眼の奥が熱くなり、ぼくの頬を、数滴の涙が伝い、落ちた。
『あなたは何も間違っていません。責任があるとするなら、それはすべてトップであるこの私。今回のことに関しては、敵が一枚上手だった。それだけのことです。忍美の死に報いるためにも、我々は前だけを向いて進まなければなりません。《完全世界》を、実現するのです。それこそが散っていった仲間たちへの、本当の弔いとなる。仲間の死を悼む気持ちは、痛いほどわかります。しかし、歩みを止めてはなりません』
「無論だ」
ぼくは躊躇いなく言った。ここでぼくが歩みを止めれば、ヘリオスに屈して《完全世界》の実現がなくなれば、それこそ忍美は無駄死にしたことになってしまう。姉さんの言う通り、ぼくにできる唯一の弔いは、命懸けで我々の理想を現実にすることだ。
数日後。予定通り三人の仲間が、ぼくの指揮下に入ることとなった。
そのうちのひとり、褐色の肌に金色の短髪、顔のあちこちにピアス、といったいかにもヤンキー風な出立ちの男が自己紹介した。
「《白金の剣》、大仏正義だ。以前は陸自にいた。よろしく頼むぜ、弟様」大仏と名乗ったヤンキーが、ぼくに握手を求めた。
「弟様?」ぼくは大仏の手を握り返した。
「ああ、あんた総帥の弟なんだろ。なら敬意を込めて様を付けて呼ばにゃならん。言葉遣いは勘弁しろよ、こちとら育ちが悪いんでね」
大仏は白い前歯を光らせて朗らかに笑った。《白金の剣》とは、姉さんの直属の精鋭中の精鋭部隊だ。ほとんどのメンバーと面識はないが、一騎当千の強者ぞろいと聞いている。眼の前のこの男も、歴戦の勇者と呼ぶに相応しい只ならぬ気配を漂わせていた。
「《白金の剣》、平和祈よ。元第一空挺団所属。よろしくね」
大仏の隣にいた、ショートボブの黒髪の精悍な顔つきの女性が、不敵な笑みを浮かべて挨拶した。
「自衛隊辞めたのは上官のセクハラにぶち切れて半殺しにしてしたから、らしいぜ。気をつけな」
大仏がぼくに耳打ちして言った。
「聞こえてるぞこら」
平和の拳が、大仏の頭を掠めた。
「危ねえな。メスゴリラ」
そこは大仏も同じ《白金の剣》の猛者、ぎりぎりのところで躱していた。
「堀田ハリー。英国特殊空挺部隊出身です。新参者ですが、よろしくお願いします、隊長」
最後に一番右端にいた丸い眼鏡が印象的な、平和よりもさらにひと回り小柄な男が、深々と頭を垂れた。屈強とはお世辞にも言えぬ風采であるが、SASと言えばイギリス陸軍の中でもエリート中のエリート。彼も相当の手練であることは容易に想像できた。
「依頼の物を持ってきたよ。隊長殿。ラブレター付きでね」
棗が大型のトランクケースをふたつ抱え、ぼくの眼の前に置いた。そのうちの片方にハート型のシールが添付された手紙が添えられており、お世辞にも上手いとは言えない字で「がんばって。無理しないでね。アルマより」と記されていた。嗚呼、愛しのアルマ。今すぐ抱きしめてやりたい。トランクを開けると中には《蜻蛉》や《ゴキブリ》といった大量の虫型ドローン、加えて各種武器、擬態爆弾なども入っていた。
「彼女が美煐ちゃんかい」
子供のようにぼくの服の裾を掴んで不安そうに縮こまっていた美煐を、棗が指差して言った。未知の言葉を話す外国人、それも白金機関の錚々たるメンバーを前にしては、無理もないことだった。
「そうだよ。彼女をよろしく頼む」
そう。ぼくは今までの経緯を姉さんに話し、美煐を日本で保護してほしい、と、頼みこんでいたのだ。《解放戦線》は元山以外にも支部が存在するが、美煐曰く元山以外の《解放戦線》の連中とは面識がないし、自分の面倒を見てくれるとも思えない、とのことだった。かと言って今さら美煐がこの国でまともな人生を送ることなんて不可能なのは自明で(朝鮮共産党は、裏切り者の家族に対して全く情け容赦というものがない)、彼女をこのまま放置すれば、いずれ野垂れ死ぬか、《党》によって殺されてしまうだろう。元はと言えば羅勝元に協力を呼びかけたのは白金機関だし、結果的にぼくたちの戦いに美煐を巻きこんでしまい、両親を死なせてしまった。それに打算ずくとは言え、泰希が朝鮮共産党のスパイであることを突き止めたのは美煐の貢献によるところが大きいし、このまま見捨ててしまうのはあまりに不憫であると思ったのだ。何とかしてやりたい。彼女のように力を持たぬ普通の人々を理不尽な暴力と死から守るために、ぼくたちは戦っているのだから。ヒヅル姉さんは、ぼくの頼みをあっさり聞き入れた(『お安い御用ですよ。ヒデル。補給部隊に羅美煐を日本まで護送させるよう手配しておきましょう。あなたは余計な心配はせずに、自分の仕事に集中なさい』と言ってくれた。重すぎる肩の荷が降りた、そんな気がした)。
ぼくが美煐に「ほら」と促すと、彼女は逡巡したものの、すぐ棗の元へと歩み寄っていく。そんな彼女の背中に、ぼくは囁くように言った。
「思えば、君をぼくたちの戦いに巻きこんでしまった時点で、こうするべきだった。ご両親を助けてやれなくて、ごめんね。これが償いになるとは思えないが、どうか日本で幸せに生きてほしい」
ぼくの言葉が届いたのか、美煐の歩みがぴたり、と、止まった。
「うひょー」
「おやおや」
大仏と平和が、興奮気味に囃し立てた。
美煐は振り向きざまぼくに駈け寄り、接吻をしたのだ。
身長差を埋めるために必死で背伸びしてしがみつく彼女のその姿が、ぼくには何だか愛おしく感じた。
「待ってる、から」
頬を赤らめ、眼を背け、彼女はそれだけ言うと踵を返して、ふたたび棗のもとまで駈けていった。
「君は罪な男だな。ヒデルくん」
棗が苦笑いを浮かべながら言った。その笑顔の仮面の下では、憎悪と嫉妬の炎が渦巻いていた。




