第五十一話「起死回生」
「忍美」
全身の骨を砕かれ、心臓をひと突きにされ、もはや確実に生命活動を停止しているであろう彼女に、届かぬとわかっていながらも、ぼくは叫ばずにはいられなかった。知りあってまだ十日ほどとは言え、寝食を共にし、背中を預けて一緒に戦った仲間の死に、烈火の如き怒りと深淵の如き悲しみが、同時にこみあげてきた。
「ちょっと。あなた。私とセックスしようって時に、他の女の名前を叫ぶなんて。どういう神経しているのかしら。ぷんぷん」
ぼくを地面に押し倒し、拘束しながら首筋を犬のようにべろべろと舐め回していた淫乱桃色が、眉間に皺を寄せて憤慨した。
「いけない子ね。ちょっとおしおきが必要かしら」
桃色の左手が、ぼくの股間へと素早く伸びた。
ぐしゃ。
ゴリラのような握力。地獄の激痛。
「あら。あなた、玉がないじゃない。女の子だったの?」
桃色は眼を丸くして言った。無論そんなことはない。訓練時代に習った琉球空手の奥義に、睾丸を腹の中に隠すという離れ業があったのだ。教えてくれた御菩薩池には感謝しかない。《全能反射》で瞬時に睾丸を腹の中へ避難させなかったら、今頃ぼくは加減を知らないこの怪力ゴリラ女によって生涯子供を作れぬ体にされていたことだろう。まさに血も涙もない鬼畜の所業。
桃色にできた一瞬の隙を逃すぼくではない。すかさず拘束された腕をフルパワーで振りほどき、胸元に装着していたブローチ……そう、ヒヅル姉さんと同じ、あのブローチの裏に仕込まれた秘密のボタンをひと押し。
ぴいー。
耳鳴りのような、人類の可聴域ぎりぎりの高周波音が大気中に谺し、ぼくの胸元から青白いひと筋の光が放たれた。
桃色はそれを《全能反射》にも劣らぬ超人的な反応速度で身を捩り、心臓への直撃を避けた。
「う」
だが完全に躱しきることはできなかったのか、彼女はレーザー光線に右肩を焼かれ、素早くぼくから離れて両手両脚で四つ脚の獣のように跳躍した。
ぼくはすかさずワルサーPPKを拾いあげ、数発発射した。が、彼女は素早く木の影に逃げこみ、被弾を免れた。
「くそ。言わんこっちゃねえ。あの女忍者はもうだめだ。美煐は諦めろ。あいつが死んでも、お前の任務に支障はないだろう」
苛立ちを隠さず、真茶が喚いた。
「逃げたければ、逃げればいい。ぼくは最後まで諦めずに戦う」
「はあ? 何言ってんだ。お前」
聞く耳を持たぬぼくの態度に真茶はさらに激昂し、阿修羅の顔で咆哮した。
「ぼくは死んでやるつもりはないし、万一ここで命を落としても、ヒヅル姉さんは必ず他の手を打つだろう。白金機関には優秀なエージェントがたくさんいる。《愛の贈り物作戦》も必ず成功に導いてくれるだろう」
「そういう問題じゃねえんだよ。私の最重要任務はお前の護衛だ。ヒヅル様は、お前の身に危険が及んだ場合、お前を気絶させて任務を中断してでも連れ帰れ、と、私に命令したんだよ。わがままぬかしてると、ぶん殴って日本へ送り返すぞ」
「見え透いた嘘をつくんじゃない。あの公正な姉さんが、ぼくにだけそんな依怙贔屓したりするもんか。それに、ぼくも白金機関のエージェント。覚悟はできている。だいたい真茶、君は暗殺率百パーセントの殺し屋だろう。ここで逃げたら、君の経歴に大きな傷を残すことになる。これからは暗殺率九十九パーセントの殺し屋と名乗らなければいけなくなる。いいのかい、それで」
ぼくが挑発するように厭味ったらしい笑みを浮かべるも、真茶はあくまで落ち着き払った様子でぼくに鋭い視線を送り続けていた。
「あいつらは後でひとりひとりどんな手を使ってでも始末してやる。いいから今は黙って私に従え。これはヒヅル様の意志だぜ。総帥の命令に逆らうのか、てめーは」
「そんな話は聞いてない。君のでっちあげだろう」
「あらあら。痴話喧嘩かしら」
ぼくたちの口論を遠くから面白そうにただ見守っていた桃色が言った。彼ら改造人間たちには、この隙にぼくたちを始末してやろうという無粋な考えはないらしい。腐っても戦隊ヒーローということだろうか。
ぼくは、宋赫の腕の中で震えている美煐に軽くウインクした。
「美煐。ぼくは決して君を見捨てて逃げたりはしない。言っただろう。ぼくたちの理想は、君のように善良な《普通の人たち》が安心して暮らせる世界を作ることだと。その中には当然、君も含まれる。ここで君ひとり救えないようなら、どのみちぼくに《完全世界》なんて作れやしない。どこかでヘマをやって死ぬのがオチだよ」
ぼくが決め顔でそう言うと、美煐……ではなく、遠くから見ていた淫乱桃色が、頬を赤らめてもじもじと身体を捩っていた。
「ああっ。素晴らしいわ。何て勇敢な人なの。あっ。子宮が疼くわ。あっ。あっ。あなたの、遺伝子を、ちょうだい!」
清々しいほど性欲を剥き出しにした桃色が、五輪の短距離走者も真っ青の勢いでこちらへ全力で駈け寄ってきた。
「断固拒否する」
ぼくはこっそり弾を再装填しておいたワルサーPPKを桃色へ向けて数発撃ったが、相変わらず獣のような動きで縦横無尽に飛び回る彼女を捉えることはできなかった。
「ぼくは清楚な女性が好きなんだ」
家畜を見る眼で桃色を見下し、急激に距離を詰めてくる彼女の捕縛を躱すぼく。
「ふたり任せていいかい。真茶。どのみち彼らは簡単に逃してはくれないだろう」
「ち。いっちょ前の口を利きやがって」
真茶はぼくの説得に失敗して不貞腐れていたが、どのみち逃げられぬ現状を悟ったのか、背後に迫った青色の一撃を、まるで予知していたかのようにひらりと避けた。
「OH! ジャパニーズ・ニンジャ!」
初めて攻撃を避けられ、青色は眼を丸くした。
「さっきは不意打ちくらったけどな。化物みてーな動きするとわかってりゃ、どうにかなる」
真茶が得意げに笑い、今度は横から矢のように飛んでくる黄色の飛び蹴りを、事前に音を感知して躱す。
「緑色。何が何でも彼を拘束するのよ。殺してはだめ。私のモノにしたいわ。そうしたら、後であなたにも特別奉仕してあ、げ、る。うふん」
「桃色は緑色の腕をその豊満な双つの丘の間に挟み、顔を寄せて蠱惑的な笑みを浮かべた。……合点承知!」
緑色はふたたび地の文のような台詞を口にすると、ぼくを威圧するように筋肉を膨張させ、ハンマーを構えた。青色や黄色に比べて大柄で体重もある彼の動きは鈍重で、ぼくの《全能反射》をもってすれば難なく彼の攻撃を躱すことができた。攻撃後の隙を狙ってワルサーPPKで頭や心臓を狙うが、ぼくを犯そうと執拗に迫ってくる桃色に妨害され、うまくいかなかった。
かくなる上は、と、ぼくは彼らふたりと交戦しながら徐々に移動し、忍美の死体の傍に落ちていた八九式小銃を、そして革命マンションの壁にめりこんだ李の死体から予備弾倉を、それぞれ拝借した。
戦闘は火力、という言葉があるが、実に的を射ていて、一秒で人間を蜂の巣にする八九式小銃にぼくの《全能反射》が加われば鬼に金棒。いくら《超人種》が人間離れしていようと、先ほどの赤色の死で証明されたように、ライフル弾を無力化できるわけではない。事実、緑色も桃色も、ぼくに迂闊に接近できないでいる。
一方で、青色と黄色を相手にしていた真茶は、徐々にではあるが、追いこまれつつあるようだった。彼女もまた超人的な聴覚でふたりの動きを捕捉して応戦していたが、先ほど青色にやられた傷のせいで、身体がついてこれないという具合だった。特に青色のスピードは驚異的で、致命傷だけは避けていたものの、真茶が動くたびに全身のあちこちにできた裂傷から赤い飛沫が噴き出していくのが、はっきりとわかった。
「真茶。プレゼントだ」
桃色と緑色から距離をとって、ぼくは真茶に向かってある物を投擲した。
ぱん、という乾いた炸裂音とともに、辺り一面を煙が覆う。先ほど忍美の死体から小銃だけでなく、こっそり煙幕も拝借しておいたのだ。
さて、《超人種》たちは、視界の効かない煙の中で戦った経験はあるだろうか。身体能力で劣るぼくと真茶が、改造人間たちに唯一勝っている部分があるとすれば、それは経験である。ぼくは白金機関に入ってからこの六年間で、数え切れないほどの訓練、戦場を経験してきた。その舞台は、必ずしも視界のよい平地ばかりではなかった。火の中、水の中、森の中、雪の中、嵐の中、コンクリートジャングルの中、銃弾砲弾爆弾の雨の中……。手脚を拘束された状態での脱走訓練、眼隠しをされた状態での戦闘や逃走の訓練……ありとあらゆる状況を想定した訓練は、まさに地獄の日々であった。真茶に同じような経験があるかはわからないが、暗殺率百パーセントの殺し屋というくらいだ、相当の修羅場をくぐり抜けてきているだろう。
「うぼお」
「ぐええ」
青色と黄色の身体のあちこちに、瞬時に風穴が開けられた。
状況は一変した。
視界を奪われた改造人間たちは、一方的に真茶の相棒の牙の餌食となっていく。超聴覚を持ち、音で敵の動きを把握できる真茶にとって、煙幕など無きに等しい。敵だけが眼隠しをされているようなものである。
「緑色、あの煙の中に入っちゃだめよ」
青色と黄色に起きた異変に気づいた桃色が、色欲で弛緩していた顔を強張らせ、叫んだ。
煙が晴れた頃には、そこに真茶の姿はなく、血塗れになった青色と黄色が、転がっているだけだった。体中に風穴を開けられたにもかかわらず、まだ彼らはかろうじて息があるようだった。
「あの緑頭はどこに」
緑色が叫んだ瞬間、彼の心臓に赤黒い穴が、開いた。
煙に紛れて姿を晦ました真茶が、どこからか無音狙撃銃VSSで、彼を狙撃したのだ。
「くっ」
生命の危機を感じた桃色は、素早く後ろへ跳躍し、大木の後ろへと姿を隠した。直後、木の皮を真茶の放った銃弾が、音もなく抉った。
ぼくも八九式小銃で真茶に加勢する。桃色はただ一方的に逃げ回るのみで、始末するのは時間の問題であった。
が、ここで思わぬ横槍が入った。
「待ちたまえ」
その細い身体からは想像もできぬ、雷鳴のように激しいナサニエルの叫声が、夜空に轟いた。
「この勝負、君たちの勝ちとしよう。もう充分に《超人種》の性能はわかった。彼らは大切な我が社の商品である。彼らをここまで追いつめた君たちに心から敬意を表し、人質を解放するとしよう。どうかそれで我々を見逃してはくれまいか。赫君、朝鮮語で」
「翻訳は要らない。美煐を返すというなら、《我々》は貴方がたに用はない。どこへでも好きに行けばいい」
ナサニエルの言葉を遮り、ぼくは英語でそう返した。本音を言うと、彼ら《愛情戦隊》とやらのひとりでも日本へ連れ帰り、専門機関で解体、分析させたいところだが、それを彼らは許すまい。まだ美煐は宋赫の手中にある。桃色も、実力未知数のオフィーリアもいるし、真茶も決して軽くない傷を負っている。状況は未だこちらが不利だった。このまま戦いを続ければ全滅もありうるし、美煐も無事には返ってくるまい。
ナサニエルの取引に応じておくべきだ。
本音を言えば、仲間である忍美を殺したこいつらを、殺してやりたい。
しかし個人的な感情に駈られて、戦況を見誤ってはならない。真茶と美煐の命運は、ぼくが握っている。
「ふふふ。冷静だな。君が合理的判断のできる人間でよかったよ。赫くん。彼女を解放したまえ」
「仰せのままに」
ナサニエルが命じると、赫は美煐に突きつけていた銃を降ろし、どん、と、乱暴に背中を突き飛ばし、自らはナサニエルの乗るベンツの後部座席に乗りこんだ。
美煐はすっかり腰が抜けてしまったのか、ぼくのところまで歩けずに転倒してしまった。
「大丈夫かい。もう安心だよ」
ぼくが優しく手を差し伸べると、美煐は「はい」と小さな声で頷き、それから緊張の糸がほぐれたのか、眼からぼろぼろと涙を零してあーんあんと泣き出してしまった。
「君とはまた会えそうな気がするな。若き指揮官よ。差し支えなければ、名前を教えてくれないかい」
「金日出だ」
「金くんか。憶えておくよ。それでは、またいつか会おう」
胸の中で号泣する美煐を抱きながら、ぼくは遠ざかる一台のベンツを見送った。