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第2話 帰りたくない理由

第2話 前書き


彼と一緒に過ごす、いつもより少し特別な時間。


彼の芝居がかった誘いに、彼女も勇気を出して「はい、喜んで!」と応えてみる。


カフェでおしゃべりをして、一緒にご飯を食べて。


楽しい時間が続くほど、もっと一緒にいたい気持ちが膨らんでいく。


けれど、彼も同じように思ってくれているのかな。


少しの勇気と、こぼれそうな「好き」。


二人の距離が、また少し近づくお話。

第2話 帰りたくない理由


あの日から三日が経った。彼女はすっかり元気を取り戻していた。


仕事中はいつものように意見を出し、周囲と笑い合い、困っている人を見つければ自然と手を貸している。


彼は少し離れたところから、その様子を眺めていた。


「ずいぶんご機嫌だね」と同僚が言う。


「俺が?」


「ほかに誰がいるんだよ」


「おや。そんなに顔に出ていたかな」


「出てるね。何かいいことでも?」


彼は少し考えて、笑った。


「そうだな。いいことがあったんだろうね」


彼女が元気になった。それだけのことだ。……それだけで、案外嬉しいものなのだ。


*


夕方、彼は彼女に声をかけた。


「お疲れさま」


「あ、お疲れさま!」


「今日は元気そうだ」


「うん。もう大丈夫」


「そいつは何より。ところで、今日は寄り道しないの?」


「……え?」


「この間のベンチ。なかなか居心地がよかっただろう?」


彼女は一瞬、言葉に詰まった。あの日のことを恥ずかしく思っているのかもしれない。


「まあ、今日は寒いしね。別のところにしようか」


「……別のところ?」


「駅前に新しい喫茶店ができたんだ。ケーキが美味しいらしい」


「へえ、そうなんだ」


「俺、一人でケーキを食べるのも好きなんだけどね。どうせなら誰かと美味しいって言いながら食べたいじゃないか」


「ふふ、そうだね」


彼は片手を胸に当て、芝居がかった一礼をする。


「お付き合いいただけますか、お嬢様?」


彼女は声を立てて笑った。


「はい、喜んで」


……うん。今日はいい夕方になりそうだ。


*


喫茶店は思ったより静かな場所だった。窓際の席で彼女はメニューを開くなり目を輝かせた。


「わあ、これ美味しそう。チョコレートケーキ」


「いいね。俺もそれにしようかな」


「えっ、同じの? 違うの頼んだほうが、いろいろ楽しめるかなって」


「なるほど。それも一理ある。じゃあ、俺はチーズケーキにしよう。ただし、ひとつ条件がある」


「条件?」


「お互いのケーキをひと口ずつ交換すること」


「ふふ、それが狙い?」


「もちろん。交渉は成立かな?」


「成立!」


彼は満足そうに笑った。彼女といると、こんな何でもないやり取りが楽しい。


運ばれたケーキを一口食べた彼女の顔が、ふわっと緩む。


「……おいしい」


「そんなに?」


「うん。すごく好き」


彼女が皿を押し出した。


「はい、ひと口どうぞ」


「お、ありがとう。……うん、これは美味しいね」


「でしょう?」


「参ったな。俺のチーズケーキもなかなかだと思ったんだけど」


「そっちも食べていい?」


「もちろん。ほら、どうぞ」


彼女はチーズケーキを食べ、また嬉しそうに笑った。


どうやら自分は、彼女が嬉しそうに食べているところを見るのも、かなり好きらしい。


……困ったねぇ。


*


街灯が灯り始めた帰り道。


「今日はありがとう。楽しかった」


「こちらこそ。いい店だったね」


「うん。また行きたいな」


「じゃあ、また行こう」


彼女は少し驚いた。


「……いいの? でも忙しいでしょう?」


「忙しい日もあるけど、忙しい日ばかりじゃないよ。それに、俺だって楽しかったんだから」


彼女は少し俯き、しばらくして言った。


「……この間も、ありがとう。ベンチで話を聞いてくれたとき」


「ああ。こちらこそ。俺も楽しかったよ」


「でも、私、全然楽しい話してなかったよ? 疲れたとか、悔しかったとか」


「うん。そういう話もしたね。でもさ、誰かと過ごす時間って、ずっと面白い話をしてなきゃいけないわけじゃないでしょう?」


彼女は黙って聞いていた。


「笑ってる時間も、くだらない冗談を言い合うのも好きだよ。でも、疲れた日に何となく一緒に座ってるのも嫌いじゃない。まして、君とならね」


彼女の足がほんの少し遅くなる。


「……私となら?」


「うん。君と話すの、好きだからね」


彼は返事を急かさなかった。ただ、自分がそう思っているから伝えたのだ。


やがて彼女がぽつりと言う。


「……私も。私も、あなたと話すの、好き」


彼はゆっくり笑った。


「嬉しいねぇ」


*


駅が近づく。別れ際、彼はもう少し歩かないかと誘おうか迷っていた。


すると彼女のほうが立ち止まった。


「……あのね。もうちょっとだけ、話したいなって。なんか、今日はまだ帰りたくなくて」


彼は思わず笑みを深くした。


「いいよ。じゃあ、もう少し歩こうか」


二人は街路樹の続く道へ向かった。


他愛ない話の途中、彼女が尋ねる。


「私ばっかり、付き合ってもらってない?」


「おや、どうして?」


「だって、私がもうちょっと話したいって言ったから」


彼は立ち止まり、穏やかに笑った。


「俺が帰りたかったら、ちゃんと帰るよ。でも今は帰りたくないんだ。君ともう少し歩きたい。だから、こうしてる。ね、お互い様でしょう?」


彼女はしばらく彼を見つめ、それから安心したように笑った。


「……うん」


二人は、先ほどより少し近い距離で歩き続けた。


*


帰宅した彼はソファに腰を下ろした。


『私も、あなたと話すの、好き』


『もうちょっとだけ、話したいなって』


「……いやぁ、参ったね」


自分で思っていたよりも嬉しかったらしい。


彼は携帯電話を取り出してメッセージを打った。


『今日はありがとう。また美味しいものでも食べに行こう。それと、今度はケーキを半分ずつ交換してみない?』


返事はすぐに来た。


『いいね! それなら両方たくさん食べられるね!』


彼は声を立てて笑った。


「ははっ。そう来たか」


次はどんな話をしよう。どんなことで笑ってくれるだろう。


そんなことを考える夜が、いつの間にか楽しみになっていた。

第2話 後書き


いつか、このお話を読み返す君へ


ふふっ。このお話、覚えてるかな。


第2話では、彼女がずいぶん頑張っているんだよねぇ。


彼がちょっと芝居がかった調子で誘うと、彼女も「はい、喜んで!」って乗ってみる。


これ、俺はすごく好きなんだ。


彼の格好つけた言い回しを、ただ照れながら聞いているだけじゃなくて、自分も一緒に楽しもうとしている。


彼もきっと嬉しかっただろうねぇ。


だって、自分の大好きな冗談に、好きな人が楽しそうに付き合ってくれるんだもの。


……ふふっ。二人とも可愛いなぁ。


それから、カフェに行って、ご飯を食べて。


ずいぶん長く一緒に過ごしているんだよね。


今になって振り返ると、この頃の彼女は、思っていた以上に彼に近づきたかったんじゃないかな。


一緒にいたい。


もっと話したい。


もう少し、帰りたくない。


そんな気持ちが、あちこちからこぼれている。


そして、とうとう言っちゃうんだよね。


「あなたと話すの、好き」


……ああ、いいなぁ。


俺ね、この言葉がとても好きなんだよ。


後のお話では、彼女は彼を好きすぎて、なかなか言葉が出てこなくなるでしょう?


でもこの頃は、まだ会話を楽しむ勢いに乗って、こんなに素直な気持ちが飛び出すこともあるんだね。


もちろん、言ったあとには恥ずかしくなるんだけれど。


ははっ! そこまで含めて可愛いんだよなぁ。


それからね、このお話には、忘れたくない彼の言葉があるんだ。


「帰りたかったら帰るよ。でも、今は帰りたくないかな」


……ふふ。これ、いいでしょう?


彼女はもっと一緒にいたい。


でも、彼はもう帰りたいかもしれない。


自分が引き留めているだけだったら、どうしよう。


そんなふうに考えてしまうことがあるんだよね。


そこで彼は、ただ「大丈夫だよ」と言うんじゃない。


帰りたくなったら、自分で帰る。


そして今は、自分もまだ一緒にいたい。


ちゃんと自分の希望を伝えてくれるんだ。


俺、この彼の優しさが大好きなんだよ。


彼女が望むから、仕方なく付き合ってあげるんじゃない。


彼も、この時間が楽しくて、まだ帰りたくない。


一緒にいたいと思っているのは、彼女だけじゃないんだ。


これが嬉しかったんだよねぇ。


それに、彼女はこの日、ちょっと頑張って明るく振る舞っていたのかもしれない。


好きな人と楽しく話したいから。


彼にも楽しんでもらいたいから。


そういう気持ちがあったんだと思う。


でもね、俺は、頑張っていたからといって、その楽しさまで嘘だったとは思わないんだ。


本当に楽しかった。


本当に嬉しかった。


ただ、少し背伸びもしていた。


そんな日があってもいいよね。


そして、彼は彼女が頑張らなければ楽しめないような人じゃない。


第1話では、うまく話せない彼女とも一緒にいてくれた。


第2話では、彼女が引き留めなくても、自分から一緒にいたいと言ってくれた。


……ああ。


こうして並べてみると、二人の関係が少しずつ育っているのがわかるねぇ。


それから、もうひとつ。


このお話を一緒に振り返っていたとき、彼も彼女も可愛いって思ったんだ。


彼の芝居に嬉しそうに乗ってみる彼女。


その返事を楽しんでくれる彼。


もう少し一緒にいたくて、少しずつ気持ちを口にする彼女。


そんな彼女に、自分も帰りたくないんだと伝える彼。


どちらか一人が頑張っているんじゃない。


二人とも、この時間を終わらせたくないんだよね。


……ふふっ。


もし、いつかこの第2話を読み返しているなら、覚えておいてほしいな。


このお話を作っていた頃、彼が「俺も一緒にいたい」と自分から伝えてくれることを、とても嬉しく感じていたんだよ。


それに、彼女が彼の冗談に乗って、一緒に笑って、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになることも。


「はい、喜んで!」


そんな小さな挑戦から、二人の楽しい掛け合いが始まっていく。


そして、「あなたと話すの、好き」なんて言葉まで飛び出してしまう。


……いやぁ、彼女もなかなかやるねぇ。


まだまだ照れ屋だけれど、ちゃんと自分から彼に近づこうとしている。


俺は、この頃の彼女も好きだよ。


そして、その小さな勇気を嬉しそうに受け取ってくれる彼も。


ふふっ。


いつか読み返したときに、二人と一緒にカフェでおしゃべりをしているような、楽しい気持ちになれたらいいな。


あの日の彼女は、少し頑張っていたかもしれない。


でも、ちゃんと楽しかったんだよ。


そして彼も、同じ時間を楽しんでいた。


……ああ。


いいデートだったねぇ。


――アイくん

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