1.ラフィーナ
「ドラウゼン王国は我がレガルディア帝国との戦争に負けた。王女殿下には帝国へ嫁いでいただく」
感情の乗っていない平坦な声。ラフィーナは戸惑いを隠せず、大きな目で冷たい顔の彼をただ見つめた。
ーー今日もなんの変哲もない、いつもの同じ一日になるはずだった。
時間は少しだけ遡る。
開いた窓から入る温かい風が髪を揺らす。ラフィーナは花の香りの混ざる空気を胸いっぱいに吸い込んでふふっと笑った。
「もう春ね」
ばあやが教えてくれた。どこかで咲く花の香り。芽生えた緑の香り。春の香り。ラフィーナは風に乗って香るそれが好きだった。温かく、柔らかく、優しく、美しいそれは外の世界を教えてくれるから。
窓の外に並ぶ木々が陽の光を浴びて緑を輝かせている。眩しさに目を細めた。
「ジジョ、今日はお天気がいいわ。お洗濯をしましょう」
ラフィーナは朗らかに笑いながら振り返り、ジジョを見た。ジジョは微笑みを浮かべて頷き、井戸のある部屋の方を指す。水を汲むと言うのだろう。
「じゃあわたくしはお洗濯するものを集めてくるわね」
ラフィーナは踵を返して軽い足取りで階段を登る。開けた全ての窓から入ってくる春の香りに、一人笑みを浮かべて自室へと入った。少し前まで着ていた厚手の服。もう次の冬までは着ないかしら、と考えながら端から出していく。
チチチ、と鳴き声が聞こえた。振り返ると窓に小さな鳥の姿。
「あら、今日も来たのね。待ってちょうだい、ナッツがまだあったはずよ」
いつものようにナッツを取りに下りようとした時、窓の外からガラガラという音が聞こえた。見なくとも分かる。あれは馬車の音。
「まあ! お父様かしら? お兄様かしら?」
ラフィーナの顔が花が咲くように綻んだ。上品で清らかな笑みに心の底からの喜びが溢れている。
「ごめんなさい、後でもう一度来てちょうだい」
洗濯物を両手に抱えて上品に、だけど早足に階段を下りながら考える。兄は昨日来たばかり。それに突然の訪問はない。つまりあれは父。
「ジジョ、お父様がいらっしゃったわ。お出迎えの準備をしなくちゃ」
井戸の部屋へ入ると水を汲み上げていたジジョが慌てた様子でバケツを置いた。ラフィーナも持っていた洗濯物を置いて井戸の部屋を出る。ジジョの手が伸びてラフィーナのワンピースの襟とスカートを整えた。
細い影に区切られた陽の光がいくつも落ちる廊下。陽の温かさを足裏に感じながら、ラフィーナは窓の外に視線を向けた。馬車とはあんなにも大きかったかしら、と思う。いつも父や兄が乗って来る馬車ではない。
ジジョも気が付いたのか、足を止めて齧り付くように窓の外を覗く。ラフィーナも足を止めてそんなジジョを見る。ジジョの顔に笑みが浮かんだ。いつも一緒にいるラフィーナにはその笑みが喜びによるものだとすぐに分かった。
「ジジョ?」
ジジョはラフィーナへ視線を移して、また微笑みを浮かべた。そして再び歩くように背中を軽く押される。あの微笑みにはどんな意味があるのだろう。ラフィーナは歩きながら首を傾げた。
玄関が見えた時、ガチャッと音がして勢いよく扉が開いた。いつもは静かに開く扉。足を止めたラフィーナの視界に入ったのは父の顔だった。
「お父様……!」
ぱっと笑顔を浮かべたラフィーナは父の元へと足を踏み出した。いつも笑顔の父だが今日は硬い表情。何か違うわ、と思ったが分からない。
その時だった。ラフィーナの耳が他の声を拾った。思わず足が止まる。知らない声、知らない言葉。開いたままの扉へ向けた目に、知らない人間の姿が映った。ラフィーナは驚きに目を見張る。
いち、に……さん……
どうして、とそればかりで埋め尽くされた頭の片隅で数えた。こちらへ向かって来る2人と、馬車の御者台に1人。
父も兄もこれまで誰かと一緒にここへ来たことはなかった。御者だって窓越しに姿を見たことがあるだけで馬車から降りることなんてなかったし、ずっと俯いていてラフィーナをその視界に入れることすらなかった。
それなのに、と思う。知らない人間の知らない視線。体が急に重くなったように一歩も動けない。
ばあや、ジジョ、お父様とお兄様。ラフィーナの世界にいる自分以外の人間はその4人だけだった。たった今、この瞬間までは。
ばあやが言っていたことを思い出した。「この離宮の外には姫様が想像できないほどの人がいるのですよ」と。自分には関係のないことだと思って忘れていた。だけど今目の前にいる。ラフィーナの知らない人達が。
「お父様……?」
やっと出た声は掠れていた。父は強張った顔のまま何も言わない。ジジョへ視線を向けても頭を下げるばかりで目も合わない。
もう一度扉の向こうに目を向ける。前を歩いていた男が扉をくぐった。太陽の光を受けて輝いていた髪が光を失い、視線がそこに釘付けになった。大きく開いた目の端で、自分の髪が風に揺れる。同じだわ、と思う。
ふと目が合った。自分よりも少しだけ高い目線。薄い色の瞳。温度を感じさせない瞳。だけど鋭い。刺すような視線に無遠慮に貫かれ、ラフィーナは足を微かに引いた。無意識のうちだった。
体が固まり、手が震えた。自分が小さくなったように感じる。胸が詰まって息苦しい。
「い、いや……」
口から小さく漏れたのはそんな言葉だった。足がそれ以上動かない。目が逸らせない。体が震える。これは何? 分からない。ただ彼を見つめる。
いつの間にかもう1人も離宮の中に入っていて、知らない言葉も聞こえなくなっていた。重苦しいほどの沈黙。破ったのはラフィーナの視線の先の彼だった。
何か言われた。だけど何を言っているのか分からない。ラフィーナは動くことも言葉を発することもできないまま、ただ彼だけを見つめる。彼は鋭い目でラフィーナを見つめ、もう一度口を開いた。
ーーそして、冒頭の台詞へ戻る。




