第25話 娘に書く手紙ではありません、と私は声に出さずに数えた
父の字は、昔から効きすぎる。
便箋は3枚。無駄のない文面。挨拶も短く、感情もない。読みやすい文章は親切だと普通は言うのだろうけれど、父のそれは違う。必要な効きだけを残して、それ以外を削ってある。読む側が反論しにくい骨だけを綺麗に並べた文章は、ときどき刃物より冷たい。
私は朝の執務机で、それを1行ずつ読んでいた。ベルタは向かい側に立ったまま、途中から腕を組んでいる。口を挟みたいのを我慢しているときの顔だ。
王都薬草管理顧問の打診は、家として好機と考える。
10日以内に帰還し、当家を通じて条件交渉に入ること。
辺境伯家との婚姻は、当方の承認を得るまで保留とする。
期限を過ぎて独断で話を進めた場合、家名ならびに持参の実務支援は差し控える。
要求。保留。期限。差し控える。
娘に書く手紙というより、取引先への通知文だった。私は怒るより先に、その文面の骨を数えてしまう。そういうところまで父に似ているのかと思うと、余計に腹が立つ。
「……お嬢様」
ベルタの声が、珍しく低かった。
「10日、ですって」
「ええ。しかも婚姻承認まで条件に入れてきたわ」
口に出した瞬間、胃の底が遅れて冷える。私はまだ婚姻していない。だから、家の論理が差し込む余地がある。それは分かっていた。分かっていたのに、紙にされると、辺境でようやく深く吸えた呼吸が借り物みたいに思えてくる。
けれど、本当に腹が立ったのは文末の追記だった。
――マリエルのためにも、今は感情で動くな。
私は笑いそうになった。感情で動いているのは、どちらなのだろう。3日前、辺境に姉を寄越し、今度は自分が来る。家のためと言いながら、姉のためと言いながら、結局は私の名前まで条件の中に入れてくる。
「娘宛てでこれですか」
ベルタが腕を組んだまま言った。
「帳簿でも、もう少し愛想があります」
反論できなかった。便箋に家印が押してある。差出人はヘルダ伯爵。父の名前が、こんなにも遠い字体に見えたのは、初めてかもしれない。
私は便箋を机に置いた。
そのとき、窓の外で門番の呼ぶ声がした。伯爵家の紋章旗が、もうこちらへ向かっているらしい。
私はその瞬間から、時間を数え始めた。
◇
中庭に出たのは、昼を少し過ぎたころだった。
姉様は枯れ草の残る花壇の縁に立っていた。白い手袋は、今日もしていない。素手のまま外套のポケットに手を入れていた。3日で、少しずつ変わっている。手袋を外したのは、謝罪の形ではなく、揃え直す仕草をなくすための選択だと思う。
「父の手紙が届きました」
声をかけると、姉様はわずかに肩を落とした。落とし方が、謝罪より先に来た。
「……ええ。来る前に読んだわ」
「止めることはおできになりませんでしたか」
尋ねながら、答えは分かっていた。それでも聞いた。
「できなかったの。一度動き始めると、父の決めたことは止まらないから」
言い訳ではなかった。事実として、できなかった。姉様は言葉を出す前に、もう一度確かめてから声にする。社交界で磨かれた礼儀の奥に、それとは別の何かが混ざった話し方だ。今日はその「別の何か」の比率が、少しだけ多い気がした。
「3日後に来るのですね」
「……早めようとしたのだけど、できなかったわ。そのことだけは、信じてもらえますか」
私は1拍置いた。信じきれない、と言うのも正直だ。信じる、と言うのも正直ではない。だから答えを変えた。
「追記に、マリエルのためにも、と書いてありました」
姉様の指先が外套の布の中で動いた。揃え直そうとした、あの仕草の変形。手袋がない分、動きの行き先がなくなって、指がそのまま止まった。
「……私のためにと言えば、あなたが断りにくいと、父は思っているのよ」
「存じています」
「それでも、その通りでもあるの。父が来るのは婚姻条件だけではなく――私が宮廷に戻れる形を、あなたを使って整えるためでもあるから」
使って、という言葉を選んだ。その正直さが、思ったより深く刺さった。刺さったまま、私は返せなかった。風が中庭を抜け、姉様の外套の端を揺らした。
「父が来たとき、どちらに立ちますか」
「……あなたの側よ」
あっさりした声だった。だから余計に重かった。
「発注書も控えも、私が持ち込んだものは全部、あなたの仕事だったと証言します。父の前でも」
受け取れた分だけ、返した。全部ではない。でも、拒絶でもない。
「……分かりました」
姉様は小さく頷いた。それから素手の指先を外套から出して、空気に触れさせた。辺境の寒さに、昨日より少し慣れた赤みだった。
◇
屋敷に戻る途中、カイが裏手の廊下を歩いているのに出会った。手元に書類があった。
書式を見た瞬間に分かった。婚姻届に附属する保証記録の様式だ。本申請の書類ではない。それに先立つ仮申請に使う書式だと、5年間、書類を扱い続けた体が知っている。
「何をされているのですか」
カイが振り返った。手元を見て、私を見た。隠す気配がなかった。
「仮申請の書類です。本申請ではありません」
「承認なしには通りませんよ」
「ええ。ただ――」
カイは視線を1度落とした。言いにくいことの前の、あの1拍。
「申請があった事実は、提出した時点で記録に入ります。家の承認の有無とは別に、制度上の時間軸が存在することになる。父上が来る前に、その線を先に引いておけます」
私はしばらく、廊下の板張りを見た。
家の論理が制度の言葉で押してくる。同じ制度で、別の方向へ先に線を引く。父の手紙の骨を数えたのと同じ方法で、カイはすでに動いていた。
「……いつからお考えでしたか」
「昨夜です。昨夜、1人でいくつか整理しました」
カイは言葉を続けかけて、止めた。言いかけた文の残りを、選び直している顔だ。
「合理的な判断です。それ以上でも以下でもありません」
その言い方が、少しだけずるいと思う。合理と言いながら、夜のうちに書類を動かした人の声ではない。でも今日は、ずるいとは言わないことにした。
「ありがとうございます」
素朴な言葉だった。重さに見合わない、短い言葉。それでもカイは目を細めた。耳が、少し赤い。
「3日、あります」
カイが言い、私は頷いた。3日という数字を、2人で同じ場所に置いた。
カイが書類を手帳に挟んだ。押し花の隣に、仮申請書が入った。
廊下の窓から、中庭の枯れ草が見えた。3日後に父が来たとき、あそこに1人で立つ必要はないのだと、今日初めて少しだけ信じられた気がした。完全にではない。でも、昨日よりは確かに。
◇
夕刻、ベルタが執務室を覗いた。
「面倒ですね」
「そうね」
「次は紙じゃなくて本人が来るんでしょう。3日後に」
「ええ」
ベルタは前掛けで手を拭いて、それ以上は言わなかった。言わない分だけ、顔に全部出ていた。怒っていてくれる人がいるのは、怒りを持ち運ぶ助けになると知った。
机に戻り、父の手紙を改めて見た。要求。保留。期限。差し控え。1本ずつ数えると、怖さより先に、反論の順序が浮かぶ。これも父に似ているのかもしれない。でも今は、似ていて構わないと思う。
父が来るまで、あと3日。私はその3日で、家の娘ではなく、私の名で立つ準備をしなければならなかった。




