第24話 一人でいたかった夜に、何も言わずに隣に来た人がいた
怒ったあとの夜は、妙に静かだった。
辺境の夜は王都より音が少ない。馬車の軋みも、廊下を走る使用人の靴音も、遠くで閉じる扉の数も少ない。代わりに、温室のガラスが冷える細かな音や、外の風が木立を抜けるかすかな擦れが聞こえる。そういう静けさの中にいると、自分の呼吸だけがやけに大きい。
誰にも会いたくない、と思っていた。
怒った顔を見られたくないとか、泣きそうな顔を見られたくないとか、そういう綺麗な言い方ではない。ただ、今日の私はうまく整っていない。整っていない人間として誰かの前に立つのが、まだ少し怖かった。
だから温室の戸が開いた音がしたとき、先に肩が強張った。
けれど入ってきたのがカイだと分かった途端、その緊張の形だけが変わった。ほどけはしない。ただ、刺さらなくなる。
「……眠れませんか」
それだけを聞くのかと思っていたのに、カイはそう言わなかった。何も言わず、作業台の端に置かれていた温度札を取り上げ、少し曲がっていた紐を直した。口実のつもりなのは分かる。分かるのに、その口実を壊したくなくて、私は黙って見ていた。
温室の中は外より少しだけ暖かい。ガラスに曇りが浮き、私とカイの輪郭をぼやけさせている。昨日までなら、その曖昧さは不安だったはずなのに、今夜はむしろ都合がよかった。はっきり見られすぎないことが、救いになる夜もある。
「……何も、お聞きにならないのですね」
やっと出たのは、それだけだった。
カイは札を直し終えてから、こちらを見た。灰青の目はいつも通り静かで、静かなまま困るほど優しい。
「聞いてほしい時は、あなたが言えます」
その言い方がずるいと思う。命じない。慰めで塞がない。なのに、逃げ道だけは塞いでくる。ここにいていいと、言葉にせずに言ってくる。
私は一人でいたかったはずなのに、その人が何も言わずに隣に来ただけで、少しだけ呼吸が楽になってしまった。
それがいちばん困る夜だった。
冬の温室に育てているものは少ない。乾燥に強い薬草がいくつかと、春までに根を張り直させるための苗と、あとはカイが名前も告げずに持ち込んだ山の小花が数鉢ある。何のためかは聞いていない。聞けないままここに来て、もう何日も経つ。
「……怒りというのは、なくなったわけではなかったんだと、今日初めて知りました」
声に出すつもりではなかった。でも出てしまったのは、この人の前だと、整っていない自分を整えなくていい気がするからだと思う。
「5年間、なくなったと思い込んでいたんです。消えたのではなく、ただ名前がつかなかっただけで」
「……はい」
カイは相槌だけを返した。続きを急かさない。自分の言葉を入れない。その静けさが、本当に聞いている人の静けさだと分かった。
「言葉にしたら、少し楽になると思っていました」
「なりませんでしたか」
「なりませんでした。ただ、自分のものとして在るようになった気がします。重いことは変わりませんが、重さの種類が変わった」
カイが間を置いた。視線を一度落として、また上げる。
「……怒りが自分のものとして在るのは、必要なことです」
「なぜですか」
「なくなったと思い込んでいる間は、守れないから」
喉の奥で何かが詰まった。5年間、怒りを守らないまま来た。守れなかったのではなく、守るべきものがあると気づく前に、すでに通り過ぎていた。それを今日になってようやく、自分の怒りが教えてくれた。
窓の外で、風が低く通り抜けた。温室のガラスが細く震えて、それから静かになった。
「……聞いてほしいことがあります」
自分の口から出た言葉が、一拍遅れて耳に届いた。言うつもりはなかった。でも、聞いてほしい時はあなたが言えると言われたから、言えてしまった。
「何でしょう」
「姉様のことを、まだどう受け取るか決めかねています。怒りはありますが、遮断もできていません。それが正しいのか、弱いのか、まだ判断がつかないのです」
カイはすぐには答えなかった。作業台に片手を置き、視線を温室の奥へ向けた。いくつかの薬草の鉢が、夜の暗がりの中でかろうじて形を保っている。
「正しい必要はないと思います」
「では」
「ただ、あなたの感覚がそこにある。それだけで十分です。遅れた誠意を受け取るかどうかを、今夜決める必要はない」
あなたの感覚が、そこにある。
その言い方を、私はしばらく頭の中で転がした。誰にも正しいと言われなかった感情が、正しいと言われなくても在っていいと言われた。それが、思ったより深いところへ届いた。
カイは立ち上がった。
「今夜は、温室が暖かいですね」
どこにも繋がらない一言だった。でも、帰り際の言葉としてはちょうどよかった。ここにいていいと言うほど重くなく、もう行くと告げるほど切り離さない、その中間の温度。
「……ええ」
私は、それだけ返した。
カイが出ていったあと、温室はまた静かになった。さっきより少し違う静けさだった。一人の静けさではなく、誰かがいたあとの静けさ。その違いに気づいた途端、少しだけ腹が立った。気づかなければよかったのに。
◇
翌朝、ベルタは私の顔を見るなり言った。
「昨夜、温室にいましたよね」
「なぜ分かるんですか」
「今朝のカイ殿が、帳簿を右から読んでいました」
意味が分からなかった。
「右から、ですか」
「右から2ページほど逆から読んでから、あ、と気づいて直していました。帳簿が、昨夜何かあったと言っていました」
私は返す言葉を見失った。ベルタは温かい茶を机に置き、腕を組んで少し考えるような顔をした。
「……カイ殿って、惚気の無言版を使う方ですよね」
「なんですか、それは」
「言葉では何も言わないのに、行動だけが先に重くなっている状態のことです。帳簿を逆から2ページというのは、昨夜のことが頭から離れなかった人の読み方です」
「それはカイ殿の単純な読み間違いです」
「右から2ページ、お嬢様」
私は黙った。
「……指摘してあげてよかったんですか」
「本人は耳まで赤くなっていましたので、してよかったと思います」
ベルタはそれだけ言って、前掛けで手を拭きながら引っ込んだ。私は机の木目をしばらく見ていた。
◇
昼過ぎ、カイに「到着記録の確認に立ち会っていただけますか」と言われた。
到着記録の確認に、私が立ち会う必要はない。カイも分かっているはずで、だから「立ち会っていただけますか」という言い方になった。温室の温度札と、口実のつくり方がよく似ている。
行きます、と答えた自分が少し不思議だった。
屋敷裏の山道は、冬の乾いた空気の中をしばらく歩く場所にある。カイが先に歩き、私が半歩遅れる。会話がないのに沈黙が重くない。昨夜の温室の残余が、まだどこかに漂っているような気がした。
「……この道、いつから整備されているのですか」
足元が踏み均されていた。石を取り除いた跡と、ぬかるみを避けるために引かれた小石の列。冬の山道にしては歩きやすすぎる。
「毎春です」
カイが前を向いたまま言った。
「毎春、ですか」
「ええ。春になると、この先の斜面にリュゼリカが群生します。いつか来るなら歩きやすいほうがいいと思っていました」
足が止まった。
「……いつか来るなら、というのは」
「この辺境へ、いつか来る人がいれば、という意味です」
声は穏やかだった。穏やかすぎて、その一言が何年分の計算の上に載っているか、すぐには測れなかった。貴賓棟に届いたリュゼリカの束から、私を探し始めた人が。毎春、誰かが来ることを前提に、道を整えていた。
「理由は……論理では説明しづらいですね」
耳が、少し赤い。
道の端に、まだ蕾の小さな株があった。冬の冷気の中で葉だけが細く伸びている。花が開くのは春だ。淡い紫の小花が、来年の春にはこの道に群れて咲くのかもしれない。
私は来年の春を、今ここにいることが前提として思い描いていた。
その自覚が来た瞬間、胸の中で何かが静かに揺れた。怒りとは違う熱が、指先まで届く気がした。
そのとき、後方から早足の靴音がした。
「――カイ殿」
門番だった。外套の紐を押さえながら、息を切らして坂を上がってくる。
「伯爵家の紋章旗が見えました。早ければ今夕、こちらへ到着するかと」
カイの手が、一拍だけ止まった。道の小石の上で、止まったまま動かない。それから視線が私を見た。私も、カイを見た。
蕾のリュゼリカが、冬の風の中で細く揺れていた。
父が来るまで、あと――。




