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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第4章 姉の影が、辺境まで追いかけてくる

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第19話 「言わなくていい」と、彼は先に言った

「言わなくていい」


  その1言で、私はもう半分くらい負けていた。


  朝の回廊はまだ冷えている。窓の外の空は明るいのに、石床には夜の名残が残っていた。昨夜のあいだじゅう考えていた。父の条件も、夫人へ届いた写しのことも、私自身の迷いも、今朝こそ自分の口で言うのだと。言われる前に。気づかれる前に。そうしなければ、また誰かの都合に合わせて黙った人に戻ってしまう気がしたから。


  だから、カイ殿が立ち止まったとき、私はちゃんと1歩踏み出したのだ。


「カイ殿、私――」


  けれど最後まで言えなかった。彼は私の言葉の続きを待たず、いつもの少し低い声で、驚くほど静かに言った。


「言わなくていい」


  優しい言い方だった。拒まれたのではないと、すぐに分かるくらいに。だからこそ、胸の内側だけが強く痛んだ。言わなくていい、は、気遣いだ。守るための言葉だ。けれど私にとっては、自分で言うはずだった1歩を先に取られる言葉でもある。


  私は黙った。喉の奥まで上がってきていた文が、そこで全部行き場を失う。


  彼はその沈黙を見て、少しだけ息を吸った。たぶんここから先は、昨日までより深いことを言うのだと分かる呼吸だった。


「あなたがどこに行っても、私は呼びに行きます」


  名前、と彼は言わなかった。でも、その言葉が意味しているのはそれだ。王都でも、実家でも、神殿でも、誰の条件の中でも、私はあなたをあなたの名で見つける――そういう言い方だった。


  ずるい、と思った。


  そんなふうに言われたら、救われるに決まっている。嬉しいに決まっている。なのに同時に、悔しい。私だって、自分で頼りたかった。選んで寄りかかりたかった。そうしたかったのに、いちばん大事なところで、まだ私は彼より遅い。


  温室のガラス越しに朝の光が差していた。白い息がすぐに消えていく。その途中で、自分の呼吸だけが遅れる。うまく返せない。ありがとうも、待ってくださいも、違う気がして、どの言葉も口に合わない。


  だから私は、彼を見たまま、何も言えなかった。


  それがいちばん困る。何も言えなかったこと自体が、もう十分に、答えに近づいているからだ。


  その沈黙を破ったのは、廊下の向こうから折れてくる足音だった。


「お嬢様! カイ殿!」


  ベルタが息を切らしながら曲がり角に現れた。私たちの距離を1秒で測って、にやりとした。そういう顔をしてほしくなかった。


「……邪魔でしたか」


「邪魔ではない」


  カイ殿が間髪入れずに言った。私も「ないわよ」と続けようとして、声が出なかった。


「……ないわ」


  1拍遅れた返事が、余計に説得力を欠いていた。ベルタは前掛けを整えながら「はい、はい」と言った。


「家令様がお呼びです。父上様からの文書の扱いについて、夫人様がご決断されたとのことで」


  その1言で、胸の中の熱が別の重みに変わった。父の条件書が、夫人へ正式に回ったのだ。昨日、家令が「先に夫人へ通します」と言っていた。それが今朝、動いた。


  カイ殿が私のほうを向いた。


「行きましょう」


  1言だけで歩き始める。隣に立てと言うのでもなく、ついてこいと言うのでもなく、ただ同じ方向へ。私はその背中を見て、1拍後れながら歩を合わせた。


  家令の執務室は北翼にある。石の種類が変わる廊下の継ぎ目で、カイ殿が少しだけ歩幅を縮めた。私が遅れていると気づいたのだ。それだけのことなのに、目の奥のあたりが急に怪しくなる。急いでもう1歩を踏み込んで、息を整えた。


「……遠回しな、呼びに行くの意味を。今日中に教えていただけますか」


  自分でも驚いた。言うつもりではなかった。けれど、呼吸を整える前に口が動いた。


  カイ殿が止まった。視線を前へ向けたまま、しばらく黙った。それから懐に手を入れ、何かに指先を触れる。押し花の入った小物入れだと、私は知っていた。3年間、持ち歩いてきたものだ。


「……長い話になります」


  低い声で言って、また歩き始めた。


  それだけだった。それだけなのに、胸の奥が少し軽くなった気がした。自分から踏み込んだ。受け取ってもらえた気がした。言い損ねた朝より、少しだけ、自分の側に立てている気がした。


  家令は執務室の椅子の前に立っていた。机の上に1枚の書面がある。父の印が入った文書の写しではなく、辺境伯家の書式で清書し直された1枚。夫人の副署が入っていた。


「ヘルダ伯爵家からの申し入れにつきまして、夫人様は辺境伯家として正式な回答書を起こすことをご判断されました。ミラベル・ヘルダ様は、この件について単独でのご返答は不要でございます」


  単独での、という言い方が、家令らしかった。感情ではなく順路で守る人の言い方だった。


  私は夫人の副署を見た。清潔で隙のない文字。それがそこにあるというだけで、やっと息が深く入った気がした。


  ベルタが脇でそっと袖を引いた。


「ほら、受け取りましたよ、今。ちゃんと」


「……静かにして」


「お嬢様が断らなかったじゃないですか。それ、惚気の言い換えでもありますよ、カイ殿」


  カイ殿は家令と手続きの細部を確認していて、こちらを向かなかった。向かなかったけれど、口元が少しだけ引き締まっているのが横から見えた。


  家令が書面を閉じた。紙の端を揃える手が止まる。


「なお、本日の朝便に、もう1通ございます。差出人の名が、先の王都からの便りとも、ヘルダ伯爵家の印とも、異なります。お手元へお通しする前に、ご確認をと」


  部屋の空気が変わった。


  カイ殿の手が、懐の押し花にもう1度だけ触れるのが見えた。


  私は自分の左手を見た。薬草の染みが残る指先。封を切る前から、体のほうが先に分かっていた。


  誰から来たか、もう分かっていた。

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