第20話 追伸には、3日後と書かれていた
封筒の宛名が正しいだけで、こんなに息が詰まるとは思わなかった。
朝の客間に差し込む光は薄く、机の上の白だけを妙に浮かせていた。昨夜の続きをまだ胸に抱えたまま部屋へ戻った私は、そこでベルタが妙に静かな顔で立っているのを見て、先に嫌な予感を覚えた。ベルタが黙るときは、大抵、怒るより先に驚いているときだ。
「お嬢様。……これ」
差し出された封筒は、王都印でも家印でもなかった。白い便箋用の薄い封。余計な飾りのない、手紙としての顔をした封筒。そのくせ、受け取った瞬間に指先が分かってしまう。紙の質も、筆圧も、書き直した跡の癖も。見覚えのある手だ。
マリエル姉様。
そう思うより先に、私は宛名を見た。
ミラベル・ヘルダ様。
正しい。驚くほど正しい。名字も、名前も、敬称も、何一つ間違っていない。たったそれだけなのに、心臓は跳ねるより先に一度止まったような感覚になった。5年間、私は名前を間違えられることに慣れてきた。宮廷の文官も、薬務官も、婚約者だった王子も、私を姉の名前で呼んだ。だから、正しく書かれた名を見ること自体が、もうほとんど出来事だ。
けれど遅い、とも思った。
遅い。正しい。だからこそ厄介だった。今さらでも嬉しいと認めるには遅すぎるし、今さらだから無意味だと言い切るには、あまりに正しい。
「開けますか」
ベルタの声が小さい。たぶん気を遣っている。気を遣われると余計に苦しい。
「……ええ」
そう答えた自分の声が、少し掠れた。封の端に指をかける。薬草で荒れた左手が、こういうときだけやけにみっともなく感じるのが嫌だった。姉様の手はいつも白かった。綺麗で、薄くて、何かを壊すより先に守られる手だった。私はそうではない。けれど今、正しく私の名を書いたのは、その白い手のほうなのだ。
封を切る音が、部屋の静けさに細く走る。
便箋を開く前から、たぶんこの手紙は私を楽にはしない。
それでも読むと決めたのは、逃げないためというより、もう逃げきれないところまで姉の影が来てしまったからだった。
窓辺へ移った。石の冷たさが、足越しに床から上がってくる。
便箋は2枚。几帳面な筆跡。けれど所々に、書き直しの跡がある。消えきっていないインクの重なりが、ここを書くのにどれだけ止まったかを教えていた。
最初の1行に、挨拶はなかった。
ミラベルへ。
それだけで始まっていた。前置きを置かなかったことが、逆に何かを言っていた。丁寧に書けば書くほど言い訳に見える。だから姉様は、最短の呼びかけだけを置いた。そういう考え方のできる人だと、今さらのように思った。
知らなかった、と書くのは卑怯だと分かっている。知ろうとしなかった、のほうが正しい。おかしいと気づいた場面が、なかったとは言えない。ただ、気づくたびに、自分が加害した側に立っていたと確かめることが、どうしてもできなかった。
そこまで読んで、私は一度だけ目を閉じた。
怒りがないわけではない。むしろ確かにある。知ろうとしなかった、と書いた姉様は、つまり5年間、そうしようとすれば分かったはずだということを自分で認めている。それは言い訳より重く、謝罪より痛い。怒鳴り合いなら、もっと楽だったかもしれない。
ただ、続きもあった。
それでも、あなたの名で書きたかった。今さら正しく書けば何かが変わるとは思っていない。ただ、間違えたままでは書けなかった。それだけです。
「それだけ」と書いたことで、姉様は自分の逃げ道を塞いでいた。許してほしいとも、分かってほしいとも、書いていなかった。ただ、正しい名前でなければ書けなかったという事実だけを、ここに置いた。
姉様の字で、ここまできれいに私の名が書かれているのは、初めて見ました――声に出すつもりはなかったのに、口の中だけでそういう言葉が転がった。5年間のことが、ひとつの重さで喉に詰まる。泣くわけではないのに、息の抜き方がしばらく分からなかった。
「……お嬢様」
ベルタが少し離れた場所から、おそるおそると言う。
「今さら字がきれいでも、点は甘くしませんから」
笑えない、と思ったのに、呼吸が一瞬だけゆるんだ。ベルタが字の話をしているのは字の話ではない。それくらいは分かる。でも今は、そういうずれた言い方だけが人間の声に聞こえた。
「……遅いのは、分かっているはずよ」
「分かっていても、字は丁寧でした。そこだけは認めます」
返す言葉がなかった。だから私は、便箋の2枚目へ目を移した。追伸は、本文より少しだけ傾いた字で書かれていた。書き直しの跡が、他の箇所より明らかに多い。一番迷ったのは、ここなのだと分かった。
追伸を読む前に、一度封筒を机に置いた。
カイ殿に話す、と決めたのは、この瞬間のことだった。
昨日まで、私は一人で返答案を書いては破っていた。読まないでいようかとも思っていた。けれど今、封を切り、手紙を受け取り、怒りと受け取る感覚が同時に来てしまった以上、もう一人だけの問題ではなくなった気がした。弱さとは少し違う。ただ、正しいと思った。
カイ殿は薬草園脇のベンチにいた。台帳を手に、乾燥棚の数を確かめていたらしい。私が近づくと、すぐに顔を上げた。何も言わなかった。
「マリエル姉様から、手紙が来ました」
1言目から、声が落ち着いているのが不思議だった。
「宛名が、正しかった。私の名前で、正しく書かれていた。5年間で、初めて」
カイ殿は台帳を閉じた。急ぐ動作ではなかった。ただ、話を聞くための静けさが、その動作に含まれていた。ベンチの端に、誰かが手折って置いたらしい小さな野の花が1輪ある。薄い青。名前も知らない辺境の花が、午後の光の中で少しだけ揺れていた。
「姉様は、知ろうとしなかったと書いていました。謝罪ではなく、事実として」
「……はい」
「遅いのは分かっている、と。それでも、なぜか無意味だとも言い切れないのです」
カイ殿が、間を置いてから口を開いた。
「読んだなら、それで十分です。今すぐ答えは要りません」
「でも、3日後に来ると書かれています。追伸に」
小さく言った途端、カイ殿の手が止まった。台帳の紐を巻いていた指が、一拍だけ動かなくなる。灰青の目が、私ではなく少し遠い場所を見た。その一拍で、何かを計算したのだと分かる。
「……扉を開けるかどうかは、私が決めていいと書いてありました。だから、私が決めます。ただ、もう少し、時間がかかりそうで」
「かまいません」
返ってきた言葉は短かった。短いのに、それが全部だった。かまいません、は、急かさないという意味ではあるけれど、それだけでもない。どちらに決めても構わないという意味でもある。そういう言い方だった。その言い方が、昨日の「言わなくていい」とは、少しだけ違う気がした。
野の花が、また静かに揺れた。
部屋へ戻ると、便箋はまだ机の上にあった。
今日中に返事を書こうとは思わなかった。言葉がまだ決まっていない。怒りと、受け取る感覚が、まだ別々のままで動いている。それを1枚の紙に乗せるには、もう少し時間がかかる。
「返事は書かれますか」
ベルタが前掛けで手を拭きながら聞く。
「まだ」
「……そうですね」
珍しく、それだけで引き下がった。今日は、急かすのが自分の仕事ではないと分かっているのだろう。
私は便箋を、裏ではなく表へ向けた。
宛名が見える状態で、机の上に置いた。しまわなかった。目を背けなかった。それだけが、今夜の私にできることだった。
ミラベル・ヘルダ様。
5年遅れの正しさは、簡単には赦せない。でも、受け取った。
追伸には、3日後に辺境へ着くと書かれていた。




