第九話
わぁっ、と泣き声が響いたのは帰り道の、だいぶ日が傾いてきた頃だった。
地べたにしゃがみこんで声を上げて泣きだしたのはマリーだ。その傍らにはつられて今にも泣き出しそうなエリーと、おろおろするばかりのハンナがいた。
「どうしたの?」
先を歩いていたカーラが戻って訊ねると、黒髪の隙間から綺麗な鳶色の目を覗かせながらハンナが困ったように答えた。
「マリーがお人形をなくしたみたいなの。エリーとお揃いで、母さんに作ってもらった子……」
「えー!?」
カーラの声は悲鳴に近かった。なんせもうすぐ日が暮れる。しかも空の色は少し暗くて、雨が降るような気配もした。探している暇なんてない。
片手に収まるような小さな人形だ。皆が母さんと呼ぶ導士に、双子がお揃いで作ってもらったもの。草木生い茂る森の中でそれを見つけるのはどれだけ大変なことか。
「だから持って来ちゃだめって言ったでしょ!?」
「だって、だってぇ……」
えぐえぐと声を詰まらせてマリーは何か言おうとしたが、言葉にならない。代わりにエリーが、カーラにすがりついた。
「いまね、あの子ね、びょうきなの。お熱あるの。だからいっしょにいてあげたいって、マリーが……」
どうやらそういう設定のままごとの最中だったらしい。察したカーラはおでこに手を当て深々と項垂れ、風邪なら家で寝かせとけ……と呻くように零した。
「レン、ファルコ、どうしよう……」
ハンナが助けを求めるように二人へ視線を向けた。だが、どうしようと言われたってわからない。駄々をこねる双子を強引に抱えて帰るくらいしか思いつかなかった。――しかし。
「よし、僕が探してくる。みんなは先に帰ってて。荷物よろしく」
言うや否や、背負っていた籠を降ろして駆け出したのはファルコだった。止める間もなかった。レンは咄嗟に自身の籠を放り出してその背中を追いかけ、肩越しに振り返りながらカーラたちに叫ぶ。
「俺も一緒に行く! お前らは戻ってろ!」
「えっ、ちょっと!?」
制止するようなカーラの声が聞こえたが止まらなかった。ファルコは足が速い。木々の合間に隠れて見失ったらもう追いつけない。
「おい、待てよ!」
ぜぇぜぇ言いながら呼びかけると、ファルコがわずかに速度を落とした。その隙に追いつく。
「レンも来たんだ。僕だけで大丈夫なのに」
「うるせぇ。これでも俺はお前の兄ちゃんなんだからな。弟一人で行かせられるか」
「ふぅん。弟、ね」
「……なんだよ」
含みのあるファルコの言葉に少しむっとした。傷ついた、というほうが正しいか。兄弟だと、家族だと思っていたのが自分だけだったみたいで。
しかし、そんなレンに視線を向けたファルコは笑っていた。からかうような憎たらしい笑みだった。
「僕のほうが強いのになぁ、と思って」
「こんにゃろ!」
生意気なその顔に手刀を繰り出したがあっさり避けられた。あははっ、と楽しそうなのがまた憎たらしい。
「……くそっ。今日のは引き分けだったろ。――それより、どこまで行くつもりだ? 心当たりでもあるのか?」
どうせ勝てないのはわかっているから、それ以上絡むのはやめた。そんなことより気になるのはファルコがどこに向かっているかだ。
「うん。確証はないけど――たぶんこの辺り」
そう行って彼が立ち止まったのは、ごく浅い小川の傍だった。そこは皆で昼食の弁当を食べた場所だ。
「実はね、マリーが人形を持って来ていたのに気づいてたんだ。あの子がこっそり懐から出していたのを、ここで見たから。言ったらカーラが叱るだろうから黙ってたんだけど、あの時に注意してあげるべきだったね」
「なるほど。それ知ったらファルコもカーラに叱られるな」
「わぁ、怖い。黙っててよ」
怖いと言いつつ笑いながらファルコは辺りの捜索を始める。レンも同じく草を掻き分け、岩の隙間を覗き込み、自分たちが歩いた場所を思い出しながら布で作られた小さな人形を探した。しかし何も見つからない。
「ないな」
「うーん、当てが外れちゃったかなぁ」
探してくると言った手前、手ぶらで帰るのは気が引ける。マリーはきっと大泣きするだろう。その光景を想像してか、ファルコは困ったように天を仰ぎ見て――
「あっ」
ぽかっと開いた彼の口から、少し間の抜けた声がした。何事かとレンもその視線の先を追い――
「あっ」
同じような声が出た。
二人の目の前にある背の高い木。その枝の根元に、小枝を寄せ集めた塊があった。何かの鳥の巣だろう。その巣の縁から、青い布のようなものが見え隠れしていた。
そしてマリーが持っていた人形の服は、青だ。
「なんであんな所に……」
「食べ物と間違って持って行っちゃったんだろうね」
言うが早いか、ファルコは地面を蹴って一番低い枝に取りすがったかと思うと、そのままするする器用に登って行く。
「おい、危ないって!」
「平気だよ」
頭上から聞こえてくるファルコの平然とした声に、レンは歯噛みした。せめて、どっちが行くか相談するなりしてくれればいいのに。考えるより先に行動してしまうファルコはいつだってレンの一歩先を行く。
「……あった! 取れたよ!」
高い木の上から、ファルコが手を振ってきた。そこに握られているのは間違いなくマリーの人形だ。それを見てレンも安堵した時だった。みしっ、と何かが裂けるような音がした。
「ファルコ!?」
「わっ!?」
レンが声を上げたのと同時に、ファルコが足を掛けていた枝が折れた。ばきばきと音を立てながら、ファルコの体が真っ逆さまに降ってくる。とっさに拡げた両腕で彼を受け止め――
「ぐぇっ!?」
耐えきれずに倒れた。押しつぶされた痛みでぎゅっと目を瞑る。涙が出た。
「レン!? レン、大丈夫!? 生きてる!?」
「……生きてるよぉ」
辛うじて返事ができた。薄目を開けてみると、レンの腹に馬乗りになったファルコが泣きそうな顔で見下ろしていた。
「よかったぁ」
レンの声を聞いて安心したのか、上に乗っかったまま抱きついてくる。苦しい。
「……どいてくれ」
「あっ、うん、ごめんね!」
子供みたいにすがりついたのが恥ずかしかったのか、少し顔を赤くしたファルコが素早くレンから離れた。しかしすぐ、その顔が苦痛に歪む。
「痛っ……」
右の足首を押さえ、うずくまる。
「おい、大丈夫か!?」
どこか痛めたようだ。身を起こしたレンがファルコの足を見ると少し腫れていた。それだけでなく、枝を折りながら落ちてきたせいで細かな切り傷や擦り傷もある。服は所々裂け、いつもはきっちり上まで締めているシャツが釦を失ったのか、だらりと襟が開いて――
「っ!」
それに気づいたファルコが慌てて襟を掻き合わせ、レンに背を向けた。
開いた襟の、鎖骨の下あたり。痣のようなものが見えた。鳥の翼のような形だった。
「あ、えっと、悪い」
咄嗟にレンは謝った。あれはきっと火事で負ったという火傷の痕だろう。ファルコが誰にも見られたくないと思っているものだ。
するとファルコは、はっとしたように肩越しに振り返った。
「あ、あの、あのね、これは、その……」
「大丈夫だって。誰にも言わないから」
「……ほんとに?」
「あぁ、男と男の約束だ」
ぐっと拳を握って強い意志を示す。しかしなぜかファルコは怪訝そうな顔をした。
「……男と、男の?」
「え? あぁ」
「あのね、レン。訊きたいんだけど。……何が見えた?」
「何って……。このへんの痣だけど」
言いながらレンは自分の鎖骨の下あたりを指で指し示した。見間違いだったのだろうか。
「あぁ、そう、そっちだけ……」
どういうわけかファルコは項垂れ、胸元を上下に何度か撫でると、「そっか……」と安心したようながっかりしたような、複雑な顔で呟いた。
「そんなことより足見せろ。どんどん腫れてきてるじゃないか」
言いながらレンは自身のシャツの裾を裂いた。ファルコが踏み折って散らばった枝を添え木にして手早く固定する。医術の心得もある導士を頼って近隣の村から患者が訪れることもあり、手伝いをしていたのが役に立った。
落ちた拍子に放り出されていたマリーの人形をもうなくさないように衣嚢へ仕舞い、ファルコへと手を差し伸べる。
「立てるか?」
「うん」
痛めているのは左足だ。レンが手を引くとファルコはよろけながら右足だけで立ち上がった。歩くのは辛そうだ。
「よし、乗れ」
立ち上がったファルコに背を向け、レンはしゃがみこんだ。負ぶって帰るしかない。
しかしファルコは何故か躊躇う。
「で、でも」
「なんだよ?」
「僕のほうが、背が高いし……重いよ?」
「馬鹿。言ってる場合か」
今さら何を気にしているのか。呆れたレンはファルコの腕を掴むと少々強引に引っ張り、背に担ぎ上げた。
「なんだ、思ったより軽いぞ」
気を遣ったわけではなく、本当にそう思ったからつい口に出した。さっきは不意だったから受け止めきれなかっただけで、こうして負ぶってみると存外軽い。それに妙に柔らかい。太っているわけではないのに変だなとは感じた。
しかし今はそんなことを考えている暇はなかった。鼻の頭にぽつりと雨の雫が落ちた。急がなければならない。
「行くぞ」
転ばないよう慎重にレンは歩き始める。
ファルコはその返事の代わりにか、首に回した腕に少しだけ力をこめた。