第三十九話
その娘の名はロンディーネといった。
高齢の曾祖母と山小屋で暮らす若い猟師だった。
青年の頃から領内の山や森へ出向いては狩りに興じていたクロヴィスは、セシリアが生まれてからも行動を改めようとはしなかった。むしろ、珍しいものや立派な獲物を獲って帰ればミラベルもセシリアも喜ぶと思っていたようだ。そんな子供っぽい性格の兄に付き合わされていたロドルフも、その娘の姿を見た時は大層驚いた。
ロンディーネはミラベルに似ていた。金色の髪も容貌も声さえも。生き別れの双子かと思うほどだった。ただひとつ、瞳の色だけはミラベルが鮮やかな藍色であるのに対しロンディーネは太陽のような黄金色で、それがなければ見分けがつかなかっただろう。
雨に降られ、山小屋を訪ねて宿を請うた時、驚くクロヴィスとロドルフに彼女はきょとんとしていた。そんな表情、ミラベルはしない。姿はそっくり同じでも、性格はまるで違っていた。
山育ちのロンディーネは活発でよく笑いよく喋る。身分を伏せていたクロヴィスはすっかり彼女と意気投合し、何日も山小屋に滞在して一緒に狩りに出向くようになった。
置いて行かれたロドルフは呆れてしまったが、不満というほどでもなかった。その山小屋の周辺には珍しい植物が多く自生しており、記録をつけたり標本用に採集するのが忙しかったからだ。
奔放な兄の山遊びに付き合っている理由がそれだった。ロドルフは幼い頃から植物への興味が強く、師と仰ぐ聖殿の園丁には立派な体躯に似合いませんなと笑われたこともある。
大公となり己の領地を治めるようになってからは、知識を活かして農業に力を入れており、食用や薬用、栽培に向いていそうな植物を見つけて持ち帰るのはよくあることだった。
標本作りをロンディーネの曾祖母に手伝ってもらいながら、ずいぶん長く世話になってしまった。山小屋を去る時、ロンディーネは明るく笑って見送ってくれて、まるでクロヴィスと親友になったようだと思った。それがまさか、それ以上の関係を結んでいたなんて。
再びその山小屋を訪れたのは、一年近く経ってからだった。その山の周辺で水害が起こったと報告を受け、使者を送るよりも己の目で確かめるとクロヴィスは真っ先にロンディーネのもとへ向かった。
しかし、そこにロンディーネはいなかった。山小屋は無事だったが、いたのは彼女の曾祖母と、生まれたばかりの赤ん坊だけ。
水害が起きた時、ロンディーネは腰を痛めた曾祖母の薬を買いに麓へ降りていた。そこで巻き込まれてしまったという。預けていた赤ん坊は無事だったが、高齢の曾祖母はロンディーネの遺児を抱えて途方に暮れていた。
赤ん坊は女の子。髪はクロヴィスと同じ、鮮やかな緋色だった。
供をしていたロドルフは頭を抱えた。ただでさえ関係の悪いミラベルがどんな反応をするだろうか。しかしこの子も王家の血を引くのならいずれ聖紋を受け継ぐ可能性がある。知らぬ存ぜぬと捨て置くわけにもいかない。
そうして連れ帰った子供はアルエットと名付けた。
アルエットを差し出した時のミラベルの顔をロドルフはよく覚えている。てっきり軽蔑の眼差しをクロヴィスに向けるものかと思っていたが、彼女は一瞬、確かに苦しげな――傷ついた顔をした。そして次の瞬間には、鋭い音を響かせてミラベルはクロヴィスの頬を打っていた。
アルエットを受け取って部屋の奥へと消えたミラベルの後ろ姿を、クロヴィスは信じられないものを見るような目で見送っていた。
「驚いた……。嫌われているんだと、ずっと思っていたのに」
そう言って、赤く腫れ始めた頬に自身の手を添えていた。
ミラベルがもしクロヴィスを憎んでいたら、彼女の一撃は弾かれていたはずだ。聖紋を持つクロヴィスにはその能力がある。彼の意志には関係なく、悪意ある攻撃はすべて弾き返してしまう。
けれど、ミラベルの手は確かにクロヴィスの頬に届いた。それは、その一撃が憎しみではなく愛によるものだという証明になったのだ。
今さら皮肉なことだと、ロドルフは溜め息をついた。
アルエットはセシリアと共に健やかに育ったが、クロヴィスとミラベルの仲は相変わらず。互いに歩み寄る方法を知らなかったのだ。
「俺は、本当はずっとミラベルと一緒に遊んで笑っていたかったんだ。だから同じ顔をしたロンディーネに甘えてしまった。彼女には申し訳ないことをしてしまったな」
ロドルフにだけ吐いたその本音を、ミラベルにもぶつけてしまえばいいと何度思ったことか。
己を変えられないクロヴィスは以前と同じように、山や森へ入っては狩りをする。そんな日々を続けていた。
それが唐突に終わりを告げたのは、ロドルフの一言がきっかけだった。
狩りから帰る途中でのことだ。風にのって、何とも甘やかな香りが漂ってきた。クロヴィスも気づいたらしく、香りのする場所を探して崖下を覗き込んだ。そこには切り立った岩の隙間から顔を出すように、薄紅色の花が咲いていた。
「あぁ、あれはファレンタールの花です。ほとんどは白い花を咲かせるのですが、あのように色のついたものは香りが強く、高値で取引されることもあるのです。珍しいものですよ」
「ふぅん」
横から同じように覗き込んだロドルフが言うと、クロヴィスは一瞬何事か思案し、おもむろに崖の岩肌へ手を掛けて降り始めた。
「兄上!? 何をなさっているのですか!?」
「土産に持って帰るんだ。――あいつは花が好きだから」
クロヴィスは幼い頃、花を踏み荒らしてミラベルを泣かせたことがある。そのことはロドルフも覚えていた。
「それに、香りの良い花ならセシリアも楽しめる。セシリアが笑えばアルエットも笑う。俺は、そういうのが良いんだ」
言いながらクロヴィスはどんどん崖を降りていく。
「しかし、せめて命綱を……」
ロドルフがそう声を掛けたのと、クロヴィスが花に手を伸ばしたは同時だった。そしてその手が花弁に触れたその時、足を掛けていた岩が砕けるように崩れた。
「兄上!」
空を仰ぎ見たクロヴィスと目が合う。ほんの瞬きをするほどの一瞬だった。
取りすがっていた崖から離れたクロヴィスの身体は、放り投げられた人形のように遥か崖下へと消えていったのだった。
「兄上!!」
もう一度呼ぶ。しかし返事はなかった。風が木々の枝を揺する音だけがざわざわと空しく届くばかりだった。




