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Griffe et Aile ~死神の爪と恩寵の翼~  作者: 淡路帆希
離別の日の記憶
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第二十五話

 寝ている家族を起こさないよう、そっと裏口から外へ出る。

 月の明るい夜だった。一度大きく深呼吸をして、よし、と自分を鼓舞するように頷く。

 母屋のすぐ横にある小さな聖堂。そこでレンが待っている。来てくれているはずだ。彼ならきっと。

 この姿を見て驚く彼に、まず何と言おう。ずっと隠し事をしていたことを謝って、本当の名前を伝えて、それから……それから……。

 一番言いたいことを声を出さないまま何度も心の中で繰り返していた時だった。ふと、明るかった月が陰る。

「やぁ、こんばんは。小さなお姫様」

 目の前に、知らない男が立っていた。

 アルエットはとっさに跳び退って距離を取る。オルガに用がある患者などではないとすぐにわかった。こんな夜更けに訪ねてくるのは、高熱を出した子供を抱えた親くらいなものだ。そういった者は皆、必死な様子で縋ってくる。

 けれどこの男は鷹揚に構え、アルエットを粘っこい視線で眺め回していた。その眼差しには隙がない。別のことに気を取られていたとはいえ、近寄られるまで気づけなかった。

 彼はアルエットを姫と呼んだ。カーラとハンナが飾り立ててくれたこの姿を見て出た軽口なのか、それとも何か知っているのか。

 若い男だ。さほど力が強いようにも見えないし武器も持っていない。だったらまず家の中に駆け戻って家族に異変を報せて――

 高速で回る思考が止まった。見開いたアルエットの目に、異様な光景が映る。

 男の手がごりごりと骨を軋ませて形を変えていく。爪が鋭く伸び、金色の被毛に覆われ、それはまるで人ではない何かのようだった。

 にたぁっと笑った口が耳まで裂ける。長い牙のようなものが見えた。

「美味しそうな小兎ちゃんだなぁ。あぁ、我慢できない……。――いただきまぁす!」

 飢えた獣そのままに、大きな口から涎を垂らして男が飛びかかってくる。いくら武芸に長けていたってこんな化け物相手では勝ち目なんてない。かといって足も動かなかった。情けないことに竦み上がった体が言うことを聞かない。

 男の爪が喉元に届く、その寸前だった。閃光が迸り、輝く翼がアルエットを包み込む。さらにその翼は男の体を切り裂いた。皮膚が裂けてめくれ上がり、肉と骨がさらけ出され、驚いたように目を丸くしたままの顔が胴体から離れて遠くへ飛んでいく。

 人間の体がまるで陶器の人形みたいに粉々になる、その壮絶な様を目の当たりにしたアルエットは膝をつき、耐えきれずに倒れ伏す。

 意識を手放す直前に見たのは、原型を失った男の体から稲妻を纏う獣が飛び出していく幻覚だった。




 閃光と落雷のような轟音。

 目を覚まし、窓から見えた光景にオルガは慌てて外へ駆け出した。

 家の外壁から火の手が上がっている。本当に雷が落ちたみたいだ。聖堂も崩れて元の形を失い、煙が上がっている。その傍に、アルエットが倒れていた。

「ファルコ! ファルコ!! ――アルエット様!!」

 抱き起こして名を呼ぶと微かに反応した。生きている。ひとまず安堵し、足元に転がる赤い塊の正体に気づいて腰が抜けそうになった。しかしアルエットは抱えて離さない。この少女は聖王国エテーリアの神子だ。いや、それだけではない。オルガにとっては他の子供たちと同じように慈しみ育てた娘なのだ。

 何が起きたのか。注意深く周囲の気配を窺う。すると、じっとこちらを見ている何者かの視線に気がついた。獣ではない。人だ。

 その人影に、オルガは術の発動に使う杖の先を向けた。するとその周辺で草木が蠢き、人影を追い立て始める。

「母さん!」

 血相を変えて母屋から飛び出してきたのはカーラとハンナだ。それぞれ、怯えた様子のエリーとマリーを抱えている。

 炎は広がりつつある。水を湧かせる術を使っても間に合わない。もともと導士としてはさほど強くないオルガだ。出来ることといえば精霊の力を借りて植物を操るのがせいぜい。そのうえ、相手の人数も正確にはわからない状況である。

「……逃げましょう。――レンはどこ?」

 娘たちは全員いる。しかしレンの姿が見えない。

 すると、カーラがマリーを抱えたまま、震える手を上げた。

「たぶん、あそこ……」

 カーラが指差した先。そこは崩れ去り、形を失った聖堂だった。

 ひゅっと喉が鳴って目の前が真っ暗になった。なぜあんな所に。あれでは助からない。いや、どこか隙間にでも挟まっていれば奇跡的に生きているかもしれない。でも――

 刹那、何度も繰り返した逡巡。けれどオルガは腕の中にいるアルエットをきつく抱きしめ、娘たちに告げた。

「逃げるのよ! 走って! ついてきて!」

「でも、でも母さん! レンが……!」

「いいから!」

 ためらうハンナに声を荒らげる。それはオルガ自身へ叩きつける言葉でもあった。

 息子ひとりと、五人の娘たち。選ばなければいけなかった。間違えば全員死なせることになるのだから。

 意識がないままのアルエットを抱え、オルガは駆け出す。カーラたちもわずかな逡巡の後、嗚咽を堪えながらついてきた。目くらましのため操った植物で通った道を塞ぎ、暗い森の奥の奥へと。

 足がちぎれるほどに走って、地元の人間も知らないような岩の隙間の洞窟へと身を滑り込ませる。娘たちも全員入ったのを確かめ、オルガは岩に這う蔦を生い茂らせて入り口を塞ぎ隠した。

 それから、どれくらいの時間をそこで過ごしたのか。アルエットは意識を取り戻したが朦朧として、また眠ってしまった。

 遠くから微かに人の声が聞こえた時はもう終わりだと思った。けれど、それはアルエットを迎えに来た使者であり、焼け落ちた教会を見てオルガたちを捜し回っていたのだという。捜索には近隣の街の人々も加わっており、見知った顔を見てようやく助かったのだと理解した。外へ出ると、日はもうずいぶん高くに昇っていた。

 使者に娘たちを托したオルガは制止を振り切り教会へと走った。母屋はすべて焼け落ち、見る影もない。けれど感傷に耽っている暇はなかった。崩れた聖堂の瓦礫をどかし、隈なく捜す。人ひとり、いや猫の子一匹隠れる隙間もないほど捜し終える頃には、爪は剥がれ手は血まみれになっていた。それでも、レンの姿は、ひと欠片も見つからなかった。




「……だったら、生きているかもしれない。ねぇ、そうでしょう? 母さん」

 街の療養所で目を覚まし、すべてを聞いたアルエットはオルガにそう言った。

 そうね、とオルガは弱々しく頷く。けれど、彼女にも、言ったアルエット自身もそれが気休めだとわかっていた。

 森にはたくさんの生き物がいる。屍肉を漁って巣に運び込む獣だっている。木の実や茸を採りに行って、そうやって半分食べられた動物の死骸を見たことだってあった。実際、アルエットを襲ったあの男の亡骸も消えていたというのだ。

 取り残されたレンがそんな目に遭っていたら。考えたくもなかった。

 だからどんなに無理だとわかっていても、生きていてほしいと願った。生きていてくれたらもうそれだけでいい。二度と会えなくたっていい。そして、もしもまた会えたなら、今度こそすべて打ち明けるんだ。

 きっと遂げることのない誓いだと囁く自身の諦めを押さえ込む。

 アルエットは泣かなかった。涙を流せばレンの死を受け入れたことになるような気がして、泣けなかった。

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