もしもあのことがばれたら
「一枚めの”静音のお願い“は、管理組合名でマンションマネージメント会社が作って投函してくれたものなのでしょう?」
自分のしたことが思わぬ展開になっていくのではないかと不安にかられ、ベランダに立ち尽くして茫然と窓の外に視線を泳がせている私に、ユミコがもう一度声をかけた。
「そうよ。それをコピーして、私がつくった“警告文”と二枚セットにして二十二階にだけ投函したの。私が偽造した文書一枚だけでは不自然でしょ?だって、マネージメント会社がつくってくれたものは全くたよりなくて、彼女にはなんのダメージも与えないと思ったの。それどころか、あの女のことだから自分に当てはまることだとさえ思わないんじゃないかと思って。だから自分たちの騒音は重大な過失で、これ以上続けると法的に訴えられるという危機感を与えたかったの。そうでもしなければ何も変わらないと思ったのよ」
「アサヒが作った警告文の差出人も管理組合名にしたの?」
「それは無署名にした。そんなことをしたらさすがに偽造文書になると思って」
私は自分でそう言ってから少し安心した。無記名で出したのだもの、あとでサトウさん本人や管理組合、警察に聞かれても、知らないと言って押し通せばいいことだ。それにこのくらいのことで、まさか防犯カメラを解析して投函した人物を特定するようなことなどしないだろう。
「だけどね、どう考えても不思議なのよ。昨日、サトウさんのところに警察官が来ていた。このタイミング、あの様子は、私が騒音の被害を訴えているということを、逆にサトウさんのほうが被害を受けていると言って通報したとしか思えない。そんなことってあると思う?自分たちがあれほどのドタバタ騒ぎをしているというのに、それをどう警察に説明するというの?考えられない・・・。それとも文書のことがばれて、そのことで呼んだのかしら」
「う~ん・・・。さっきも言ったけれど、それとは全然違うことで呼んだんじゃないの?たとえば自転車が盗まれたとかさ・・・」
「違う、違うと思う。きっと自分たちは何もしていないのに下の住人にうるさいと言われているとか、下から何かで突つかれて騒音被害を受けているとか、警察に訴えるくらいだから、下の住人に殺してやるとか言われて脅されたとか、それに近いようなことを言ったんじゃないかしら。あの人ならそれくらいのうそ、平気で言いそうだわ」
「アサヒ、あなた少し疲れているようだわ。落ち着くまで一時的にどこかに避難したらどう?ワンルームの部屋を借りて夜だけでもそこに行って休むとか。このままでは本当に参ってしまうよ」
もうユミコにもアイデアはないのだと思った。
私はこの部屋の西側から見ることのできるある光景を思い浮かべた。
少しずつ日が傾きかけて西の空が翳りはじめた頃にそれは起こる。いつも予告なく始まるから、私はそんな予感がしたら早めに紅茶をいれて西側の窓辺にあるテーブルの席につき、ただひとり静かに天空を見上げて待つのだった。やがて空を覆っていた雲が重たいビロードのカーテンが開くようにうやうやしく左右に分かれ、その切れ間からまばゆく圧倒的な光が降り注ぎ、天国へ通じる入り口が姿を現すのだった。こちら側とあちら側を隔てている厚い扉が開いた時、私は父や母と短い時間対話する。この場所だから、ここの二十一階だからこそ遭遇できる、誰も知ることのできない瞬間なのだ。
「私はここにいる。ここにいる必要があるの。そもそも私の家なのだから、私の方があきらめるなんてそんな道理はないでしょう」
ユミコはもう何も言わなかった。その代わりに新しいグラスに赤く澄みきったワインを注ぎ、ただいつまでも黙ってそこに居てくれた。
二十二階の女のミニスカートを想像すると吐き気がした。もしかしたら、一度だけ街で見かけた、夫の横に寄り添うようにして歩いていた女もミニスカートをはいていたからよけいにそう感じるのかもしれなかった。私は自分の感情をコントロールできないことに戸惑い、苛立ちを募らせていた。それは上階の騒音や下品なミニスカートや夫の不在のせいだったし、日々のちょっとした不具合の積み重ねのせいでもあった。キッチンの包丁の切れ味が悪くなってきていることもその理由のひとつだ。今朝はまな板の上でトマトがぐちゃぐちゃになってしまったし、食器棚のお皿やマグカップの量が増えすぎて必要なものがすぐに取り出せないこともそうだった。それよりも”子どもを産んだことのない女“と言われたことがいつまでも心の奥に引っかかっているのかもしれない。違う、そうではなくて、自分の意志で子どもを産まなかったということに、今になって気が付いたからなのかもしれなかった。
この問題に解決の糸口はあるだろうか。私は西側の窓際で夕日を浴び、街並みの遠く向こうに連なる赤く染まった山々を眺めながら思いを巡らせた。
今テレビで、主人公に理不尽な思いをさせた人々に”倍返し“をするというドラマが放映中だ。そんなことができたらどんなに爽快だろう。それを自分にあてはめて考えてみる。たとえば彼女の真上の二十三階の部屋を買い取る。そして同じような騒音をたてて全く同じ目に合わせてやるのだ。そんな風に想像しているうちに笑いがこみ上げて来た。現実はそううまくいくものではない。
それでも私は何かをしなければならなかった。