「静穏のお願い」、そして「警告」へ
私はこの問題の解決方法を探していた。
何もしないでただ騒音に耐え、心をむしばまれていくわけにはいかなかった。
それにしても、実際にこういう問題に直面すると、被害者側がいかに不利であるかということを思い知らされた。コンシェルジュに訴えても、最初は同情してくれても度重なるとまたかという顔をされるし、マンションの管理組合の理事長に相談しても、規約ではエレキギターやカラオケは禁止事項にはなっているが、それ以外だと生活音の範囲だからどうすることもできないとのこと。二十二階の上階の二十三階や、二十二階の同じフロアに一戸だけある真向いのお宅にも聞いてみたが、彼らに騒音の被害はないという。
市役所の環境課に相談しても”マンションは集合住宅であるからお互いがルールを守って話し合いで解決をし、それでうまくいかない場合は管理組合に相談してください“と全く役に立たないどころか腹立たしくなるような話しをお経のようにただ繰り返すばかりだった。しかも、市で貸出している騒音計は被害者が録音しても法的には証拠として使うことはできないとのこと。しまいには何デシベル以上の数値を確認できないと被害とは認められないとか、マンションの建築会社に問い合わせて天井をはがすなどして防音工事に問題がなかったかを確認してみては、などとまるで非現実的なことを無責任に言い放つだけだった。 最寄りの警察署の相談ダイヤルにかけると、無表情の警察官が話しを聞きに来てくれたものの、それ以上は何の対処もしてくれないとうのが現実だった。
この騒音は実のところ、第三者に共感してもらい、認めさせるには、くやしいけれど私にとって不利な面がいくつもあった。 実際はそれが絶え間なく長時間続くわけではなかったから説得力に欠けるのだ。その時によって数時間静かなこともあれば、突然、ドン!ドン!という鉛の塊を落としたような激しい音が響いて一定時間つづき、それに重複するように大きな何かを引ずるような音がしたりすることが多々あるのだが、どれも不規則で断続的だった。だから、今この時だ、と判断して警察署に電話しても、警察官が到着したころにはすっかり静かになっていたり、聞こえてもかなりおさまっていたりで、まるで私がほんのささいなことを大げさに騒ぎ立てているだけの神経質な住人のようになっていた。
だけど、実際にここで生活している者の受けるストレスは計り知れない。私は、予告なしに攻撃してくる上階の音の暴力のために疲れ果て、彼女らの不幸を願ったり復讐を考えたりし始めた。少しおかしくなりはじめているのかもしれなかった。どこへ行っても、誰も気にとめないような異質な音を拾ってしまうようにもなっていた。それは「カクテルパーティー現象」というものらしかった。たとえばカクテルパーティー会場のようなざわめきの中でも、特定の誰かの声や、決まった単語、ある話題だけを聞き分けたり、オーケストラが演奏する音楽の中から、ひとつの楽器が奏でるメロディを追うことがきでたりという、自分が注意を向けた情報だけに反応する音声の選択的聴取能力のことをいうのだそうだ。私は常にあの音を待ち、予期不安に支配されていた。
同じマンションに住んでいても、めったに出会わない人と、なぜか頻繁に顔を合わせてしまう人がいるものだ。サトウさんとは、数週間に一度はエレベーターの扉の前で、どちらかが乗る側、降りる側として出くわした。悪いときには一日に何度も顔を合わせた。彼女はひとりでいることは少なく、親族とも思えない三十代前後のふたりの女性のどちらかといっしょか、あるいは三人いっしょのことが多かった。
ある時、エレベーターホールで派手なミニスカートをはいた彼女がひとりでゴミ出しに来たところを見つけて私は思わず走り寄った。そのスカートはまるでサルサを踊るひとが着用するような特殊なデザインのもので、ウエストから裾まで黄色い房のようなものが三段重ねでみっしりとぶら下がっていた。昔、西城秀樹が「情熱の嵐」を歌っていた時に着ていた衣装があった。両腕の脇下から手首にかけてひも状のものが多数ぶら下がっていて、秀樹が取り乱したように歌い踊り狂う動作に合わせてそのひもも激しく揺れた。カッコよかった。あれと同一のものだった。
「サトウさん」
私が後ろから呼び止めると彼女は不意を突かれたように驚いて振り向いた。スカートのひも状のものも三段いっしょに舞い上がった。
「あなた、いったいぜんたい何をしているのですか。お願いです、本当に迷惑しているんです、もういい加減にやめてください」
「何もしていませんよ。あなたこそ変ないいがかりはやめてください。何の目的があってこんないやがらせをするんですか!」
彼女はマンションの裏手にあるドラッグストアの半透明の買い物袋を持っていた。中身は、豊かな髪を首筋に巻きつけたモデルが印刷された見慣れたデザインの箱で、私がいつも使っている白髪染めのパッケージだった。彼女も白髪を染めているのか。私は苦情の続きを言うことを忘れて派手なサルサスカートを見つめ、それから彼女の髪の生え際に白髪を探した。私もそろそろ白髪を染めなくてはならない頃だ。 そうしているうちに彼女は激しくスカートのひもを舞い上がらせながら方向転換をし、逃げるようにエレベーターに乗り込んで二十二階まで上がって行った。
同じ日の夜、上階はこれまでの中で最も激しく自分たちの存在を主張してきた。私はもう迷うことなく、肩こり対策のために買っておいて一度も使用することなくリビングの片隅に放置しておいた直径15センチ、長さ1メートルほどある発泡スチロール製の円柱型ストレッチポールを手に取り、思いっきりジャンプしながら力を込めて天井を突いた。ドンドンドンという振動が体に伝わるとともに私の心臓は激しく鼓動した。こんなに心拍数が急上昇したのはたぶん生まれてはじめてだ。この騒音を、ただおとなしく我慢していたらあのひとの暴力は増長していく。それを防がなければならないのだ。私がしなければ、それを肩代わりしてくれる人間は誰もいないのだ。
翌日、以前コンシェルジュが二十二階に騒音のことで訪問するにあたって支持を仰いだというマンションのマネージメント会社を訪ねた。この日私は、白いブラウスにオフホワイトのひざ下丈のスカートと低めのヒール、そして小さなダイヤがひと粒だけついたネックレスを身に着けた。こんなふうに白っぽくて控えめな服装をすると正直で善良そうに見えると思ったからだ。少なくともサイズの合わない奇妙なミニスカートをはいた女よりはまともに見えるだろう。騒音の程度だって、たとえ5割増しに言ったとしてもきっと私の言うことを信じてくれるはずだ。私は支店長に、約束もなく突然訪問したことを詫びて用意してきた数枚の印刷物を差し出した。それはインターネットからダウンロードしたマンションの騒音問題について注意喚起を促すための文書例だった。
「だいたいのことはコンシェルジュから聞いています」
背の高い三十代後半と思われる若い支店長は硬い表情でそう言いながら、少しの間黙って数枚の文書例に目を通した。女性社員が茶托に載せたきれいなグリーン色のお茶を運んできた時、支店長はそれを勧めながら「私もマンションに住んでいまして、かつては被害者になったことがあります。だからお気持ちはわかります」とあまり感情のこもらない口調でそう言った。
「ただ、このような集合住宅はお互いさまですし、生活音の感じ方も人それぞれです」
聞き飽きたフレーズだ。私はまたか、と思って落胆した。そしてその先の言葉に耳を傾けることをやめた。彼の口はただぱくぱくと動いていたので私はうんざりして、
「サトウさんに、このような注意文書を送付してはいただけないのですか?もしそれができないならほかにどのような対処をしてくれるのですか?」
と言って、その答えが返ってくるまでの間、私はただじっと彼の左手薬指の結婚指輪を見つめていた。
「わかりました。それではこの文書をもう少しソフトな感じにアレンジして、明日じゅうに全戸のポストに投函しましょう」
「ありがとうございます」
と私は言った。そうすることで多少の抑止にはなるかもしれない。
「でも、全戸のポストになんか投函する必要はないと思いますよ。サトウさんの部屋だけでいいじゃないですか」
彼女たちの騒音は私の家だけにしか被害がないわけだし、わざわざそんな手間をかける必要はないと思った。
「いや、そういうわけにはいかないのです」
まぁ、そういうものなのかもしれなかった。私は支店長にお礼を言い、ドアの前で深々と頭を下げて部屋を出た。
帰り道、私は夏の夜風を感じて久しぶりに開放的な気分になった。このことで解決に向かうかもしれないと思うと、これまでの騒音に支配されて過ごした半年あまりのことを懐かしくさえ思うほどだった。身体が健康で、家に騒音さえなければ、どんなことでもできるのではないかと思うほどだった。
翌日、約束どおり一階のポストに文書が入っていた。
「静音のお願い
複数のお宅から騒音に関する苦情が寄せられています。
マンションは共同生活の場ですので、お互いがマナーを守り、良好な住環境を保ちたいものです。
グレースマンション大通り管理組合」
ずいぶん控えめで優しすぎる文書だと思った。注意喚起というよりも、無難なあいさつ文のような気さえする。私は少し考えてから、小型パソコンを持っていつものべーカリーカフェに向かった。騒音から避難するために、最近はほとんど毎日のように通っている場所だ。いつもの窓際の席に座りレモンケーキとカフェオレを注文した。甘くて酸っぱいレモングレイズの部分をひび割れさせないように、垂直にサクッとフォークを入れて静かに口に入れる。それからカフェオレを飲んでパソコンに向かい「警告」と表題をつけた。
「今後、以下の点について守られない場合は法的手段に訴えます。
昼夜を問わず生活音の範ちゅうを超えた騒音で階下、隣人に迷惑、精神的苦痛を与えた場合。
子どもの走り回る音、トイレやキッチンの引き戸、クローゼットの折り戸の配慮にかけた大きな開閉音。
居住者以外の不特定多数の人出入り。深夜の荷物の運び出し、運び入れ等。
くれぐれもご注意をお願いいたします」
指先に力を込め、爪をカチカチさせながら一気に書き上げ、いつもより早々とカフェを出てうちへ戻った。それからすぐにその文書をプリントアウトし、そして今朝配られた「静穏のお願い」をもう一部だけコピーした。
それから朝を待って、昨日と同じ文書に自分の作った警告文を抱き合わせ、サトウさんの郵便受けだけに投函するため表玄関横にある郵便配達員専用のドアから中に入った。このマンションに住んで五年経つが、この空間には初めて足を踏み入れた。こんな特殊な事情がないかぎりこのフロアに入る住人など誰もいないだろう。誰かに出入りを見られると都合が悪い。急ぐ必要があった。私は壁一面に設置されている郵便受けに“サトウ”の名前を探した。ルームナンバーの数字をたどり、うちの郵便受けの真上にあるそれを見つけて私は少なからず驚いた。どの家も部屋番号と名前が立て並びに表記されているのに、彼女の郵便受けは印字された部屋番号2201があるだけで名札入れからは“サトウ”の文字が取り外されて空白になっていた。
やはり何かがおかしい。私は二枚の印刷物を投函して急いでその場を離れた。




