加害者としてのホリー・ゴライトリー、真夏の夜のピクルス
それからもその騒音は昼となく夜となく続き、私の心は少しずつ壊れていった。
ある時は自分が手元でたてた音に驚いたり、まだ聞こえてもいないうちからそれを予期して胸が苦しくなったりした。それはまるで、静かな天井を見つめてやがて必ず聞こえてくるはずの馴染みのある音を待ち“今に聞こえる、今に聞こえる、ほら!聞こえた”とでもいうように。そのうちに私の心臓は悲鳴を上げ始めた。でも私はなるべくそのことに気付かないふりをしていつものように夏を過ごした。朝一人でコーヒーをいれ、本を読み、午後からは図書館に行ったり友人と会ってランチをとったり、長い時間を駅前のベーカリーカフェで過ごしたりした。
ある時私は、昔観たオードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」という映画のいくつかの場面を思い出していた。でもそれは多くのひとが思うようなオードリーの愛らしさやジバンシーのファッションや雨の中のキスシーンなんかではなく、彼女が演じるホリー・ゴライトリーから騒音被害を受ける、同じアパルトマンの下の階に住む不自然な前歯を持つ日本人の男のことだった。
ホリーは、それほど広くはない部屋に一度に100人くらいの友人たちを招いてパーティーを開いて大騒ぎをしたり、感情の高ぶりに任せて家具や食器をこわしたりするのだから下の階の住人はたまったものではない。神経質そうな日本人が、その迷惑行為にいちいち顔をしかめたり怒鳴りつけたりするのだが、映画を観ているひとは誰もその日本人に同情したりなんかはしない。だけど今の私はその場面を痛みなしには観ることができない。何事も角度を変えると違ったものが見えてくるものなのだ。あの二十二階の女は、どんな事情といきさつがあって、こんな物音を立てなければならないような何かをすることになったのだろう。
翌日私は親友のユミコを、駅裏にある新しくオープンしたビストロに呼び出した。十五分ほど遅れてきた彼女に適当に注文しておいた野菜のピクルスと、チーズの盛り合わせとカモ肉のコンフィをすすめながらワインのメニウ表を手渡した。私が呼び出したわけをよくわかっている彼女は何も言わず、ワインを選びながらこちらの言葉を待っていた。私たちはいつもそうだった。十四歳の時からこうして長い間、必要とあれば代わる代わるお互いが有能なカウンセラーの役目を果たしてきた。
ユミコは私よりも私のことをよく知っていた。だから自分についてわからないことがあれば彼女に聞きさえすればたいていのことは解決した。私が何かについてこう思うのはなぜなのか。なぜそうするのか、あるいはしない、あるいはできないのか。そのようにして心の闇を掘り起こして問題解決の糸口を見つけたり、悲しみを無用に長引かせたりしないようにしてきたのだった。たまに間違った誰かに相談したものなら、よく話しも聞かないうちからありきたりで退屈なアドバイスをはじめたり、悪いときにはすぐに自分の話しにすり替えて延々と一方的にしゃべり続けられたりしてへとへとになるだけだということはよくわかっていた。
「上階の騒音のせいで気が狂う寸前なの」
「うん」
私は疲れ果てて途方にくれていることを伝えようとした。
「人間の想像力には限界があるから、私がどんなに辛いって訴えてもまわりは誰も本人と同じようには実感できないよね」
「そうだね」。
「村上春樹のエッセイにね、」
「うん、」
「友人の会社員に”忙しい、忙しい“と言われても、大変なんだろうなとは思うけど、自分は会社勤めをしたことがないから、何がどんなふうに忙しいのか今ひとつわからないっていうようなことが書いてあった。半漁人に”今日はエラと鱗が擦れて痛い“と言われても、痛くて気の毒だなとは思うけどどんなふうに痛いのかよくわからないって」
「そうだね」。
「世間では時々、騒音が原因で殺人が起きることがあるよね。アパートの上階の騒音に耐えられなくて、相手に危害を加えてしまったりとか」
そう言いながらひと口かじったピクルスが思いのほかおいしくて、私は話しを中断してキュウリ、ニンジン、パプリカ、かぶ、ミニトマト、と全種類をひととおりポリポリと味わった。最後のミニトマトを白ワインでのどの奥に流し込んでから、私は姿勢を正し、ユミコの目を真正面から見据えて言った。
「やっぱりね、どうもおかしいのよ。なにかがおかしいの、あのひとたち」
私が何かがおかしいと結論づけたのならきっと本当に何かがものすごくおかしいのだろうな、とわかってくれるのが彼女だった。
次はすっかり冷めてしまつた鴨肉をつまみながら、私はこれまでに感じた、何かがおかしいと思う根拠となる事柄を並べ立てた。
とにかく生活音を超えたもの音が激しすぎる。大きなものを落とすような、引きずるような感じ。それは深夜まで続くことがある。あの女性の夫らしき人の姿は見たことがないが彼女は仕事をしている様子がない。少なくともどこかに出勤はしていない。東北ナンバーの車に乗った三十代前後の女性が二人出入りしていて、他人家族のように同居している。夕方、室内に灯りをつけるころになると遮光カーテンをひく。深夜になると運送会社の軽トラックが来て荷物を運んでいく。二十一階の私の寝室からオペラグラスで覗いて確認したが、その荷物にはそれぞれ宛名が書いてあるようにも見えた。
「その軽トラックに社名が記されていたからグーグルマップで調べたら、その事務所前に停車してある黒い外車が、現在彼女が所有しているものなのよ。それが何を意味するのかはわからないけれど」
「ふうん」
と言って彼女はいつも持ち歩いている小型パソコンを広げて検索した。
「その車、ナンバーにぼかしが入っているけど私には読み取れるわ。ズームしてみて」
ユミコがカーソルを当ててナンバープレートに接近したところで、私は3ケタの数字を口にした。
「ほんとね、間違いないと思う。ということは、このマップが記録されたのは一年前の五月だから、少なくともこの時点にはすでにい両者に接点があったということね。この時にたまたま二十二階の女がここを訪問していたか、あるいはこの時点では車は運送会社が所有していて、その後二十二階に譲り渡したか、どちらかと考えていいわね」
それからユミコはワインを口に含んで少し考える様子をした。
「だけどね、この事柄だけでは怪しいとは言えないわね、別に」
「でも、何かがおかしいと思わない?」
「たぶん、おかしいはおかしいのだろうけど、フツーにおかしいという程度だろうね」
「犯罪の匂いとかしない?」
「う~ん、まさかそんなことは・・・と思うよね」
「そのまさかだったら?」
「かなりびっくりするよね」
「ねぇ、ユミコ、調べて」
「調べようがないでしょう、これだけでは」
「新聞記者であるユミコとしても興味ある対象ではない?よね」
「残念だけど、今の時点では」
ユミコは本当に残念そうな顔をして言った。
「そのひと、名前なんていうの?」
「名前はわからないけど名字は“サトウ”っていうの」
彼女は平凡すぎる名前ね、というように首を振った。
「ユウジさんはなんて言っているの?」
「あのひと、もうここ半年くらいはほとんど帰って来ていないから騒音被害の意識はないのよ。それでも時々メールでこのことを伝えたり、着替えや書類を取りに戻った時にどれほど辛い思いをしているかということを訴えたりしていたのだけど、ついこの間、市の環境課に相談に行ってくれるように頼んだら“上階の騒音よりも君の方がうるさい”って言われたわ」
それから私たちは店を出て夏の夜を感じるために駅裏から大通りの公園に続くけやき通りを少し歩いた。私はぬるい夜風と繁華街の喧騒と焼き魚の匂いがぐっとくると言い、ユミコは意味もなく通りを走る若者たちや、レトロ喫茶のペンダントライトの光や夜のひとりぼっちの猫に心を動かされると言い、ふたりでそれらのことについて話し合った。