由紀子と久。エピローグ
2013年 初夏
「たっだいま~! 圭一! 」
私は荷物をひょいっと背中に持ち上げ直し、久々の我が家の扉を開けました。
「けーいち。いる~? けーいち。どこ~? けーぼ? 」きょろきょろ。彼はシフト制の会社に勤めていて家にいるとは限りません。
そうして騒いでいると家の奥からフラフラと息子が姿を現しました。
「風呂で寝ていた」なんですか。それは。おうちを火事にする気ですね。そうですね。帰る家がなくなったらどうするつもりですか。
「ヒラヤマから帰ってきたのです。お留守番ありがとうなのです」
二人の娘が結婚し、後から産まれた義之が遠く愛知県に赴任し、
いろいろあって一番家を出たいと言っていたこの子が家にとどまりました。
六人家族がひしめき合って暮らし、社宅から買い取って建て替えて。
震災を何度か乗り越えて私たちはこの家に住んでいます。
「でね。でね。すっごくエベレストが遠くから見えて綺麗なんだよっ」
思わず身体を使って解説してしまう私に彼は頭を掻いて知らんぷり。
久々に会うのに何ですか。その態度は。
彼は半眼でぼそっとつぶやきました。
「だから、ヒラヤマじゃない」「ひらやま? 」
彼はこうおっしゃいました。
「ひ、ま、ら、やっ!!! 」
「あと、エレベストじゃない。エベレストッ?! 」「えれべすと」
よく聞き取れませんでした。もう一回お願いします。
「エベレスト! 」「れれべすと」
「エレベスト!! 三回も冒険旅行で行っているのだからいい加減覚えろッ」「あってるじゃない」私がそう指摘すると彼は変なことを申します。
「じゃ、国鉄は今なんというか言ってみろ」「いえるもん! 」
胸を張って私は申します。「ぜいあーる」
あ~の~な~。彼は更に続けます。
「じぇいあーる」「ぜいあーる」「じゃじぃじゅじぇじょ」「ざぁじぃずぅぜぇぞ」
「違うってっ!? 」「合っているじゃない!!!! 」
山道具を片付け、圭一が用意してくれたお風呂を久しぶりに堪能し、
数か月ぶりに化粧をします。鏡に映った私の顔。六〇代にしてはぷりぷりだと思いません?
「思わない」「ひどい」膨れてあげます。
「いい年こいて可愛いと親父以外に思ってもらえるわけないだろう」「あ~ひっどい」
仕上げに紅を塗って、髪をかき上げ、毛染めの具合を確認。
圭一はノートパソコンを移動させて台所のテーブルに置いていました。
またインターネットで出鱈目ばかり書いて。まったく。
インターネットラジオを起動して、動画を見ながら新聞を読んだりよくわからない文芸誌を読んだりしつつ、小説を書くのが趣味の彼につぶやきます。
「どれか一つに絞ればいいのに」「情報は聞き流しながら取るんだよ」半分も頭に入らないと思います。というか親の言うことすら聞かないのに。
「久さんの処、行くんだろ」「うん」私は頷きます。
「風呂は温めておくから」「うん」彼の指先は凄い勢いでキーボードをたたきます。
ちょっと昔の私を思い出しますね。
悪戯心をおこして彼の背中に語り掛ける私。
「圭一もくる? 」「邪魔だろうが」嫌そうに振り返りニコリと笑う彼。
「めっちゃ邪魔」そうニコリと笑い返し、鏡台が開いたままと気づいた私は鏡台を閉じました。いけませんねぇ。ボケが進んでいます。
「いってきます」「おう。フラフラ自転車で走って轢かれるなよ。転生して勇者になっても知らんぞ」はぁ。
圭一の言うことは半分もわからないのです。
「今日日のネットの小説の主人公の流行りみたいだよ」「ふふ。変なの」
井戸に墜ちて神隠しに遭っちゃうくらい変ですね。
「まぁ異常に怪力だったり忍者の真似事して守衛さんに叱られるうちの両親なら勇者になっても大丈夫じゃね? 」彼は良くわからないことを続けますが悪気はないことは解っています。
私が去った後。彼のキーボードはカチカチと規則的になります。
『陽が差し、夏の暑さに辟易しつつ、彼女は病院に向けて自転車を今日も走らせる』
ホント、暑いですよね。この角、車出てくるから注意しないと。
うう。このロビー冷房利きすぎなのです。早く病室に。
『強烈な冷房に肩を震わせ、ストールを肩に乗せると、エレベータに乗る』
すっと身体が一瞬浮いて、私は娘時代に初めてエレベータを利用したときのことを思い出しました。
あのときはたっちいとか、みんながいて楽しかったなぁ。
ピカピカと光る電光掲示のエレベータが開き、病院のにおい。
私は面会受付に向かい、鉛筆で『武田由紀子』と記します。
看護師さんたちにお礼とあいさつをすませ、首に許可証をぶらさげてひさびさに彼の元に赴きます。
『彼女はゆっくりと彼に歩み寄り、ただいまとつぶやく』
光の差し込む集団部屋の中、彼はすっと目を開けました。
ベッドに横たわり、装具を身につけて苦労しながら自分で身を起こすのを私はずっと待っています。
「おとうさん」「私は貴方の妻ですけど? 」すこし意地悪なことを言います。
別に彼はボケていません。三年ほど前突然脳梗塞で倒れ、この状態になっているだけです。言語は怪しく、その身体はかつてのように動きません。
武田では一番元気で長生きするって言われたんですけど、皮肉ですよね。
「ね、ね。ヒラヤマよかったよ? 圭一毎日来てくれた? 」「コンビニ」
意外と彼はマメに来てくれたみたいですね。任せて良かったようですが顔だけ見に来るだけなのは相変わらず頼りないです。
まぁ。でもおかげで時々お任せして山登りできるので良いですけど。
圭一曰く、「毎日介護してると頭がおかしくなるだろうから」だそうです。
また、彼曰く「正直、親が遺産なんか残したら兄弟げんかの元だから頼むから使い切っていてくれ」とのこと。
本当は、久さんと旅行して余生を過ごすつもりだったのですけどね。
久さんが倒れたあの日は二人で久々のデートを楽しんでいました。
『うわごとをつぶやく彼に彼女は積極的に話しかけ、マッサージをして、一緒に歩行訓練をする。時々きつい言葉も出るが』
なんでも本人にやらさないと、回復が遅いですからね。
彼も嫌々しつつ、従ってくれます。今日の自主リハビリはこれまでっと。
最後はそっと歩み寄り、明日も来るねと呟きます。
「あ~」「うん? なに」
顔を近づけます。ちょっと禿げた彼の頭。少し歪む彼の唇。ふふ。
『そして二人の唇は重なる。小さな余韻を残し、彼女は歩み去る』
圭一曰く、『親が仲良すぎて結婚できる自信が無い』そうですけど、
仲が良くなったり、理想の相手がいるわけではないのですよ。お互いが歩み寄ってそうなっていくだけです。
たっちぃ。げんきかなぁ。
私はエレベータに入ると、少し思案します。
娘時代に親友が呟いた言葉と、私たちの言葉が蘇ります。
『その健やかなる時も、病める時も。喜びの時も悲しみの時も。
富める時も貧しき時も、ともに愛し、ともに願い、ともに涙し。
敬い、笑い、ともに生きる。命ある限り。誓えるか? 』
エレベータの扉が開き、私たちの思いは若き日のあの一瞬に。
『誓います』『ああ。もちろん』
そして圭一の指先は、最後の一文を刻みます。
『由紀子と久 ~おしまい~ 』




