黒い輝き
本編では会話が長持ちしないため演出上会話表現があるが。久は無口な男である。
それでも女房に対するほど不愛想ではない。男女共に相応に対応できる。
バレンタインデーが日本で流行りだしたのは1973年のオイルショックによる不況のあおりを受けた小売業界の必死の宣伝のお蔭である。
「……」「ただいまくらい喋ったらどうですか」「……ただいま」
久が喋りすぎで由紀子に叱られるのはもう少し先になる。職人は無駄口を好まない。
すっと由紀子になにかを差し出す久。
「??? これって??? 」当時は子供の小遣いで考えれば結構高い。
「チョコレート。ですよね」間が持たない。
「頷くくらいしてもいいのですよ」無言で久は頷いた。
久のポケットから大きなハート形のチョコが出てくる。
「でも、ばれんたいんでーでしたっけ。これって女の子からでしょ? 久さん面白いですね」
作業用カバンから次々と大小のチョコレートが出てくる。
「久さん。こんなに食べれませんよ」
由紀子は苦笑い。この当時は由紀子はまだ身ごもったばかりである。
当時のチョコレートは一般的な日本人の食習慣的には栄養価が高すぎて食べすぎると鼻血を噴出したり吐き気をもよおす代物だった。
「でも、買っちゃったんですよねえ」
機嫌を良くした由紀子だが、由紀子的には花のほうが嬉しい。
彼女は食が細いほうだからだ。それでも少ないやりくりからチョコレートの一つくらいは買うことが出来る。
ぽんと給金を全額渡して『服でも宝石でも好きなものを買え』と言われた由紀子だが。
「買えるわけないでしょう」末っ子の久は兄姉たちに育ててもらった恩返しとしてただでさえ少ない給金を兄や姉の一家に送金し、母に送金し、休日になれば草野球をしてビールケースを開けるような漢である。
家計なんて考えるわけがない。いや、考えているのかも知れないがイマイチ鈍い。
「じゃ~ん! 」
由紀子にチョコレートを渡され久は戸惑う。
その様子を由紀子は照れていると解釈している。
義理チョコの概念が生まれ、チョコレートの消費量が爆発したのは1980年からであるが、それでも当時のバレンタインデーは『結構本気で告白するための男女ともに嬉し恥ずかしいイベント』である。
余談だが所謂手作りチョコなる型抜きチョコが流行りだすのは意外と最近だったりする。バブル期前にはあった。
「なんか手紙が入っていますね」
由紀子は手紙が添えられていることに気づき、それを開ける。
「たけだせんせいだいすき」「たけだせんせいけっこんしてください」子供の字。
「武田さん。好きです。こんなことを(以下略)」「拝啓武田久様……(略)」「武田先生。お久しぶりです。小学生のころ空手の教えを乞うていた……(略)」大人の字である。どうみても恋文だ。
「なんですか。これは」由紀子が睨みつけると戸惑いの表情を深める久。
「しっかり喋りましょう」
有無を言わせぬ由紀子に久は嫌々首を縦に振った。
子供の字は空手教室の子供たち。大人の字は同僚や近所の女学生(かつては子供)などなど。らしい。
「モテますね。久さん」「……」あわふたと弁明する久。
久曰く、チョコレートは嫌いじゃないが苦手らしく困っている。らしい。
「どうして苦手なんですか? 」「……」
顔を赤くして黙り込む久に追及の手を緩めぬ由紀子。
「初任給を先輩に騙し取られて泣いたのは言ったっけ」「ええ」
「初めて儲けたお金は母ちゃんに贈ったのも言ったよな」「もちろん」当時は普通である。
「子供のころ、兄貴が船乗りでさ」「ええ」
「金属箱に入れてチョコレートをお土産にくれるんだけどこれが美味くてさ。これを大人になったら食べてやろうと」「なら食べればいいのです。今夜は久さんだけチョコレートがおかずなのです」それは作者でも勘弁してほしいぞ。由紀子。
機嫌最悪の新妻に久はつづけた。
「給料をつぎ込んでチョコレートを食べたら、一週間体調を崩して地獄だった。それ以来苦手なんだ」
ぷっくり膨らんでいた由紀子の頬から「ぷっ」と大きく空気が漏れた。
「あはは。なにそれ。久さん可笑しい」「笑うなって……こんなの広めた奴だれだよ……」
がっくりと肩を落として油まみれの作業服と共に次々とチョコレートを取り出す久。この時代にはまだ花王が『アタック』を発売しておらず職人の衣服の洗濯は重労働である。
ごろごろごろごろごろごろごろごろ。
「……」「……」『プレゼント』というより『食料』になる量だ。
「どれだけもてるんですか」「……」
一応、新妻一筋の久には有難迷惑であった。
ホワイトデーは1979年から。普及は1980年から。
『お礼は三倍返し』という困った習慣として定着するのはバブル期以降になる。
時が映り。バブル期の二人。
「三倍返しらしいぞ」「一倍でいいですっ!! 」
まだ増えていた。チョコレートを好む圭一、美奈子に由美子の手が夫婦喧嘩をする二人を尻目にチョコレートに伸びていた。
※久さんのモデルになっている方が若いころ二〇個以上のチョコを余裕で持ってきていたのはガチです。




