神戸に行く 服がありません
「困りました」下宿先の六畳一間の空間でため息をつくのは西尾由紀子二五歳独身。
現在婚約者と認めたくない男の兄の家に行くため服を縫っていた。
由紀子と彰子の趣味は『旅行』である。
この時代の女性の旅行は現在と弱冠違いがある。
まず。土曜休みと言うものが存在しない。半ドン日という半日出勤日に夜行列車に乗って素泊まりをして帰ってこなければならない。
そして。これからが重要なのだが。服がない。
いや、売ってはいる。売ってはいるが既製品は高いのだ。
この時代の洋服店にはまだ糸と布が売っていて、ファッション雑誌は『型紙』の作り方を掲載していた。
乙女たちは自らの服を縫い、お洒落をしていた。
靴屋は既製品を売る傍ら自ら靴を打ち、洋服店は自作の服を売っていたのである。
家庭科の出来ない女子にとって、服代は死活問題だ。
由紀子も彰子もしっかりした仕事着以外で出勤してきて叱られている同僚を見ている。
家庭科で学んだ洋服や和服の作り方を習得するべく、異常に小柄な由紀子と異常に長身の彰子が励んだのは言うまでもない。尤も、最初はスカートからだが。
限りなく小柄で平坦な体型の由紀子と、限りなく長身で豊満な彰子。
この二人に合う服を作ろうとなると職人でも至難の技である。
二人は仕事の時間が終わると型紙を作り、採寸して四日で服を作っていた。
この時代、容姿を飾るためには努力と技術を必要としたのだ。
現在夜八時。店のほうでは常連たちが粘って帰ろうとしない。
その所為でまた客が入る。商売は繁盛するが、食事に出来ない。
由紀子は子供たちに食事をさせるために下がり、接客は二人で充分と姉に告げられ服を縫っていた。
「由紀子~。入るぞ~! 」「たじ~! 」「たじ~! 」「お~! チビ共またでかくなったなッ 」
不吉な声がしますけど、聞かなかったことにします。そう由紀子は思った。
以前にも述べたがこの散髪屋の居住空間は六畳一間と廊下を兼ねた炊事場、トイレのみである。風呂はない。
着替えをする場合誰かを追い出さねばならない。
厭々視線を上げる由紀子の視界に白く柔らかそうな物体二つ。
「どった? ゆっこ? 」由紀子はその物体二つから必死で視線を逸らすが。
「痛っ?! 」
指を刺してしまい、のたうつ。
「余所見すっから」
ニヤニヤと笑う長身の娘は由紀子の指を勝手に吸いだした。
「なにしにきました。『元』親友」ボロボロの六畳半の部屋にてはしたなくポイポイと服を脱ぎ捨てる娘に冷たい瞳で睨む由紀子。
「採寸。手伝ってくれ。俺らに合う服って基本的にないからな」
どうして絶縁中の親友の採寸をこの忙しいときにやらねばならないのか。由紀子はあつかましい彰子に苦笑いした。
彰子の白い背中に巻尺を当て、採寸をはじめる由紀子。
「うひゃひゃ。冷たいッ 」動くな。だらず。由紀子は心の中で呟く。
また。背が伸びている。『恐竜さんみたいです』由紀子はそう思って心の中で微笑んだ。
「しゃあねぇ。今だ伸びるんだから」「頭ぶつけてしまえ」
由紀子は思った。どうして女子でこの歳になっても伸びるんですかと。
本当に経産婦ですか。このおなかと。ちょっとありえませんと。
そして、巻尺を丁寧に上下させて目を見開く。
「胸。また大きくなっている」「腹は細くなったぞ。『シャイプアップ』やってる」
しぇいぷあっぷ。だ。
1970年。「ミコのカロリーBOOK」が大ヒットする。
以前にも海外フォークシンガーなど予兆はあったが、自慢の声量の源である脂肪を捨てた姿になってヒットを飛ばした女性歌手が書いた本は当時としては画期的だった。
これ以降、アイドルは痩身を是とするようになる。
飽食の時代が忍び寄っていた。その事を由紀子も彰子も気がついていない。
「昔は食べれるのが幸せだったのになぁ」「今でもですよ」
饅頭一個で絶交を三十回以上やっている二人。説得力がある。
その件について少し思いだした恨み事を由紀子は呟いた。
「そういえば学生時代の夏に饅頭全部とあんぱんを食べつくしたことがありましたね」「っ?! 」
あの恨み、今だ忘れていませんよ? と由紀子は続けるが。
無責任と言うなかれ、由紀子には『あの記憶』はない。もしあれば彼女は正気を保てないであろう。
だらだらと白く肌理細やかな背中に冷や汗を流しだす彰子。
「いや、ちゃんと後で弁償したじゃないか」「うっさい。人が寝ている隙に」
「だいたい俺はお前を助けてやってたのになんで恨まれなければならない……なんでもない。です」
由紀子が睨みつけると彰子は黙った。
「まぁ。覚えていないほうが幸せな事もある」「何をごちゃごちゃと」
お互いため息。
「どうしてあなたまでため息をつく必要があるのですか。
ほら、動くな。採寸が狂います。ただでさえあなたの身体は起伏が大きいのですから」
ピカピカチラチラと明滅を繰り返す裸電球の元、ぼそりと彰子は呟いた。
「いや、私は親友の幸せを切に願っているのだよ」「『元』親友です。人を嵌めて何をいっていらっしゃるのですか」採寸終了。
「ゆっこ。おまえ縫うの間に合うのか」だから頑張っているじゃないですかと由紀子の返事。
「いやな。手伝ってやろうと」「帳消しにしてあげるわけではありませんよ」
二人はニッコリと微笑みあうと、服を縫う作業に戻った。
この型紙を自作し、立体縫製を行う由紀子の確かな技術は、後に別件で役立つことになる。
製図が出来るということで、機械関係の会社に彼女は就職するのである。
由紀子はそんな未来の話を知らない。
1975年。この物語は他人が作った美意識や服を争って買い求めるそんな時代が来る前の、
ひとりの女性とひとりの青年からみた恋の物語である。




