夢の都
どうしてこうなるんですか。
「おい。しっかり捕まってろ。木の葉みたいに飛んじまう」確かに身体は軽いです。
「揺れすぎです。少しスピードを落としてください」「そんなこといったって門限があるだろうが」
両手で久さんの作業服を纏い、破れた制服を隠します。今夜は徹夜で制服を縫い直さないと。
「おい、なんでもいいから捕まれ。危ないだろうが」「両手で服をもって何処で何に捕まれと」
ボタンを留めればいいだろうが。彼はそう仰いましたが。
「この作業服、臭いですよっ?! 」「あん?! ちゃんと先週洗ったぞっ?! 」
本気で機嫌が悪くなってしまいました。「ご、ごめんなさい。悪気はありません」「あっそ」
キュ。という音がして自転車が止まります。「さっさとボタンを閉めろ」「ええ」
私がボタンを閉じるのを確認するが早いが、彼は恐ろしい速度で走り出しました。
「ひさっ ひさっ ひさしさん。はやすぎですっ 」「門限に間に合わないんだろうがっ 」
こわいこわいこわい。大阪の路地は狭くて汚くて物が一杯転がっています。
「久さん。スピード落としてッ 」「何かにつかまれって言ってるだろうがッ 」
『何か』って。意外と筋肉質の貴方のお背中しかないわけですが。
なんとかサドルの根元を両手で掴みます。「掴みましたよっ」
「じゃ、飛ばすぞ」えっ?
更にスピードが上がります。「ちょ。ちょ。久さんッ 」
これはあれですか。抱きつかせようとか不埒なことを考えているのですか。そうはいきませんよ。
意地でも抱きついてあげませんから。ええ。恋人でもそんなことしてません。
「ゆぎー」「ゆうゆう」外で私の帰りを待っていた二人が駆け寄ってきました。よしよし。
恐怖の時間が終わり、なんとか門限に間に合った私は子供たちの歓迎を受けて帰宅しました。
「由紀子ッ?! 遅いぞッ 」義兄さん。ちゃんと5分前に帰ってきてます。うう。
「ごめんなさい。ちょっと用事で鹿島に寄ったのですが会社の自転車が故障しまして」「ああ? 会社から預かった大切な自転車を壊しただぁ?! 」
最近安くなってきましたが、自転車は大切です。うう。
「久さんのお知り合いに自転車を直していただきました」「は?! 」
義兄さんは不思議そうに言いました。「お前、断ったんじゃないのか」断るつもりだったのですが。
「で、切手を貼り忘れたと」「ええ」兄さん。その通りです。
「その上、待ち合わせ場所が違うと知らずに三十分も待ってくれた久さんに食いついたと」姉さん……。
「だらず」「だらぁ」
うううううううううううううううううう。
「久さん、まだ近くにいるんじゃない? ご飯できているから呼んで来て」えっ。
「このだらずの世話をしてくれているのに、タダで返すわけにはいかんからなぁ」
自転車に乗って探しにいくと、彼は歩いて十三まで帰ろうとしていました。
体力ありすぎます。おかしいです。
「うちのかわいい義妹に手を出しやがってッ?! 可愛い妹の身体を弄んだなッ?! 殺すッ 」「……」
すいません。義兄さんって泣き上戸で絡み酒なんです。恥ずかしい。
「二度も言わなくていいですし、弄ばれていません。義兄さん」身内でなければ本気で怒ります。
「あなた。呑みすぎ。あと、久さんは明日もお仕事ですから呑ませ過ぎないでね」
どんどんビールが減っていきます。ああ。またケースが空に。
荒れる義兄さんに久さんもたじたじです。
「この莫迦娘がッ 25にもなったらいき遅れだッ 25のうちに結婚しろッ 今すぐだッ 」えーと。
「森本でもコイツでも別にかまわんぞっ 」ええかげんにせぇや。思わず大阪の人の喋り方になったじゃないですか。
「お、俺、そろそろかえらないと」「おーし! 婚約者なんだ。泊まってけっ?! 」え~と。
「ゆぎ~」「はい。一緒に寝ましょうね」何か期待しましたか? そんなことはないですよ。
「うるさいねぇ」「大分言葉を覚えてきましたねぇ」「ゆうゆう」
私がお布団で子供たち二人をしっかりつつんで眠りについた後も、男の人たちは大騒ぎしておりました。
翌朝、フラフラの久さんに電車賃を持たせて送り出しましたが。
「おうっ! またこいよっ! だらずがっ?! 」二度と来ないと思います。ええ。
(作者註訳:由紀子が卒業する前の1956年ごろ、スマートレディーがこれまで高級品だった自転車の月賦制度を導入。1965年。一本のフレームから出来た安価で由紀子のような女性でも乗りやすい男女兼用・小型の自転車『ミニサイクル』が登場します。女性の行動範囲が飛躍的に広がりました)




