久。拳に目覚める
「この道場に入った場合、腕が動かなくなろうが死のうが一切の不服は無いものとする」
物騒極まりない誓約書に拇印を押してみせる。15歳ほどの少年。
体格は小柄で華奢だが、まだまだ成長の余地を思わせる。
顔立ちは端正で、どうみても荒事には無縁だ。
「では、コレで。本当にいいよね」「お願いします」
少年は、自分より更に小柄な中年男性に頭を下げて見せた。
大阪に十五歳で出てきた久にとってここは驚きの連続であった。
まず。きたない。臭い。本当に臭い。ゲロの匂いが駅からしてするし。
そして騒がしい。何処からとも無く有線放送が流れ、酔っ払い共が深夜を越えても騒ぐ。
久の就職先は大阪でもスラムに近いところで、今で言えば十三駅の奥のほうに位置する。
あっちこっちで喧嘩があるし、着飾った年よりじみた娼婦が初心な久を誘う。
十三といえば名物・酒饅頭なのだが、まだ酒の呑めない彼にとってこの香すら不愉快に感じた。
そんな彼は先輩たちに殴られ、蹴られながらも必死で丁稚として先輩たちの技を盗む日々が始まった。
誰も教えてくれないし、道具も貸してくれない。気を抜けば道具を盗まれる。そして盗まれた久が殴られる。
道具を大事にしないやつということになるのだ。
それでも久は必死に覚え、合間合間に仕事を隠そうとする先輩方の技を盗み、
見ても解らぬ図面を夜中に必死で見て、その商品を作る先輩と照らし合わせて図面の読み方を覚えていく。
僅かなお小遣いは性質のわるい先輩たちの如何様まがいの麻雀で奪い取られ、
空き腹を抱えながら不味い大阪の水を呑み、泣くのを堪えて耐えた。
立派な職人になれば。親孝行ができる。
先に都会や海に出て自分や母を支えてくれた兄貴たちへの恩を返せると。
まだ遊び足りない十五歳の少年は、時々工具や会社の備品で遊んで殴り倒されつつ仕事を覚えて行った。
そんな彼が、僅かな小遣いを貰って街に遊びに行ったとき、
運命の波は優しい悪戯小僧を変える事件にさらっていくことになる。
薄汚い路地に転がり、傷だらけで涙を流す久を蹴り飛ばすチンピラ。
「くそ。これだけしかもってねぇ」ゲラゲラと笑いながら飽きたチンピラ連中は久を捨てて何処かに行ってしまった。
「くそったれ」
つよくなりたい。
薄汚い路地。散らばるゴミ箱に猫に浮浪者。
ふらふらと立ち上がる久。どこからか酔漢の声と悲鳴を上げる女の子の声。
つよくなれば。ただしくなれるのかな。
彼は『生死の保障はできない』と書いてある空手の道場の門を叩いた。
丁稚の癖に空手で遊ぶのかと先輩方は呆れたが。彼を子供のように可愛がる専務の一声で。
「まぁ。仕事の邪魔はするなよ」認めてもらえた。
実際、当時の彼は身体も小さく、子供にしか見えなかった。
以後、彼は真夜中まで仕事をし、僅かな休憩時間は身体を動かし。
夜や休日は道場に通って汗を流すようになる。
久はヤクザめいた兄弟子たちにボコボコにされ、仕事では先輩たちに殴られ蹴られ。
それでも必死に。必死に相手の技を盗み、動きを見極め、相手の意図を察する気遣いに目覚めていく。
「母ちゃん。俺やりたい事を見つけたんだ」たった10円。
されど丁稚の彼には貴重な十円。寮に一台しかない電話で故郷の母と話せる言葉は限られる。
「空手なんだ」
優しいヒサ坊がそんな恐ろしいことを。久の母は驚愕のあまり膝を落としかけたが。
「がんばれ」
けがしないで。むりしないで。そんなことはいくらでもいえるが。
久がやりたいと言うことは。なかった。いつも兄姉のため。母のためと言う子だった。
だから、久の母は電話では何も言わず。都会で暮らす末息子の安否を亡き夫に祈るだけにした。
そして、一人残った大きな家の中で。泣いた。
「はぁっ! 」
「お、おいっ?! 大丈夫かっ?! うわ。アバラおれているっ?! 」
二年後。久は道場の中で頭角を現しだしていた。
たった二年で何を食べたのか身体はたくましく引き締まり、端正な顔立ちは男性的な凛凛しさを持つようになっている。
そして。
「先輩ッ! お願いしますッ 」「お、おう」
「うわああああああああああっ?! 」「また折りやがったッ?! 」
「久。お前はしばらく飛び込み二段蹴り禁止だ」
嘗て彼を苛め抜いた先輩たちを倒せるほどの実力を発揮するようになった。
「先輩。いい加減払ってくださいよ」「絶対、絶対如何様だろ。久」
いやだなぁ。久はニコニコ笑う。先輩がまたモノを知らない新入りをカモにしようとしているのを察した久は、その卓に強引に入り込み、先輩たちを丸裸にして見せた。
「イカサマはばれなければイカサマじゃねぇっす」「すまん! 謝るからもう許してくれッ? 」
「ほら。取り返してやったから。この金でおっかさんになんか買って送ってやれ」「あ。ありがとうございます。武田さん」
泣いて喜ぶ後輩の頭を撫でながら久は笑って見せた。
少しだけ。久は強くなった。
でも。
「ちょっとまった。おっちゃん。なんで靴一足5000円が一万円なんだよ」
この時代、靴の値段は現代と同じである。つまりべらぼうに『高い』。
5000円といえばやっと給料が出るようになった久の給料と同じだ。
大枚をはたいて必要な『靴』を買おうと勇んで出てきた久には色々とありえないことを『おっちゃん』は語った。
「バカヤロウ。いなかもん。それは『いっそく』じゃなくて『ひとあし』って読むんだ」「はぁああっっ??! 」
この時代の商人はまだまだこういう生き馬の目を抜く連中がいた。
結局。久は泣く泣く片足だけの革靴を買って帰り、専務たちに呆れられることとなる。
久のお人よしは、まだまだ治っていないらしい。




