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バタバタと足音が廊下を駆ける音がした。
クラウディオは顔を上げる。普段ではありえない、切羽詰まった乱れた足取りだ。
「クラウディオ様っ──!」
扉が荒々しく開き、青ざめた顔の侍従・ラウロが息を切らして飛び込んできた。
「エレナ様が……っ、エレナ様が……!」
その表情を見た瞬間、胸がざわりと波打つ。
「……どうした」
声が自然と低くなる。
「外出先から……戻られません!」
「遅れることくらいあるだろう」
「いえ……! 市場の警備隊から連絡が……
エレナ様が何者かに襲われ、連れ去られた可能性が高いと……!」
クラウディオの心臓が止まった。
時間が一瞬、凍りつく。
「……何を、言っている?」
声が震え、自分の声とは思えないほどかすれていた。
「買い物をされていたエレナ様が、市場を出られた直後……
目撃者によれば複数の男に囲まれ、そのまま馬車に押し込まれた、と……!」
ラウロの説明は震えていた。
クラウディオは立ち上がった。
握りしめた手は白くなるほど強張り、思考は怒りと恐怖で真っ白になっていた。
「……一体どこだ。どこへ連れていかれた!」
「い、今、王都警備隊が追っていますが……馬車は黒塗りで、番号も消されていたとのことで……!」
「くそっ!」
普段は絶対に乱さない感情が、むき出しに溢れる。
机を拳で叩き、書類が床に散らばった。
――エレナがいない。
――誰かが、彼女を連れ去った。
その事実だけで、胸の奥が焼けるように痛む。
「すぐに全隊を出す。王都の門を封鎖しろ。
全ての馬車を検問し、怪しい者は即座に拘束しろ!」
「かしこまりました!」
側近たちが駆け出す。
しかし、焦燥はまったく消えなかった。
(エレナ……どこだ……!)
あの小さな手、あの笑顔、あの声。
自分を信じてくれて、慕ってくれて、寄り添ってくれた彼女。
彼女が恐怖に震えているかもしれない。
助けを呼んでいるかもしれない。
傷つけられているかもしれない。
「……っ!」
胸が裂けそうだった。
こんなにも彼女を求めていたことに、初めて気づく。
(エレナを失うくらいなら……俺は──)
思考が暗く沈み、狂気に似た不安が心を飲み込む。
そこへ、もうひとり、息を切らして廊下を駆ける人物がいた。
「クラウディオ様!」
「ミケーレ? お前まで何だ!」
ミケーレは血の気の引いた顔で立っていた。その手は震えている。
「言わなければ……と思っていました。
でも、もう……限界です」
クラウディオは眉をひそめる。
「何を言おうとしている?」
「……父のことです」
沈黙。
空気がひりついた。
「父は……ずっと、エレナ様を排除しようとしていました」
クラウディオは固まった。
「……何だと?」
「信じたくありませんでした。でも、事実です。
父は悪徳商人と通じ、エレナ様を失脚させようとしていました。
そして今日……父の部屋で、“誘拐計画書”のような文書を見つけたのです」
ミケーレは震えながら、封筒を差し出す。
「読んでください……父の計画です」
クラウディオはそれをむしり取るようにして封を開く。
中には、信じがたい内容が書かれていた。
――『エレナを連れ去り、国外へ売り飛ばす。
戻らなければ、クラウディオは婚姻を破棄するだろう』。
その歪んだ計画を目にした瞬間、クラウディオの視界が赤く染まった。
「……ッ……ダリオ……!!」
吐き捨てるような声は、怒りの底から煮え立つようだった。
「クラウディオ様……申し訳ありません。
私は……父を止められませんでした」
ミケーレは膝をついた。
「いや、ミケーレ。
お前が知らせてくれたおかげで間に合うかもしれない」
クラウディオは拳を強く握る。
「叔父が……エレナを……」
胸が痛む。
怒りで身体が震える。
「あの人間が……よりによって、エレナを……!」
部屋の空気が張り詰める。
クラウディオは鞘ごと剣をつかみ、踵を返した。
「クラウディオ様、どちらへ──」
「決まっている。
エレナを助けに行く」
その声は、今まで聞いたことがないほど鋭く、熱かった。
「城門の封鎖状況は?」
「既に始まっています!」
「ミケーレ、装備を整えろ。お前も来るんだ。
父を止めたいのだろう?」
ミケーレは一瞬目を見開き、それから小さく頷いた。
「……はいっ!」
廊下を走り出しながら、クラウディオの胸は苦しさで締めつけられる。
(エレナ……どうか無事でいてくれ……)
数日前の、彼女の柔らかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
自分の誕生日に、涙目で喜んでくれた彼女。
夜の廊下で、自分の笑顔を褒めてくれた優しさ。
その全てが、指の間からこぼれ落ちるような錯覚に襲われる。
(助ける。必ず助ける。
エレナを失うくらいなら……俺は──)
胸の奥に、これまで抱いたことのない強烈な感情が渦巻いた。
それは、愛に似ていた。
しかしそれ以上に、守護の本能に近い、激しい熱だった。
「クラウディオ様! 馬の準備が整いました!」
玄関ホールに到着すると、兵士たちが緊張した面持ちで待機していた。
「聞け!
エレナ様は誘拐された。生死は不明。
全力で探す。王都中をひっくり返してでも見つける!
一刻の猶予もない!」
「「はいっ!!」」
兵士たちの声が響く。
クラウディオは黒い軍馬に飛び乗った。
その顔は鬼のように険しく、それでいてどこか痛々しかった。
(エレナ……待っていろ。
必ず……必ず迎えに行く)
彼は手綱を強く引き、馬は地を蹴るように駆け出した。
――こうして、クラウディオの狂気にも似た捜索が幕を開けた。
そして彼の知らぬところで、エレナは暗い倉庫の中で意識を失ったまま、静かに眠っていた。
助けを呼ぶ声は届かない。
その事実が、クラウディオの胸をさらに裂き続けることになる。




