23
夜の王都に、不穏な風が吹き抜けていた。
空には薄雲が垂れ込め、月明かりをぼやかしている。普段なら賑わいで溢れる大通りでさえ、人々は足早に家路を急ぎ、どこか怯えたように周囲を見渡していた。
クラウディオはその中を、まるで狂ったように駆け抜けていた。
重厚な黒馬の蹄が舗装されていない石畳を激しく叩き、後方に土煙を巻き上げる。彼の瞳は爛々と燃え、怒りと恐怖、そして焦りを宿していた。
エレナが誘拐されたーー
その報が届いた瞬間、彼は肺から空気が抜けるほどの衝撃を受け、思考さえ白く染まった。
(エレナ……エレナ……!
どうか、無事でいてくれ。俺が行くまで……)
彼は馬を降りることすら惜しんで、側近の報告を走りながら聞いた。
だが、どれほど聞いても事態は最悪に近い。
犯人は複数。
訓練された傭兵風の男たち。
計画的にエレナを狙った痕跡。
馬車ごと連れ去り、その後は痕跡を消すように姿を消している。
しかしその顔には、痛みと悲しみと、そして強い覚悟が宿っていた。
その時、側近が駆け寄り、報告した。
「アジトの場所が判明しました!
北門の外れ、廃教会です!」
「よくやった。すぐに向かう。」
クラウディオは馬にまたがり、城壁の外へと疾走した。
騎士団も後に続き、松明の炎が暗闇を裂く。
***
廃教会は、森の奥深くにひっそりと佇んでいた。
かつては祈りの場であったはずの建物は、今では崩れた石壁が残るだけで、外観からしても荒れ果てている。
だが、灯りが漏れていた。
人の気配がある。
クラウディオは手をあげ、騎士たちに静かに合図した。
「ここだ。突入の準備を――」
その時、建物の中から女性のくぐもった声が聞こえた。
「……っ……たすけ……」
クラウディオの心臓が激しく跳ねた。
(エレナ……!)
もう耐えられなかった。
「全員、突入する!!
エレナを救い出せ!!!」
怒号にも似た声が森に響き渡る。
騎士たちが一斉に剣を抜き、教会の扉を破った。
次の瞬間、闇から複数の影が飛び出してきた。
「来たぞ! 殺せ!!」
「クラウディオ・バルツァーリを仕留めろ!」
黒布で顔を覆った男たち。
手には短剣や鈍器。明らかに素人ではない動きだ。
だが、クラウディオは一歩も引かなかった。
剣を抜くと同時に、一人の男と刃を交えた。
「どけぇぇぇ!!」
怒りは彼の筋肉を震わせ、力を倍増させていた。
男の武器を弾き飛ばし、そのまま柄で顎を殴り飛ばす。
「ぐっ……!」
男が潰れた蛙のような悲鳴を上げて倒れる。
背後からもう一人が襲いかかった。
「後ろだ、クラウディオ様!!」
騎士の声が飛んだが、クラウディオは振り向きもせず、剣を逆手に持ち替えながら背後の敵を受け止めた。
刃と刃が激しく火花を散らす。
「どけ。お前に構っている時間はない!」
力で押し返し、男の腹を蹴り飛ばした。
返り血が頬にかかる。
腕も切られた。
だが、今のクラウディオには痛みなど感じる余裕はない。
(エレナを……守る。
必ず……救う。)
それだけが、彼を突き動かしていた。
***
奥の部屋へ駆け込むと、薄暗い室内の隅に白い影が見えた。
「……っ……」
粗末な椅子に縛り付けられ、口元に布を当てられたエレナ。
気絶しているのか、意識が朦朧としている。
「エレナ!!」
クラウディオは駆け寄ろうとした。
だがその前に、長身の男が剣を向けて立ちはだかった。
「動くな。奥方を返してほしければ……血を流してもらおう!」
その声には狂気が宿っていた。
傭兵の中でも腕が立つ、危険な男の気配。
「どける気がないなら……力づくだ!」
クラウディオの剣が閃き、激しい金属音がこだました。
ぶつかり、跳ね返り、また交錯する。
攻防は激しく、乱暴で、しかし一瞬の油断も許さない。
やがて、相手の腕がわずかに落ちた瞬間ーー
「はぁぁっ!!」
クラウディオは踏み込み、男の剣を叩き落とした。
さらに胸元へ強烈な一撃を叩き込み、男は壁に激突して崩れ落ちる。
荒い息をつきながら、クラウディオはエレナへ駆け寄った。
「エレナ……エレナ! 聞こえるか!?
俺だ、クラウディオだ……!」
震える手で拘束を解き、布を外すと、彼女の睫毛が微かに震えた。
「……く……ら……?」
掠れた声。
その声だけで、クラウディオの胸は張り裂けそうになった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ……!!
遅くなってすまない……すまない……!」
痛む腕も、呼吸の苦しさも忘れ、彼はエレナを抱きしめた。
エレナは弱々しくクラウディオの胸元を掴む。
「……こわ……かった……です……」
「わかってる……もう二度と……こんな目には合わせない」
彼女の頬に、自分の返り血がついていることに気づき、思わず唇を震わせた。
「クラウディオ様、外の敵はほぼ制圧しました!」
騎士が知らせに来る。
「わかった。すぐに戻る。
エレナを馬車に。医師も呼べ!」
「はっ!」
エレナを抱き上げた時、彼女が小さく囁いた。
「……助けて、って……呼びました……
クラウディオ様が……来てくれるって……信じてた……」
「……ああ。呼んでくれて、ありがとう。
必ず……応えるつもりだった」
クラウディオの言葉は震えていた。
だがその声には、揺るぎない決意があった。
外では騎士団が確保作業に追われていたが、
クラウディオの腕の中のエレナは、もう意識を保つことができなかった。
「エレナ? エレナ、聞こえるか?」
答えはない。
彼女はクラウディオの胸に顔を埋め、気力も尽きたように小さく眠り始めた。
「医師を呼べ! 急げ!」
クラウディオの怒鳴り声に、騎士たちは即座に動く。
だがクラウディオは、医師が来てもなお、彼女から手を離そうとしなかった。
屋敷に戻った後も、クラウディオはエレナのベッドの横から離れなかった。
医師が手当をする間も、ただ彼女の手を握り続けた。
エレナは熱を出し、瞼を開くことすらままならない。
「エレナ……頼む、戻ってきてくれ」
クラウディオは彼女の手に額を押し当てた。
あれほど強かった男が、今はただ一人の女性のために弱さをさらけ出している。
「お前を……失いたくない……」
震える声が、静かな寝室に落ちて消えた。
エレナの指が、弱く、弱く、彼の手を握り返した。
「クラウ……ディオ……さま……」
その微かな呼びかけだけで、クラウディオの瞳に涙が滲んだ。
「ここにいる。……ずっと一緒にいる」
夜が深まり、医師が下がった後も——
クラウディオは椅子に寄りかかり、エレナの手を握ったまま眠らなかった。
部屋には、彼女の小さな寝息と、
彼の途切れ途切れの謝罪だけが続いていた。
「もう絶対に手放さない……」
その誓いは、夜明けまで繰り返し呟かれた。
そしてエレナは、クラウディオの胸の側で、
安心したように深く眠り続けた。




