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「君を愛するつもりはない」と言った伯爵様の胃袋をつかんだら溺愛されました  作者: あいら


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バルツァーリ邸の執務室で、クラウディオは珍しく落ち着きを失っていた。

 机の上には何度も書きかけては破り捨てた招待状が散らばっている。


(何を緊張しているんだ、俺は……)


 ペン先を指で押さえ、深くため息をつく。

 彼にとって、社交界での挨拶より、商会の経営判断より、この一枚の紙に書く言葉の方がよほど難しい。


 ――エレナを劇場に誘いたい。


 たったそれだけのはずなのに、口に出すのも躊躇われるほどの重みがあった。

 庭園で互いの気持ちを確認してから、数日が経っていた。

 以前のようなぎこちなさは消えたが、距離が縮まったぶん、会うたび胸が高鳴る。


 自然と目が追ってしまう。

 彼女の笑顔を見れば安心する。

 声を聞けば、今日も幸せであってほしいと思う。


(……この気持ちを、もっと確かなものにしたい)


 その願いが、クラウディオを劇場へと向かわせた。


 彼は書きかけの招待状の紙を手に取り、慎重に筆を走らせる。


『王国劇場で、新作劇《月の船旅》が公演される。

 もしよければ、私と一緒に――観に行ってほしい。

 クラウディオ』


 読み返すと、心臓が跳ねた。

 だがもう迷わない。

 封筒に丁寧に入れ、封蝋で固める。


(断られたら……いや、エレナなら……)


 彼は首を振り、執務室を出た。


 エレナの部屋の扉の前に立つと、胸が強く鼓動した。

(何故こんなに緊張している……?)

 自問しつつノックをし、使用人の案内で部屋へ通される。


「クラウディオ様? どうなさいました?」


 紅茶を片手に読書していたエレナが顔を上げた。

 光に照らされたその姿は柔らかく、どこか無防備で、クラウディオは一瞬言葉を失う。


「……これを、渡したくて」


 招待状を差し出す。

 エレナは不思議そうに首を傾げ、封を開けた。


 数秒――そして、顔がぱあっと花のように明るくなる。


「劇場……! 私、ずっと一度行ってみたかったんです!」


 胸の奥で、何かがほどけた。

 彼女のこんな笑顔を見たかった――そのためだけに、何度でも招待状を書けばよかったと思う。


「それでは、お誘い……受けてもいいですか?」


 エレナの声は弾んでいた。


「もちろんだ。こちらこそ、ありがとう」


 その瞬間から、クラウディオは当日が来るのを待ちきれなくなった。


 ――劇場当日。


 王都の中心にある王国劇場は、夜になると外壁に灯されたガス灯が輝き、まるで貴族の宝石箱のようだ。

 広場の噴水と並んで多くの馬車が列を作り、華やいだ声があちこちから響く。


 クラウディオは先に馬車を降り、エレナが出てくるのを待っていた。

 緊張している自覚はあるが、それでも今日は特別だった。


 そして――


「クラウディオ様、お待たせしました」


 馬車の扉が開き、エレナが姿を現した。


 淡いクリーム色のワンピースに、胸元には繊細なレース。

 柔らかな巻き髪が肩にかかり、光を受けてふわりと浮かぶ。

 ほんのり桜色に染められた頬、潤んだ瞳。

 見慣れているはずなのに――別人のように美しい。


 クラウディオは言葉を失った。


 あまりに長く見つめすぎて、エレナが頬を赤らめる。


「あ……あの、変でしょうか?」


「変じゃない。――驚くほど、綺麗だ」


「っ……!」


 エレナの耳まで赤く染まった。

 クラウディオ自身も口にした瞬間に心拍が跳ね、視線をそらす。


「行こう」


「は、はい!」


 ふたりは距離を取りすぎない程度に並んで劇場へと入っていった。


 劇場のロビーは観客で賑わっていた。

 煌びやかなシャンデリア、深紅の絨毯。

 壁には新作劇《月の船旅》の大きなポスターが貼ってある。


「わあ……本で読んだ通りです。こんなに素敵なんですね」


 エレナは目を輝かせていた。

 その純粋な反応に、クラウディオの胸がじんわりと温かくなる。


「喜んでもらえてよかった」


「嬉しいです。本当に、ありがとうございます」


 その笑顔だけで招待してよかったと思えてしまうから、クラウディオは自分の単純さに苦笑した。


 ふたりは案内係に導かれ、特等席である二階の中央へ向かう。

 席に腰掛けると、舞台がすぐそこに感じられる距離だ。


 開演前のざわめきが心地よく響く。


「……こんな良い席、確保してくださったんですか?」


「せっかく誘ったのだから。最高の席で観てほしい」


 エレナは胸の前で手をぎゅっと握りしめた。

 その表情は、言葉以上に喜びを物語っていた。


 やがて館内にベルの音が響き、照明が落ちる。

 幕が上がり、幻想的な音楽が場内を包んだ。


 物語は、月の神に愛された少女と、孤独な舟人の恋を描いたもの。

 切なく、優しく、まるでふたりの心を映すような舞台だった。


 途中――


 ふとした瞬間、エレナの手がクラウディオの手の甲に触れた。


 柔らかくて、小さくて、温かい。


「……っ」


 ふたりとも、びくりと肩を震わせて手を引っ込めた。

 だがその拍子に、耳が赤く染まるのを互いに認識してしまう。


 エレナは小さく俯き、目を逸らした。

 クラウディオも姿勢を正したまま、動けなくなる。


(触れた、だけだ。……なのに、どうしてこんなに意識する?)


 落ち着こうと深呼吸しても、心臓が落ち着く気配はない。

 エレナも同じようで、胸元のリボンがわずかに上下していた。


 舞台では、男女の主人公が手を取り合い、月明かりのもとで愛を誓うシーン。

 まるで今のふたりの心を見透かしているかのようだった。


(好き……なのかな)


 エレナの胸にそんな想いがじわりと広がる。

 彼に触れた瞬間の感触が、じんわりと手のひらに残っている。


(……嫌じゃなかった。むしろ……)


 それ以上の言葉は、まだはっきりとした形にならない。

 だが、心が確かに震えていた。


 クラウディオもまた、自分の手を握り込んでいた。


(こんなにも……小さなことで心が乱されるとは)


 エレナの瞳、表情、声。

 触れた温度――

 その全てに、心が支配されていく実感がある。


 舞台がクライマックスを迎えた頃には、ふたりはもう舞台に集中しているようで、まったく集中できていなかった。


 エレナは何度も横目でクラウディオを見てしまう。

 クラウディオもまた同じように、エレナの反応が気になって仕方ない。


 最後の幕が下りると、観客たちは大きな拍手を送った。

 ふたりも拍手しながらも、互いの存在を強く意識していた。


「とても……素敵でしたね」


「……ああ」


 ごく普通の返事のはずなのに、声が微妙に震えている。

 エレナもまた握った手がわずかに汗ばんでいた。

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