13
王宮の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。華やかな宴の余韻だけが、遠くから流れてくる楽団の音色とともに空気に溶けている。
その音を背に、クラウディオとエレナは、人目を避けるように庭園の奥へと歩いていた。
王宮の庭園は、まるで別世界のようだった。夜風に揺れるランタンの光は柔らかく、月光を集めた噴水の水音は穏やかに響く。花々は昼よりも香りを濃くし、甘く、どこか切ない気配を漂わせていた。
「まるで夢みたいですね……」
エレナは足を止め、星空を見上げてつぶやく。その声は、どこか高鳴る胸を抑えきれずに震えていた。
「……そうだな」
クラウディオも空を見上げるが、すぐに視線はエレナへと戻った。
最近は、気づけば彼女を目で追っている自分がいる。それを自覚しているのに、目を逸らそうとは思わない。
今夜の社交の場は、ふたりにとって忘れがたいものとなった。
面倒な貴族たちの駆け引き、気まずい噂話、そして思わぬトラブル――
そのどれもが、ふたりの距離を決定的に変えるきっかけになったのだ。
だが今は、それを振り返るよりも、ただ静けさの中で互いの呼吸を感じていたかった。
王宮の庭園は夜になると、昼とはまるで別世界になる。
“夜の庭園”というより、“星の下の小さな王国”と言った方がいいほど、光と影が幻想的に交わっていた。
地面に敷き詰められた白砂利は月光を反射してきらめき、噴水は静かに水音を立てている。
花々は夜に合わせて香りを濃くし、風に乗って甘く流れてきた。
「……こんなに静かな王宮、初めて見ました」
エレナはそっと目を細めた。
宴の場ではいつも周囲の視線を感じている彼女だったが、ここにはそれがなかった。
まるでふたりだけが世界に取り残されたかのような孤独と安心が同時にある。
「そうだな。俺も初めてだ」
クラウディオも、ほんの少しだけ唇を緩めた。
社交界という場は彼にとって居心地の悪いものであり、誰かの興味本位の視線にさらされるのは耐え難い。
だが、こうしてエレナと歩いていると、その不快感が薄れていくのが不思議だった。
ふたりはゆっくりと歩きながら、噴水のそばに置かれた大きな白いベンチの前で足を止めた。
背後からは、かすかに音楽が聞こえる。
だがここでは、その音さえ遠く、夢の外側の出来事のように感じられた。
「エレナ」
クラウディオがそっと呼ぶ。
その声が、夜気を震わせた。
エレナは振り向いた。
ランタンの柔らかな光が彼女の頬を照らし、淡く輝く。
「はい、クラウディオ様」
呼び方は形式的だが、その声には親密さが滲んでいた。
クラウディオは言葉に詰まり、一瞬だけ視線を逸らした。
呼び止めたくせに、自分でも何を言いたいのか確信が持てない――だが逃げたくなかった。
「君に……言わなければならないことがある」
エレナの胸がひりつくように高鳴った。
王宮での出来事――侯爵令息から守ってくれた彼の姿が脳裏をよぎる。
あのとき、確かに自分は彼に惹かれた。
「以前、結婚式の夜に……俺は、ひどいことを言った」
その言葉に、エレナは息を呑んだ。
忘れたくても忘れられない、あの残酷な宣告。
『君を愛することはない』
その瞬間の胸の痛みが、まだ残っている。
だが今、彼がその言葉を口にする理由は、もう分かっていた。
「……あれは、俺の弱さだった。
自分の心を守るために、君を拒絶した。
君がどんな人なのか、知ろうともしないままに」
クラウディオはゆっくりとエレナの方へ顔を向けた。
いつもの冷たさはなく、率直で、脆いほどの本音がにじんでいる。
「エレナ。君は……俺の予想を、すべて裏切った。
努力して、屋敷を明るくして、人を笑顔にして……
気づけば、俺は君を目で追っていた」
エレナの目が大きく揺れる。
「……クラウディオ様……」
「俺は、君を――好きになってしまった」
夜の空気が凍りつくような静けさのなか、その告白は真っ直ぐに胸へ届いた。
エレナは一度、ゆっくりと息を吸い込む。
心臓が早鐘のように鳴り、その音が耳に響いていた。
「……私も」
やっと絞り出した言葉は、震えを含んでいた。
「私も、あなたのことが……好きです。
あなたは不器用だけど、本当は優しい人だと知ってしまったから……」
クラウディオの肩が僅かに震えた。
それは安堵か、喜びか、もしくは信じられないという感情か。
言葉の続きはなかった。
しかし、それで十分だった。
ふたりは、ただ見つめ合った。
離れようと思えば離れられる距離でありながら、誰も動かなかった。
右手を伸ばせば触れられるほど近いのに、その一歩を踏み出す勇気が出ない。
恋というものが、こんなにも甘く、苦しいものだったとは――
互いに初めて知る感情だった。
エレナがふと俯き、両手を胸の前で握りしめた。
「……こんな形で言われるなんて、思っていませんでした」
「俺も、思っていなかった」
クラウディオが小さく笑う。
不器用な男が、ようやく手に入れた柔らかな笑みだった。
「君の前では……俺はいつも計算が狂う」
「それは……私も同じです」
微笑むエレナの頬は、ほんのり赤く染まっていた。
その帰り道、馬車に乗り込むと、緊張が解けたのか、エレナはしばらくして穏やかな呼吸を始めた。
クラウディオが横を見ると、エレナはふにゃりと力を抜いて彼の肩に寄りかかっていた。
「……寝たのか?」
返事はない。
完全に寝息を立てていた。
「まったく……緊張してたのは俺だけか」
そう口では文句を言いながらも、クラウディオの声は柔らかく、心底嬉しそうだった。
そっと外套を取り、その肩に掛ける。
エレナの髪が揺れるたび、甘い香りがかすかに漂う。
その香りに胸が締めつけられた。
(守らなければ……この人を)
初めて、そう思った。
屋敷に着くと、クラウディオは眠る彼女を抱き上げて部屋まで運んだ。
軽い。その軽さが妙に不安を誘う。
もっと食べさせるべきだ、と意味不明なことまで考えてしまう。
寝台にそっと寝かせると、エレナは小さく寝返りを打った。
その顔を見下ろして、クラウディオは言葉にできない感情の波に押し流されそうになる。
「……好きだ」
誰も聞いていない。
だが心の底から漏れたその声は、確かな真実だった。
扉を閉める直前、彼は深く息をつき、かすかに笑った。
「明日……どんな顔で会えばいいんだ、俺は」
耳まで赤くなった顔で、一人ごちた。
翌朝、エレナが目を覚ますと、昨夜の記憶が一気に蘇る。
『好きになってしまった』
その言葉が胸の奥で何度も反響し、エレナは枕に顔を埋めて転げ回った。
「ど、どうしよう……!
本当に……言われちゃった……!」
頬は熱く、胸は苦しく、全身が幸せで満たされていた。
ふたりの距離は、その夜を境に確かに変わった。
もう、以前のような冷たい関係には戻れない。
恋が始まったのだ。
静かだが確かな灯火が、ふたりの心に灯った。




