第7話 小さな影と、迷惑な花束ですの♥
翌朝のギルドは、いつもより人の足音が多かった。
地下水路から上がってきた調査班が報告書を抱えて行き交い、資料室の扉は開け放たれている。
中をのぞくと、ミラが紙束を机の上に広げていた。
彼女は顔を上げずに言う。
「来たね、セレスティア。」
「呼ばれましたの。」
言われるまま近づくと、水質の簡易魔法陣や流量図に混じって、一枚だけ赤い印の付いた紙があった。
「ここ。昨日あんたたちが戦ってた区画より少し下流。小魚が数匹、浮いてた。」
「……そうですの。」
「反応はこのくらい。」
ミラは指で数字を示す。
毒性はごく薄く、人間には影響が出ない程度。それでも、水路の一角でだけ、値がわずかに跳ねていた。
「使ったもの自体は、わりと穏やかな部類。
でも、あの構造だと空気が溜まりやすい。少し流れが悪かった。」
「風向きの読みが甘かった、ということでしょうか。」
「そうかもね。」
ミラは紙をそろえ、やっとこちらを見た。
責めている顔でも、庇っている顔でもない。
「判断そのものは間違ってなかったと思ってる。
あれを使わなかったら、人が何人か倒れてたかもしれない。」
「……そうですの。」
「報告には、“魔物との戦闘に伴う環境変化の可能性あり”だけ書いておいた。
詳しいことは、ここには載せない。」
「よろしいのですの?」
「専門家としては、“次はもうちょっとだけ余裕を見てほしい”って言っておく。
それで十分かな。」
そう言って、ミラは紙束を抱え直した。
「あなたが、自分で嘘をつかないなら、それでいいよ。」
それだけ告げて、彼女は資料室の奥へ戻っていった。
結論も慰めも置いていかないあたり、ミラらしいと思った。
私は机の上の水路図を一度見下ろし、何も言わずに部屋を出た。
必要だった一手。
けれど、何も残さなかったわけではない一手。
それくらいの整理で、今は止めておくことにした。
夜になると、同じギルドとは思えないほど空気が変わった。
広間には灯りがともり、肉と酒の匂いが漂う。
皿とグラスの音、笑い声。壁のひびは布で隠され、そこに「祝・任務完了」と雑な字が貼られていた。
「アーデンベルク嬢! 本当にお見事だった!」
幹部のひとりが勢いよく握手を求めてくる。
「ありがとうございますの。壁の件は、見積もりが出たら教えてくださいまし♥」
「き、今日はその話題は置いておこう!」
横からレオンが割って入った。
「お前なぁ……せめて二日くらい空けろよ、そういうの。」
「お祝いの席で現実から目をそらすのは良くありませんの。経済も軌道でございますわ。」
「どんな理屈だよそれ。」
そんなやりとりを聞いていた若い狩人たちが笑い、誰かが「ブーメラン嬢に乾杯だ!」と声を上げる。
グラスがいくつも鳴った。
ノルンが盆を抱えて走ってきた。
「セレスティアさん、今日すごい人気ですよ。
“かっこいい”って噂、もうギルド中に広がってます!」
「それはありがたいことですの。
できれば“慎ましい”という噂も少し混ぜていただきたいですわ。」
「それ、今の発言と矛盾してません?」
「矛盾もまた、軌道の一部ですの。」
「よ、よく分からないけど……なんかそれっぽい!」
ノルンは納得したような、していないような顔で笑い、また人の波に消えていった。
ふと視線を上げると、ミラは少し離れたテーブルで職員たちと話をしていた。
一度だけこちらに目を向けるが、合図らしいものは何もない。
いつもの距離だ。
アヤメは壁際でグラスを揺らし、こちらに歩み寄ってきた。
「ずいぶん賑やかね。」
「ギルドの風は強いですの。上向きに吹いている分には、悪くありませんわ。」
「そういう言い方をするのね。」
アヤメは少し笑った。
「……それで、殿下の救出については?」
「任務としては完了ですの。
個人的なことは、もう軌道の外ですわ。」
「そう。」
それ以上、彼女は踏み込んでこなかった。
ありがたい間合いだった。
ちょうどその時、広間の扉が開いた。
紋章を付けた使者が一人、静かに中へ入ってくる。
笑い声がすっと引いて、足音だけが響いた。
「王太子殿下より、感謝の花束をお届けに参りました。
セレスティア・アーデンベルク嬢は――」
「こちらですの。」
促されるまでもなく、私は一歩前に出た。
差し出されたのは、白いリラの花束。
包み紙の端に、見覚えのある筆跡がわずかに覗いている。
周囲の視線が集まる気配だけが、妙にはっきりしていた。
「……確かにお預かりいたしますの。」
そう言って受け取り、続けた。
「お気持ちだけ、いただいておきますわ。」
使者は形式通りの礼をして下がっていく。
誰も何も言わない時間が、ほんの少しだけ続いた。
私は花束を抱えたまま窓辺へ歩き、そこにそっと置いた。
夜風がカーテンを押し広げ、一枚の花弁を床に落とす。
拾おうと身をかがめたノルンを、手で制した。
「そのままでよろしいですの。
風が運ぶものは、風の軌道に任せた方が綺麗なときもありますわ。」
「……はい。」
ノルンは盆を抱え直し、少し戸惑った顔のまま、また仲間の輪へ戻っていった。
視線を感じて振り返ると、ミラがこちらを見ていた。
何かを問うでもなく、何かを肯定するでもなく、ただ状況を見ている目だった。
私が軽く会釈すると、彼女もわずかにグラスを持ち上げ、それきりだった。
アヤメは、いつの間にかまた壁際に戻っていた。
グラスの中の赤い液体が、灯りを受けてゆっくり揺れている。
宴の喧騒が戻る。
笑い声も歌も再び混ざり合い、花束のことは、やがてただのひとつの話題に埋もれていくだろう。
私は窓辺に立ったまま、腰のブーメランに指を触れた。
投げる前の計算。
風向きと距離と、返ってきたときに自分がどこに立っているか。
地下水路での一手も、今日の花束も、同じ軌道の上にある。
そう考えると、少しだけ整理がつく。
「……次は、もう少し上手に投げたいものですの。」
小さな独り言は、宴の音に紛れて誰の耳にも届かない。
窓から吹き込む夜風だけが、裾を揺らして通り過ぎていった。




