被害者の同僚
小川は宮西署の沼田雅弘警部を訪ねた。案の定この事件の捜査を指揮していたのは沼田であった。沼田は小川のかつての指導役でもあった。
「おう、小川。元気で頑張ってるか」
「おかげさまで。ところでちょっとお話ししたいことがあって来ました」
「そうか、久しぶりに一緒に昼メシでもどうだ。食いながら話しないか?」
「ええ、ぜひ」
沼田は小川を行きつけの大衆食堂に連れて行き、食事をしながら話を聞くことにした。小川はこの店の名物である小エビ天ぷら定食をつつきながら、事件の被疑者となっている栗田和子が子供を連れてやってきたこと、中学の同級生だったことなど洗いざらい話した。
「そうか。お前の話を聞く限り、その女が栗田和子で間違いなさそうだな。捜査情報と逐一合致している」
「沼田さんは栗田和子が犯人だと思いますか?」
「少なくとも物証は栗田和子の犯行を指し示している。まあ本人に会ってないから今は確かなことは言えないな。お前の印象はどうだ」
「もし栗田和子が犯人だとすると、夫を殺してから子供を預けて逃走というのが今ひとつピンときませんね。計画的であれば子供を先にどこかに預けてから犯行に及ぶでしょうし、衝動的に子供の目の前で犯行に及ぶとも考えにくい」
「そうだな。だが女の考えることなど俺にもお前にもわからないところだらけだがな」
「確かに。僕ももう少し女心がわかれば今頃結婚してるでしょうね。未だに彼女さえいないですよ」
小川が吐き捨てるように言うと、沼田がニヤリとして言った。
「あのシスターさんどうだ? なかなかうまくやってるみたいじゃないか」
「やめてくださいよ。変な気持ち起こしたら捜査に支障が出ますよ……そういえば、沼田さんがマリエッタさんの前で不埒な思いを抱いたのって意図的にやったんじゃないですか? 何か心を読まれてはいけない事情があってブロックしたのでは」
沼田は聞きながら新しいタバコに火をつけて言った。
「バカ言うな。考え過ぎだ」
「しかもその話を五十嵐にしている。マリエッタさんは分かってるみたいでしたよ」
「五十嵐か……残念だったな」
沼田はタバコの煙を深く吸い込み、話をはぐらかすかのように話題を変えた。
「ところで被害者の栗田憲彦は重沼化繊の社員だったんだ。研究者として働いていたらしい」
重沼化繊はテレビCMでもおなじみの有名企業だ。昨今医療分野への進出を目指して新しい工場と研究所を建てた。その計画が公になった時、様々な地方都市が誘致に乗り出した。その熾烈な競争に勝ったのが山岡県宮西市だった。大手企業重沼化繊の誘致により有職率と税収の上昇で町は潤い、他の地方都市の羨望の眼差しを集めることになった。
「一応仕事上の怨恨の線も洗うつもりで研究所に行ってみたんだが、上司の番匠という男がやけにバカ丁寧な応対でな。当たり障りのない会話で切り上げられてしまった。帰りも玄関先まで送ってくれたんだが、逆にもう来るなと追い返されたような気になったよ」
「沼田さんでも丸め込まれたわけですか……」
「小川、うまく機会作ってシスターさん連れて、番匠の本音を探り出して貰えないか」
「まあ何とかやってみますがね……」
1度事情聴取した人間は再度聞き込みすると警戒するし非協力的にもなりかねない。慎重に事を運ばねば。それにしても上司の態度がそのようであれば、会社全体も警察の聞き込みに対してウェルカムとは言えないだろう。
「今のところ番匠からはどんな情報が得られているんですか?」
「大した話は聞けていない。栗田憲彦は縫合糸の研究開発に勤しんでいて、とても優秀だったとか。口数は少なかったが、それなりに人付き合いもこなしていて、人間関係は悪くはなかったそうだ」
その時、沼田の携帯が鳴った。
「もしもし、沼田……おうそうか、わかった。あと少しで戻るから待っててもらってくれ」
「何かあったんですか?」
「おう、重沼化繊の人間が俺に話があるって署に来ているそうだ。お前も来るか?」
「そうですね、ご一緒します」
宮西署では重沼化繊の北田という男が待っていた。30前後、すなわち被害者や小川とだいたい同じ世代だ。
「お待たせしました。どうぞこちらに」
沼田はそう言って北田を取調室に案内した。小川は取調室の外でマジックミラー越しに様子を伺った。新人の女性警官が、最近新しくされて美味しくなったと評判の自販機のコーヒーを運んで来て北田に差し出した。
「重沼化繊の方というと、栗田さんの同僚というわけですか」
「はい。私は営業課長の北田と申します。栗田とは同期でした」
小川から見た北田の印象は、体育会系のたくましいリーダー格の人間という感じだった。多くの人に頼られやすいだろう。また小川と変わらない年代で一流企業の課長職についていることを考えれば、能力・人望ともに優れた人物と見てよいだろう。
「そうですか。それで今日はどのようなことをお話しして貰えるのですか」
「まず始めにお断りしておきたいのですが、栗田が研究開発に携わったのはライフスレッドαという、弊社の医療分野進出の要となる大切な商品です。これについて些細な情報でも漏れれば私共の死活問題にもなりますので、特に技術畑の人間はつい口が固くなりがちなのです」
「なるほど」
「ですから沼田さんが番匠の態度から捜査に非協力的な印象を受けたとすれば、このような事情があることをご理解いただければと思います。営業の私には社外秘となるような製品情報は知らされておりませんので、色々なことを包み隠さずお話しいたします」
「わかりました。では、栗田氏の職場での人間関係についておおよそのことをお話し下さい」
「概ね可もなく不可もなしと言ったところでしょうか。ただ研究のことになると同僚や上司と意見の相違でぶつかることも多々あったようです。特に上司の番匠は結果が見えているような実験をさせない傾向があったようで、そのことで栗田はよくこぼしていました」
「北田さんは、栗田氏のそういう話をよく聞かされていたんですか」
「はい。私は彼とは同期ということもあって、よく一緒に飲みに行って話を聞いてやりました。仕事だけでなく家庭やプライベートなことなども……」
「では、逃亡中の奥さんの話なども聞いていましたか?」
沼田が身を乗り出すように聞くと、北田は我が意を得たりというように答えた。
「ええ、奥さんの和子さんのこともよく聞いていました。どうやら和子さんはシュテンゲル症候群のようなのです」
「シュテンゲル症候群?」
沼田は顔をしかめて聞き返した。ミラーの奥の小川も全く聞いたことのない言葉だった。