事件の真相
勝小田署の取調室。
小川は佐々木秀美に任意同行を求め、ここに連れてきた。シスター・マリエッタも同伴していた。重苦しい空気の中、小川が話の口火を切った。
「単刀直入に申し上げます。お嬢さんの裕子ちゃんを殺したのは秀美さん、あなたですね」
「……」
秀美は黙って何も言わなかった。その視線は天上と壁の境目に向いていた。小川はかまわずに続けた。
「きのう、裕子ちゃんと仲の良かった遠藤照美ちゃんという子に会ってきました。照美ちゃんのことはご存知ですか?」
小川が聞くと秀美はうなずいた。小川は続けた。
「裕子ちゃんは照美ちゃんに話していたそうです。悪いことして言うこと聞かないとお母さんに冷たいお風呂に入れられると。なかなか謝らないと頭を水に沈められて、さすがに苦しくて謝って出してもらう……そのように言っていたそうです」
小川は秀美の顔色を伺ってみた。無表情を装っている。
「事件の日、理由はわからないが裕子ちゃんはあなたの言うことをきかなかった。それであなたはいつものように水風呂にお嬢さんを漬けて謝らせようとした。ところがその日、お嬢さんは降参する前に息絶えてしまった……違いますか?」
秀美はしばらく沈黙した後、重い口を開いて言った。
「虐待などしておりません。それは裕子が照美ちゃんに冗談で言ったか、照美ちゃんが勝手に想像して言ったのではありませんか? 憶測ではなく証拠を見せてください」
すると小川は一枚の資料を出した。
「これは水道局で調べてもらった、佐々木家の過去2年間の月毎の水道水の使用量を表にしたものです。ご覧下さい」
小川は表の一箇所を指して言った。「今月の佐々木家の水道使用量は18立方メートルです。ところが事件より前の月は27立方メートルにもなっています。これはどう説明されますか?」
秀美は答えた。
「一人いなくなれば水の使用量が減るのは当たり前です」
「たしかにそうですが、水道局の調査では3人世帯の平均的な使用量は月21立方メートルだそうです。」
「家庭によってお水の使う量は違って当然ではないですか。うちは他所の家よりも多く使ってたんですよ」
秀美がそう言うと、小川はため息をついて言った。
「秀美さん、お宅では洗濯に風呂の残り湯を使っていると以前おっしゃいましたね。本当にそれほど水の節約に気を遣っておられるならば、平均より下回るはずです。しかし現実は異様に上回っている」
「……」
「水道局の専門家に聞いたところ、6立方メートルという量はバスタブに30日間毎日水を張った量に相当するそうです。秀美さん、あなたはいざと言う時娘に言うことを聞かせるために毎日バスタブに水を張っていた。風呂の残り湯を使わなかったのは衛生面を気にしてのことでしょう。完璧主義のあなたは虐待してはいたが雑菌でお嬢さんが病気になることは避けたかった。違いますか?」
秀美の顏が蒼白になった。
小川がさらにたたみ掛けようとしたところでマリエッタが目でストップをかけた。そしてマリエッタが秀美に話しかけた。
「秀美さん。何があったかお話しいただけますね?」
秀美は静かに頷いた。
「私はこの地域ではそれなりに名の知れたスピーチライターでした。仕事が順調だった頃、突然体調に異変が起きたんです」
もしかして……と思い、薬局で妊娠検査薬を買って試してみた。結果は陽性だった。
そのことを当時付き合っていた今の夫である幸次郎に話した。幸次郎は医師として中絶は勧められないと言い、急遽結婚することにした。秀美は結局スピーチライターの仕事も手放し、この妊娠で全てを失ったという意識が後々まで拭えなかった。
裕子が生まれたとき、最初は可愛いと思った。良い母親になろうという決意もあった。しかし急に母親となった秀美にとって子育ては想像を遥かに超えて大変なことだった。しかも夫は出産準備から育児に至るまで無関心で非協力的だった。育児で大変だったことを話すと煩がって聞こうとしなかった。さらに姑との不仲もストレスに拍車をかけた。
秀美のストレスのはけ口は娘に向けられた。裕子は幼少の頃から水をとても怖がった。それで裕子が5歳になったある日、どうしても言うことを聞かなかったので、水風呂に沈めて脅してみた。すると途端に言うことを聞くようになった。これに味をしめた秀美は裕子が言うことを聞かない時は水風呂に沈めるようになった。
そして事件の日。最近秀美は裕子の姿勢の悪いのが気になっていた。職業柄、姿勢を正すということが健康的にも人間関係の上でもいかに大切か日頃から肝に銘じていたのである。それで娘にも度々注意していたのだがなかなか聞かない。この日秀美はとうとう堪忍袋の緒が切れて嫌がる娘をむりやり水風呂に沈めた。裕子も成長して意地を張るようになり、なかなか降参しなかった。秀美も意地になって許そうとしなかった。ところがやがて裕子は動かなくなった。息絶えたのだとすぐにわかった。
娘が死んだというのに、不思議と悲しみの感情が湧いてこなかった。自分で殺したというのもあるが、この子のせいで自分の人生が台無しになったという意識がどこかにあった。
秀美が娘を殺した濡れ衣を下坂に着せようと思いつくまで、さほど時間はかからなかった。秀美は下坂がスーパーで買い物しているのを最近見かけていたのである。その時の格好……黒のニット帽、グレーのパーカー、紺のジーンズ、それらをよく覚えていた。
下坂は秀美のことを知らないが、学校の父兄の間で下坂のことを知らぬ者はいなかった。秀美もその悪名高い教師の顔をよく覚えていた。
「私は警察に話を聞かれた時、下坂の特徴をそのまま述べて、そういう男が家から出て行くのを見たと嘘の証言をしました。刑事さん、あなたの言う通りです。私が娘を殺しました」
この自白を受け、警察は佐々木秀美を殺人罪で逮捕した。
秀美が取調室から連れて行かれる時、マリエッタは背後から十字を切って彼女に言った。
「……神のご加護を」