42、平面葡萄(1)
埠頭から離れようとしたとき、僕とセイクの足が同時に止まった。
反吐が出るような、おぞましい殺気を感じ、無意識に〈腕〉を展開する。セイクも素早く剣を鞘から抜いた。
彼は忌々しげに舌打ちをする。
「ようやくお前を連れ戻したらこれかよ」
僕たちの視線の先、茶色いローブを着た男が立っていた。揺らめく水面のように、身体を左右に揺り動かしている。つやのない、長い蓬髪。どこを見ているのかわからない目。腕に刻まれた魔法陣と、両手にあるナイフ。
意図せず、フーラァタ、と声に出していた。
「あア、やっぱ、そうだ」フーラァタの視線はセイクへと向いている。「どっかで見たことあるな、お前」
「大方、どっかの戦争か、お前の起こした事件だろうよ」
セイクがおざなりにそう返すとフーラァタはどうでも良さそうに笑った。ケヒッ、とどこから漏れたのかわからない笑声が、むず痒さにも似た恐れを煽る。
「まア、どうでもいいよな、そんなこと。……なア、そのガキ、よこせよ」
「そんなにガキが欲しかったら孤児院にでも行けよ」
制止する暇もなかった。僕が声を上げる前に、セイクはフーラァタの目の前まで到達している。振り下ろされた直剣が空を切り、地面にぶつかって甲高い音を立てた。
空振りだ。
フーラァタはセイクの背後へと移動している。ナイフを突き立てようと腕を振り上げ――それを読んでいたのか、セイクの足がフーラァタの腕を蹴り飛ばした。
一瞬の攻防に身が竦む。
僕程度の力では割り込めそうにもなかった。
「アー……痛えなア」
フーラァタは蹴られた手首をぶらぶらと揺すり、苛立たしげに口元を歪める。ばぢっ、と電気が迸る。彼の肘のあたりから発せられた電気がナイフの切っ先で、何度も弾けた。
肉の、焦げる臭い。
それを嗅いだだけで足から力が抜けそうになった。
狂人だ。
自分の魔法で腕を焼いているというのに、フーラァタの表情には微塵の変化もなかった。目を凝らすと、腕はケロイド状になった皮膚で覆われている。
「セイク!」
「それ以上、近づくなよ、ニール坊。なんか知らねえけど、お前、こいつに狙われてんだろ。お前を攻撃されたら面倒だ」
でも、と僕は声を上げる。
セイクは魔法を使えない。敵は魔装兵だ。ましてや、雷を操る魔法を持っている。金属である剣では圧倒的に不利に思えた。
いかにセイクがこれまで戦場で活躍していたとしても、この状況はまずい。助けを呼ぶか、と考えて、やめる。僕が逃げたら、フーラァタは迷わず僕を追ってくるだろう。奴の素早さは以前見たとおりだ。セイクもひけを取らないはずだが、どちらに軍配が上がるか、僕にはわからない。危険な賭けをする気にはなれなかった。
それに――もし、僕が逃げおおせたとしてもセイクが負けてしまったらどうなる?
彼が死んでしまったら……そもそも、彼は僕のせいでここに来た。僕が殺したようなものではないか。
付き合いは短いが、セイクは僕を追ってきてくれた。
死なせるわけにはいかない。
ジオールと比べたら、僕の力はちっぽけだ。サイコキネシスしか扱えない僕が加勢したところで、どれだけの意味があるかわからない。
……けれど。
「セイク、僕も戦う」
〇
セイクは鼻で笑い、僕の方へ一瞥もくれずに「ああ、そうかい」と言った。彼も危機感を覚えているのかもしれない。僕を背後にしたままだと戦いづらいのだろう、表情にわずかな安堵が過ぎった。
「無理するなよ。こいつ相手じゃ助けてやれねえからな」
「大丈夫、援護するだけだから」
実際の戦闘において、僕ができることはあまりに少ない。相手が足を止めている魔術師ならまだしも、接近しての高速戦闘だ。まともにサイコキネシスを当てるのは難しい。
だが、そんなことを言っていられる場合ではなかった。
できることを、やるだけだ。
直線的に僕に向かってくるのなら、弾き飛ばせばいい。そうせずに、セイクの相手をしているなら、動きの止まった瞬間に足をすくう。セイクが確実に相手を仕留められるように、僕は動かなければならない。
セイクの後方四メートルほどの位置に立ち、構える。ぎらついたフーラァタの視線が品定めをするように僕とセイクの間を何度も往復した。
「どっちから殺そうかなア」
だらりと垂れ下がったフーラァタの両腕が揺れる。波の音に合わせ、右に、左に、そのたびに、ナイフの上で陽光の反射がちらついた。
セイクは片手剣を上段に構えている。僕はじりじりと近づく。少しだけ射程の伸びた〈腕〉。七メートルまで近づくことが出来れば機先を制することができるかもしれない。
感覚を研ぎ澄ませる。僕の反応速度よりも、彼らの動きはずっと素早い。動きだしを見逃さぬよう、目を見開き、耳を澄ませた。天から注ぐ光、揺れるナイフの鋭利さ、タイミングを見計らうように動くセイクの膝。波の音、遠くから聞こえる船乗りの声、息づかい。
筋肉の軋む音まで聞こえそうなほどに緊張感が高まり、飽和したとき、セイクの足下で、砂利が擦れた。
一瞬にして、セイクとフーラァタの間にあった距離が潰れた。同時に接近した二人――先に攻撃を放ったのはフーラァタだった。垂れ下がった右腕が斜め上に振り上げられる。風切り音。辛うじて見えたのはその動作の開始と終結だけだ。
だが、セイクにとっては別であるようだった。
彼は半身になり、こともなげに、フーラァタの一撃を躱す。
いつの間にか左手に持ち替えられたセイクの剣が横薙ぎに振るわれる。これも、僕には肉眼で確認することができなかった。
振り終わったことだけを認識する。振り終わった――当たっていない。地面に這うようにして避けたフーラァタはそのままセイクの足を払おうとした。直撃する――その予感に〈腕〉を伸ばした瞬間、セイクの身体が跳ね上がった。フーラァタの蹴りが空を切る。
がら空きだ、セイクが勢いそのまま剣を振り下ろす。だが、その攻撃もフーラァタは身を捩り、避けた。弓なりになったフーラァタの身体を追って、セイクは一歩踏み出し、そして、止まった。バネ仕掛けの器具のように、不安定な体勢から、逆手に握られたナイフが直線的にセイクへと迫っていた。
当たる。
噴き出す血飛沫が脳裏に浮かび、咄嗟に〈腕〉でセイクの身体を掴んだ。握りつぶしてはならない――できる限りの速度と慎重さを意識して、僕は彼の身体を引いた。宙に浮いたまま、セイクの身体が後ろにずれる。進むナイフがセイクの手前で弧を描く。
宙を引き摺られたセイクは勢い余って僕にぶつかった。
フーラァタが不満そうな、驚きを一滴だけ滲ませた表情でこちらを見やっている。
「余計なことするなって。躱せたっつうの」
「セイク」
「なんだよ」
「僕のことは気にしなくていい。そんな余裕ないだろ」
僕の目からもそれは明らかだった。盗賊や以前の襲撃で見せた戦地を縦横無尽に駆ける大胆さがない。できる限り、僕を背後にしたまま戦おうとしている。
「こっちに来ても、たぶん僕の方が速いからさ」幽界の腕には質量がない分、肉体よりもずっと素早い。「最悪、風邪を覚悟で海に飛び込むから、気にせず戦ってよ」
「気になんかしてねえよ。今だって俺の剣の方が先に当たってたのをお前が邪魔したんだ」
「強がりでしょ、どうせ。余裕なさそうに見えた」
「あいつがな。大体余裕なんて売るほど余ってるっつうの」
軽口は叩いていたが、セイクは一向にこちらに顔を向けていない。その姿だけでセイクとフーラァタの実力は伯仲していることを悟った。
「つうか、お前の〈腕〉、痛えよ。あばらが軋んだ。もっと優しく扱えねえのか」
僕はその問いには答えない。フーラァタが構え直している。無駄口に付き合う余裕は一切なかった。
「しかし、ここに来たのが俺でよかったな。ヤクバとレクシナだったらお前、危なかったぞ。あいつらだったらフーラァタの奴、今頃、雷撃ち放題だ」
よく会話を続行できるものだ。素直に感心すると同時にセイクが重心を前へと傾けた。
「――さて」
次こそ、決定機を作り出さなければならない。今の攻防で、僕が守られるだけの人間ではない、とフーラァタも気付いたはずだ。少しでも奴の意識をこちらに向けることができたなら――。
そう考えた瞬間、再び、フーラァタの腕に電気が走った。ばちばちと弾け、その余波をくらったローブの毛羽が微かに燃えた。
「ありゃ、あいつ、式を書き加えてやがる」
「……どういうこと?」
「昔より強くなったってことだよ。お前に雷を飛ばすような余裕を与えるつもりはさらさらねえけど――用心しろよ。ここからが本番だ」
〇
気にするな、と忠告したにもかかわらず、セイクの意識の半分はこちらに向いていた。ただ、幸運だったのはフーラァタも僕の動向を気にかけていたことだった。得体の知れない力、それがある程度の懸念を抱かざるを得なかったのだろう。セイクに背を向ける余裕もなかったからなのかもしれない、精細を欠くとはいかないまでも、フーラァタは標的を僕に変えようとはしなかった。
僕はいつでも〈腕〉をたたき込めるように、構えていた。が、その好機はいつまで経っても訪れなかった。僕の力を警戒しているのか、フーラァタは先ほどよりも動きを大きくしている。それを追ってセイクも動く。めまぐるしく入れ替わる位置関係に〈腕〉を伸ばす踏ん切りがつかなかった。
こうも息をつかせぬ攻防が繰り広げられていたら僕の力がセイクの邪魔をすることもあり得る。当たるはずの剣が当たらぬ、ということになったら目も当てられない。
それに――フーラァタの身体感覚は僕の目から見ても圧倒的だった。変則的な動き、反撃を予想だにしない体勢からいとも簡単に攻撃を放つ。たとえ体勢を崩させたとしてもそれがどれだけの効果を持つか、わからなかった。
だが、気を抜くわけにはいかない。僕はじっと好機を見計らい、〈腕〉を構え続ける。
両者ともに、直撃はなかった。セイクの剣が、黒ずみ、ひび割れたフーラァタの腕をかすめる。フーラァタのナイフから迸る電気にセイクの動きが微かに硬直する。その程度だ。拮抗は崩れない。
もう何時間も戦っているような気がした。けれど実際に剣戟を繰り広げていたのは一分にも満たないだろう。遠くに見える船乗りたちは僕たちが戦っていることに気付いてさえいない。
その瞬間、脳髄に衝撃が走った。
船乗り――僕は何を見ている?
どうして彼らの戦いから目を切った?
眼球が焦りに突き動かされる。砂の音、一際強い、放電。その虚を突かれたのか、それともそれまでとはまったく違う動きに反応しきれなかったのか――。
僕の視界が彼らの姿を目に収めた瞬間、二人の間に距離が生まれていた。
フーラァタが僕の方へと直進してきている。
まずい。
セイクの後方まで伸ばしていた〈腕〉を引っ込める。
物理的質量を持たない〈腕〉は猛烈なスピードで前進するフーラァタの身体を追い抜き、僕の前で踊った。
叩き潰してやる――。僕はフーラァタめがけ、構えた右腕を思い切り振り下ろした。エネルギー体は音も立てずに地面へと衝突する。衝撃波が足元を揺らす。
だが、フーラァタの身体は僕が〈腕〉を振り下ろした地点の一歩手前で止まっていた。
なぜ――と考えた瞬間、気がつく。〈腕〉が不可視であろうと関係ない。攻撃のタイミングは僕自身の腕と連動してしまっている。
「セイク、来るな!」
その言葉のどこまで、僕は発音できただろうか。目の前で繰り広げられる光景がスローモーションになる。
突如として標的を変えたフーラァタを追って、セイクもこちらへ飛び出してきていた。剣を振りかぶっている。僕を襲おうとしているフーラァタが隙だらけにも見えるのかもしれない。だが、違う。罠だ。あいつは、不用意な攻撃を誘っている。
裂帛の気合とともに放たれたセイクの一撃はむなしく空を切った。
フーラァタの身体が左にずれている。地面を這うように姿勢を低くしたやつの身体が反転し、ナイフに電撃が迸る。手を伸ばせば届く距離。
ナイフが容易に突き刺さる距離。
周囲から音が消える。音のない警鐘が頭の中で鳴り響いている。
フーラァタの腕が動く、セイクが身をよじる、間に合わない。
ナイフが迫る、〈腕〉を伸ばす、間に合わない。
無音の空間の中で、鋭い金属が皮を破る音が、肉を切り裂く濁った音が、鼓膜を揺らした。




