41、ニール・オブライエン(3)
五日間の滞在予定が一日、二日、と伸びた。その程度の遅れは大したものではないらしいけれど、僕の心は乱れた。
滞在が延びた原因はジオールの出現でもあったし、そうでないとも言えた。もちろんジオールの我が儘な振る舞いが僕たちの予定を狂わせたのは事実ではあるのだけれど、もっと根本的な原因があったのだ。
雪だ。
海沿いのメイトリンでは行動に支障が出るほどの雪が降ることはめったにない。問題は王都レカルタまでの道中だった。レカルタから来る商隊が例年にない大雪で立ち往生しているという情報が伝わってきて、カンパルツォが出発を遅らせていたのだ。
喜んだのは、言うまでもない、ジオールだった。彼はある程度魔法を習得するまでは行動を共にすると主張していた。移動し続ける馬車の上では魔法の練習もままならない。彼はこれ幸いとフェンやヤクバたちに教えを請い続けた。
……簡潔に言ってしまおう。
ジオールには魔力があった。
その事実が、とても悔しかった。
この世界を愛している僕にこの世界の象徴たる魔力がなく、何の思い入れもない彼がその力を有している。それが何よりも残酷なことのようにも思えた。
その日から僕はみんなと一緒に食事を摂らなくなった。ジオールは寝るとき以外、魔法を使える僕の仲間にくっついていたからだ。彼の口から出てくる内容は魔法のことばかりで、それに答えるたびに、みんなは僕を一瞥し、申し訳なさそうにした。気を使われるたびに、身勝手な苛立ちと煩悶が僕を襲った。
だから、ジオールが行っている魔法の訓練の内容を、僕は知らない。知っているのは、彼が魔法でも希有な才能を持っているということだけだった。普通の人が覚えるまでにひと月かかる基本的な技術を、彼は一度教えられただけでものにした。その日のうちに指先に小さな火を灯せるようになったらしい。彼が嬉しそうに報告をしてくるたびに、醜い感情が喉元までせり上がった。
僕が誰かと行動しているのは、ウェンビアノに言いつけられた語学学習をしているときだけだ。何も知らない教師はいつもと同じように感嘆し、アシュタヤだけではなく、ベルメイアでさえも僕を「すごい」と褒めるようになった。
すごい?
一体何がすごいんだ? これは僕が努力や才能で掴んだ力ではない。ジオールにも同様に、翻訳装置がつけられている。僕の世界の人間であれば、誰であろうと同じことができる。
「初めから、ジオールが来ればよかったのにね」
そう言われるのを恐れ、僕は自分からその忌々しい言葉を口にした。その瞬間、アシュタヤはひどく寂しそうな顔をした。
「ニール」
「ごめん、違うんだ。わかってる、わかってるよ」
アシュタヤにそんな顔をさせたのが申し訳なくて、僕は足早に彼女の元を去る。彼女もしばらく後を追ってきていたが、彼女の足の速さでは僕に追いつくことはできなかった。
〇
海のざわめきが夜の街を飲み込むように響いている。食事は摂らなかった。何を食べても吐き出してしまいそうな恐怖感があったからだ。
空腹すら感じず、僕は埠頭から街灯りに反射する波の煌めきをじっと眺め続けている。
ジオールはこれを狙っていたのかもしれない、と荒唐無稽な疑いを抱いた。そんなはずはない、と頭を振る。彼の研究に対する態度は本物だ。彼の頭の中にあるのは純粋に未知を探求する好奇心だけに違いない。だが、油断すれば、僕をこの世界から遠ざけようと画策しているのではないか、という疑念が揺らいだ。
遠くから聞こえる喧噪に耳を澄ませる。様々な言葉が入り交じるこの街の声が次第に意味を取れるようになってきている。
近くの酒場から聞こえる声は微かな寸断すらない。エニツィア以外で使われている言語を用いて会話をする男たちの言葉が一片だけ聞こえた。
「神のご加護がありますように」
神――ああ、神様は僕を愛してくださらなかった。超能力だけではない、神は僕に魔法の力すら与えなかった。天にいる神は加護を与える人間をどのように判別しているのだろう。遺伝子か? 僕の遺伝子はジオールによって使われている。回数券のように加護が発行されるとは思えなかったけれど、それが正解なのかもしれない。一回こっきりの加護はジオールに与えられた、それで、終わり。
僕の頭の中にあったのは早く出発したいという思い、それだけだった。考える暇もなく、戦いに身を投じ、すべてを忘れたい。
それが、不幸を願う態度であることに気がつき、自嘲する。ギルデンスの姿が思い浮かぶ。彼の言うとおりなのかもしれない。戦いを求め、そこに身を置くことこそが僕の幸せになってしまうのではないか。そう考えると背筋に震えが走った。
結局、僕はその日、宿には帰らなかった。次第に喧噪が薄まっていき、夜が白々と明け始め、雪化粧された背後の山際から日の出の光が注がれていく。黒々としていた海は徐々に青へと変わっていくが、僕の気持ちはまだ闇の波に飲み込まれたままだ。昨日もレカルタから来る商隊が到着しなかったため、今日もまだこの街に留まるだろう。
人々の声が消え、時間が経つと再び、騒がしくなっていく。酒気に塗れた喧噪ではない。仕事をする海の男たちの声だ。今日も一日が始まった。
語学など今さら学ぶ気にもなれず、僕は座り込んだまま海を見つめ続ける。知らない言語と商品が飛び交う埠頭の片隅で、膝を抱えたまま、顔を埋めた。
〇
「よお」と声をかけられた。いつもの不遜な声色に顔を上げる。
視線の先にいたのはセイクだった。彼は手に持った酒瓶を呷り、僕の隣に腰を下ろす。どこかへ行ってくれ、というのも煩わしく、僕は言葉を発することなく、空を見上げた。寝ていたつもりはなかったが、いつの間にか太陽が中天にさしかかろうとしている。
「アシュタヤちゃんが探してたぜ」
「……うん」
「ついでに言うとベルメイアちゃんもだし、ヤクバとレクシナもだ。あいつらは馬鹿だから酒場にいると思い込んでやがるけどな」
セイクは膝を叩きながら笑う。いつもだったら笑えるはずの彼らの行動も、別段面白くは感じなかった。
「まあ、その点、俺は頭がいいよな。お前の居場所当てるしよ」
「……何しに来たの?」
「酒を飲みに」
そう言って彼はもう一度、酒を口に含み、勢いよく飲み込んだ。
「お前の考えてることなんてお見通しだよ。あのジオールとかいうやつにアシュタヤちゃんを取られるんじゃねえか、って心配なんだろ」
見当外れの言葉に苛立ちが湧きあがった。睨んでいたのか、セイクは顔を逸らし、「冗談だよ」と返して、大きく息を吐いた。
「海はいいよなあ、さみいけど。そら一晩中拝んでも飽きねえや」
僕を見つけたならさっさと帰って伝えればいいのに、彼は一向に立ち上がろうとしなかった。黙ったまま、足を投げ出し、冬の海を眺めている。
快晴だ。雲一つない空は冬らしくない青さで佇んでいる。この具合では立ち往生している商隊も動きが取れるようになっているだろう。もしかしたら、明日にはメイトリンを立つかもしれない。
この状態で?
僕は唇を噛みしめる。セイクの視線を感じたが、どうでも良かった。
ジオールはどうするのだろうか。たった数日で魔法を極めるなんて不可能だ。もしかしたら、僕たちの旅に同行してくるかもしれない。そう思うと、心が乾燥し、ひび割れた。
呻き声を、堪える。
僕たちの? 僕はカンパルツォたちと同行すべきなのだろうか。足手まといになり、誰かを危険に晒すのだけは避けたかった。ただでさえ、僕はあのフーラァタとかいう狂人に狙われている。僕がいない方がよっぽど安全のようにも思える。
それに、ジオールがいるならば僕が同行する意味なんてないに等しい。
僕が期待されていたのはサイコキネシスによる奇襲だ。ジオールならば僕よりもよっぽどうまくやるだろう。彼には「魔法を教わる」という名分もある。みんなを守る理由があるならば、彼はそうするはずだ。
どうするべきなのだろう、答えは見えない。
たとえ、同行を拒否したとしても、ジオールは無理矢理にでも僕を連れて行くはずだ。そうでなかったとしたら、それを理由に滞在を延ばすように言ってくるだろう。だが、カンパルツォをこれ以上この街に留まらせるわけにはいかない。余裕を持った日程ではあるが、無為に時を過ごしてもよいわけではなかった。
結局僕が取るべき行動は一つしかないのだ。何もなかったふりをして、以前と同じように笑い、輪の中に加わる。
けど、それが今の僕にできるか?
これだけの騒ぎを起こしてなお、前のように振る舞えるか?
自信など、欠片もなかった。
「あのジオールって奴ぁ、すげえな。その気があれば国のいいところにも推挙されるぜ」
手持ち無沙汰だったのか、セイクがぼんやりとそう呟いた。僕は恨みがましく彼を見るが、彼はばつの悪さなど感じていないようだった。
「まあ、それよりすごいのはお前だけどな。小春日和とは言え、この寒い中に一晩中いたんだろ。そろそろ帰らねえか」
胸が、つまる。奥歯を噛みしめる。アシュタヤたちが僕を探してくれているのは承知していたが、今、帰っても、仲間との間に避けがたい断絶が生まれているように思えてならなかった。
断るための言葉を探し、口を開きかけたとき、セイクは短く、「お前さ」と言った。いつもと同じ軽薄な表情ではあったが、茶化そうとしている様子ではなかった。
「お前さ、何が嫌なの?」
言葉を発するために口を開いていたため、思わず反応してしまう。「何、って当たり前じゃないか」
「いや、俺はお前じゃねえから。言われねえとわかんねえよ」
「……僕がいなくても」
その後に続けたら、それが真実味を帯びる気がして、僕はぐっと飲み込む。代わりに、むりやり笑みを作って、別の言葉を選んだ。
「僕はニール……ジオールみたいになりたかったんだ。何を言われても揺るがなくて、超能力が上手で、その上、魔法も使える。そうだったら、どんなによかったか」
「ああ、そりゃいいな。それなら昨日、酒を抑えずに済んだ」
「でも、僕はジオールみたいにはなれない」
「不公平だよなー」
「僕も、神様に祝福されたかった」
「でも、超能力はあるんだろ? 随分マシじゃねえか」
「マシ、なんて、口が裂けても言えないよ。こんなちっぽけな力」
「いやあ、俺みたいに超能力とやらもない、魔法も使えないやつよりマシだろ」
「え」
僕はセイクを見つめる。
魔法を使えない? セイクが?
「だって――」
「俺が一度でもお前の前で魔法を使ったことがあったか?」
「それは」
思い返す。デギ・グーの時から始まり、先日あった盗賊の襲撃、フーラァタたちとの攻防――、確かに彼が魔法を使ったことは一度もなかった。そういえば収穫祭の魔法劇でも彼は出てきていなかった。
「でも、セイクは言ったじゃないか、伯爵に才能を認められたって」
「魔法なんて言ってねえだろ。俺が惚れ込まれたのは剣と身体だけだっつうの」
「軍の話は」
「ヤクバとレクシナは魔装兵で褒め称えられてたけど、俺はただの一般兵だよ。だから逃げ出したんだけどな」
不公平だよなー、とセイクは繰り返す。たかだか魔法が使えるだけで贅沢してたんだぜ、あいつら、と。そのあっけらかんとした物言いに、ちくりと胸が痛んだ。
「……セイクは」僕の声は沈む。「悔しくなかったの」
「そりゃ、悔しいに決まってるだろ。俺だってちやほやされたかった」
「そうじゃなくて」
僕は初めて彼らに会った日のことを思い出す。魔法が使えないセイクの前で、ヤクバは「神の祝福を受けたか」と堂々と訊ねてきた。馬鹿にされていると受け取っても不思議ではない。
「ああ、ヤクバのこと、言ってんのか。あれは自虐だよ」
「自虐? 『神の祝福』を受けたことが?」
わけがわからず、僕は無言で説明を求める。しばらくセイクは黙っていたが、あたりをちらりと確かめて、「俺が言ったっていうなよ」と前置きをして、話し始めた。
「ヤクバはな、海の向こうの遠い国で生まれたんだとよ。全員が一つの同じ神様を崇めてる国らしい。だから、あいつは神神うるせえんだ」
宗教は様々な形態を持っている。この世界に一神教の国があったとしても不思議ではない。
「あいつは、奴隷だったんだと」
「……奴隷?」
「そう、そこの国は人間に順番をつけてんだ。こいつは奴隷、こいつは偉い奴、ってなもんだ。生まれついてこき使われる奴と使う奴が決められている。偉いのは魔力が強いやつだ」
「え、でも」
「まあ、そうだな。あいつは魔法が使えた。っつうより、魔力を持っていた。人よりもでかい魔力だ。でも、家系は奴隷だ。そうなるとどうなると思う?」
どう、って。僕は頭の中に浮かんだ暗澹たる光景に唾を飲む。魔法を使える奴隷など、反乱の種だ。殺し、秩序を保とうとするのが自然に思えた。
「処刑、されそうになって、ヤクバは逃げ出したの?」
「お前、ひどいこと考えるな」
「茶化さないでよ」
「不正解だ。そこの神様は器が大きくてな、奴隷じゃなくなるんだとよ」
「なんだ、びっくりした」
「でも、親は別だ」
セイクの声色が不意に冷えた。冬の風よりも冷たい声に、背筋が震える。
「奴隷から人に上がったガキは儀式を行わせられる。ヤクバは四つとか言ってたかな……ガキもガキだ」
「セイク、儀式って」
「親殺しだよ」
無意識に、口がその言葉を反復する。親殺し。四才の子どもが、己に愛情を注いでいた親をその手で殺す。その光景が脳裏に浮かぶと心がざらついて、胃の底に鉛を流し込まれたかのように身体が重くなった。
「神に祝福されたはずの人の子が奴隷になったのは、こいつらのせいだ、ってな感じで、何よりも重罪なんだとよ。普通なら魔力を持ったガキは親から離されて育てられるらしいけど、ヤクバは魔力が目覚めるのが遅かったらしくてな、しっかり親の乳を吸って育ってた」
「それで、ヤクバは」
「殺せなかったみてえだな。前日の夜にこっちに来る船に忍び込んで、人買いに売られたり、すったもんだを経て、俺の村にやって来た。魔法が使えるほどの魔力を持たない俺を見てあいつは片言でおめでとう、つってたよ」
「でも、じゃあ、なんでヤクバは事あるごとに神を出してくるの? そんなことがあったら神を恨んでもよさそうだけど……」
「あいつは頭が悪いわけじゃないからな、悪いのは神サマじゃなくて、人だって気付いたんだとさ。勝手に順番をつけてるのは人なんだってよ」
そこでセイクは言葉を切り、照れくさそうに頭を掻き、海の方を見ながら言った。
「だから、あー、なんつうの、俺たちは魔法とか超能力で、順番をつけねえんだよ」
「――え」
「俺たちにとっちゃ、酒を飲める方がよっぽど重要だ」
中天まで昇った太陽から光が降り注ぎ、波を煌めかせる。反射した光が、顔に柔らかく当たった。僕は唇を噛みしめて、目を瞑る。陽光を孕んだ柔らかな風が頬を撫でていった。
「……セイクはなかなか慰めるのがうまいね」
「うるせえな、ぶっ飛ばすぞ」
「大体、ジオールも酒を飲めるかもしれないじゃないか」
「あいつ、何度誘っても飲まねえんだよ。つまんねえやつだ」
「飲めてたらどうするつもりだったんだよ」
「決まってるだろ、お前のことなんか忘れて、新ニールようこそだよ」
嘘を含んだ物言いに、僕は笑う。
でも、そうはならなかったのだ。魔獣を狩りに行ったあの日、酒を飲んで良かったと、しみじみ思う。たったそれだけのことで僕の価値が保障された気がした。
セイクが立ち上がり、大きく伸びをする。
「さて、もう昼だな、メシでも食いに行くか」
「うん」と頷く。「お腹、減ったね」
「奢れよ、ニール坊」




