110、Delay〈レカルタ市街戦1〉
レカルタの防壁、南門の周囲には馬車や牛車、果ては大荷物を背負った男たちまでいて、僕たちの進行は大いに滞った。
新年を迎えるとともに催される建国祭が迫ってきていることもあって、商人たちが方々の品々を持ち寄ってきているのだ。門には長蛇の列ができており、歩みは蝸牛のようにのろのろとしたものになっていた。並んでいる人々の顔には遠目からでも飽きと疲れが見て取れて、耳を澄ませると折り重なった不満が聞こえてくるような気さえした。
僕たちはその列に加わる必要はない。レカルタに居住している貴族や一部の軍人に対しては特殊な許可証が発行されているからだ。門の前に常駐している衛兵の元まで行けばそのままレカルタへと入都することができる。
しかし、僕たちはそのあと数十メートルを進むことができないでいた。重苦しい沈黙に馬の歩みさえも鈍ってしまっている。
空気を硬直させているのは炎剣の宣告とフェンの変調だった。
オルウェダ家に雇われた傭兵たちが僕たちを襲撃するために待っている――それを嘘と断じられるほど楽天的にはなれず、御者台に座るマーロゥもおずおずと振り返ってきた。
「……どうする?」
「どうする、だなんて」マーロゥの隣に座るヨムギは焦れったそうにしている。「入るしかないだろう、夜になれば門は閉まる。こっそり入れるなら別だが」
ちらりとこちらを覗いてきたヨムギに、アシュタヤが「……できなくはないけど」と答えた。不安で濁されたその先はあまりにも明白で、僕は思わず代弁してしまう。
「遅かれ早かれ、か」
迎え撃つなら今の方が合理的だ。こちらには戦えないベルメイアがいるが、人数は揃っているし、アシュタヤがいれば敵の位置も掴めるだろう。むしろ、今後、単独で行動しているときに襲われる方が愚の骨頂とも言える。
きっと誰もがその結論に帰着していて、しかし、そう決断できる者は誰もいなかった。
僕はフェンを盗み見る。こういうとき、決定するのはいつも彼だった。だが、道中からずっと俯いたままのフェンは顔も声も上げない。御者台から座席へと移ってきていたベルメイアが袖を小さく引いたが、彼の反応はなかった。
窘める言葉も慰める言葉も思い浮かばない。曇ったベルメイアの表情に、僕は曖昧に首肯するだけで精一杯だった。
「どうする」と再びマーロゥが口に出す。「こっちの門から入らずに他の門まで行くか? 相手が待ち伏せているのがこの門ならわざわざ飛び込む必要もねえだろ?」
彼の相談につられて全員の視線が僕の皮膚の表面を這った気がした。
どうにも落ち着かない。何か話さなければこの淀んだ雰囲気に飲み込まれるのではないかという危惧とも予感ともつかない思いが胸の内に沈殿する。一瞬の静寂に急かされ、僕は努めて冷静さを装い、返答した。
「敵の監視がなければ悪い案ではなさそうだけど……でも、屋敷に戻るには結局中央を通過しなきゃいけない」
「そこにいたら、どっちみち、か。……じゃあ、北部はどうだ? かなり迂回することになるけどよ、アシュタヤさんがいればあそこでも通れるんじゃないか?」
マーロゥの問いにアシュタヤは首を振る。
「いえ、北部の門の通行は事前の申請が必要です。即日で許可されるようなものでは……」
「面倒だな」ヨムギは苛立たしげに頭を掻きながら言った。「どうせ入らなきゃいけないんだ。考えても埒があかないだろう」
「でもよ」
そうマーロゥが反論しようとしたとき、深く、長い息が僕の正面で吐き出された。
フェンが顔を上げている。幾分か落ち着きを取り戻したようではあったが、そこには負の感情がこびりついており、僕の腹の底で小さな火が温度を上げた。
「……フェン」
「お前ら」と彼は明らかな作り笑いを浮かべる。「何を長々と言い合っているんだ。戦える人間が何人も集まって……入って、襲われたら、戦う、それが護衛だろう。ヨムギの言うとおり、早く入るぞ」
「フェンさん、でもよ」
マーロゥの声を遮り、フェンは続ける。「お前らが言いたいことは分かっている。だが、今は気にするな。屋敷にさえ辿り着ければ、休む時間が取れる。こんなの一時的な症状に過ぎない」
嘘だ。
立ち上がりそうになるのを何とか堪える。
たとえ一時の症状であったとしても、気にしないでいられるはずがあるだろうか。フェンは今、武器を持っていない。つまり、戦おうとしたとき、魔法に頼らざるを得なくなるということだ。
僕はエルヴィネを一瞥する。彼女は沈黙を保っていたが、その表情は雄弁に意見を物語っていた。
戦わせてはいけない。
唇を噛みしめたエルヴィネは僕をじっと見つめている。魔法陣を身体に刻むことによって生じる精神への侵蝕、その度合いと速度に影響するのが頻度なのか期間なのか、僕には知識がない。だが、彼女の無言の叫びはその疑問すら意味がないと僕に伝えた。
僕たちの憂慮に気付かないわけがないだろう。なのに、フェンは御者台のマーロゥを急かす。「いつまでも立ち止まっていても仕方がない」そう言って彼は己の右腕を強く握りしめた。
その光景に、僕の内側の火が、勢いと大きさを増す。
炎に炙られた声が喉から漏れた。
「――だめだ」
僕の声は戸惑いの空白の中で、弾けるように広がった。
肌にいくつもの視線が当たり、その中に一際強く、突き刺さるものを感じる。フェンだ。正面に座る彼は苛立ちを滲ませて、僕を睨んでいた。
「……ニール、今、何と言った?」
「だめだ、って言ったんだよ。フェンを戦わせるわけにはいかない」
「だから、気にするなと言っているだろう。何度も言わせるな」
「気にするよ」
「ニール!」
刺々しく発せられた声に怯える余裕すら、今の僕にはなかった。
「気にするよ! 誰がどう見たって今のフェンは普通じゃない! その状態で戦えるなんて言われたって、信用できるわけないじゃないか!」
隣に座るアシュタヤが僕の左腕に触れる。いつの間にか立ち上がっていたことに気がつき、僕は頭を掻きむしりながら腰を下ろした。感情が絡まったまま、硬化し、揺れている。理解されないことに発散しがたい憤りを覚え、抑えきれず、強く床板を踏んだ。
フェンは今、崖へと向かって歩を進めている。
戦いへと送り出すごとに、彼は、僕を救ってくれた尊い人間性を失っていくのだ。それを知ってしまった以上、今、このときが分岐点となってしまっている。
もし、指示に従い、戦うことを容認してしまったら、僕たちは今後彼を止める術を持てなくなるだろう。大丈夫、という彼の言葉を鵜呑みにし、ずるずると同じことを繰り返した先に待っているのが何かなど、分かりきっている――全身を噛み砕かれるような、恐ろしい後悔だ。
それだけは避けなければいけない。僕はフェンの目を凝視したまま、はっきりと宣言した。
「……フェン、ここは僕たちに任せてくれ。それでも戦うって言うなら、僕はフェンを殴り倒してでも止める。絶対に戦わせない」
「……ニール、自分が何を言っているのか、分かっているのか? お前は今、俺から誇りを奪おうとしてるんだぞ! ……俺は、俺たち土の民は守るべきものを守るのが誇りだ。同時に、それが今、護衛としての俺の役目だ。それを全うできないのなら――」
ああ、心が崩れそうだ。締めつけられているかのように胸が苦しい。
「――嘘だったの?」
声が震えているのが分かる。
フェンは僕の指摘が何に対するものか思い当たらないらしく不可解そうに顔を歪めていた。それが堪らなく悲しかった。かつて僕を雁字搦めにしていた罪悪感の茨を断ち切った彼の言葉を、彼自身は覚えていないのだ。
「……何の話だ」
冷たいほどの静かな声に、僕は目を伏せる。
「フェンが言ったんだ……あの日、バンザッタで! 僕に!」ああ、頼む、フェン、お願いだから。「……護衛でも守られたっていい、そう僕に教えてくれたのは嘘だったのかよ!」
その瞬間、彼の顔色が変わった。失敗への後悔でも、言葉を返されたことへの怒りでもない。真実を突きつけられたような目をしていた。
「あれ、は」と絞り出された声に、僕は続ける。
「……フェン、僕があのとき、立ち上がれたのはフェンのおかげなんだ。その言葉を否定されたら僕は立てなくなる」
「……なら、私も、です」アシュタヤは僕の手を握ったまま、加勢する。「あのとき、ニールが来てくれなかったら、私はきっとここにいませんでした。そうすると、ベルも、マーロゥさんも、ヨムギもエルヴィネさんも、一緒にはいなかったと思います。……フェンさん、どうか、ニールの、私たちのお願いを聞いてもらえませんか?」
「フェン」ともう一度、僕は呼びかける。「お願いだ」
ぎり、と奥歯を擦り合わせる音が聞こえた。フェンは硬く目を瞑り、そこに手を当て、自身が作り出した暗闇の中から空を見上げるようにした。窓の外、青く晴れた空に浮かぶ雲は千切れるような速度で動いている。
「……俺は、おかしかったか?」
フェンの呟きに、真っ先に反応したのはベルメイアだった。彼女は俯きながら、悲しそうに答える。
「おかしかったわよ……だって、フェン、昔はもっと穏やかだったもの……少なくとも今みたいに怒鳴ってなんかいなかった。……わたしに振り回されて困ったみたいに笑ってたフェンはどこへ行ってしまったの?」
「……そう、ですか」
彼は自嘲気味に笑い、小さく息を吐いた後、僕とマーロゥ、ヨムギへと視線を巡らせた。その目は僕たちを不安の底に陥れる虚ろさはなかった。
「先のことは置いておくが、今回はお前たちに任せよう……すまん」
〇
「そうと決まれば、作戦だな」
頼りにされている、と感じたのか、マーロゥの声はどこか弾んでいた。緊張から解放されたからかもしれない。馬車を完全に止めて、御者台から身を乗り出してきている。
だが、その気勢を削ぐように、フェンはぴしゃりと諫めた。
「マーロゥ、楽しげなところ悪いが、作戦は必要ない」
「え」マーロゥは虚を突かれたように、呆ける。「どういうことすか」
「やることは決まっている。排除が目的なら、正面から入って、撃退する、それだけだ」
「それって、つまり、相手に先手を許すってことですか」
「まさか」
そう言ったのはアシュタヤだ。彼女は初めから自分の仕事を覚悟していたようで、平然とした顔のまま、胸に手を当てた。
「相手を探し出すのは私の仕事です。市街戦で遅れを取るつもりなどありません。問題は身を隠すことですが……ヨムギ?」
「なんだ?」
「それは、あなたの仕事。ヨムギの魔法ならできるでしょ?」
「あ、ああ、でも、まだそんなに」
「大丈夫」アシュタヤは断言する。「できるって信じてる」
ヨムギはくすぐったそうに唇を結ぶ。信頼されることに慣れていないのか、彼女は恥ずかしそうに、顔をそっぽに向けた。
「フェンさんはどうします? できれば外で待っていただけたらありがたいんですが」
「そうしましょう。馬車の群れに潜り込んで、ゆっくり入ってきます」
「でも」と僕は疑問を呈す。「僕たちが来てること、伝わってるんでしょ? 外で襲われたらどうするの?」
「それはない」とアシュタヤとフェンが同時に答えた。アシュタヤに譲られたフェンが首肯する。
「外で襲われるなら船に乗っているときに、そうでなくても船着き場の周辺で襲われているはずだ。そっちの方が確実だからな。炎剣の行動は本当に予定外だったのだろう」
「なら、敵の目的はなんだ? わざわざ今、ここで、おれたちを襲う理由なんてあるのか?」
ヨムギの表情が、今度は疑問に歪んでいる。御者台から誰にともなく視線を彷徨かせていて、答えられそうもない僕も彼女と同じように、フェンとアシュタヤに答えを縋った。
しかし、返答したのは彼らではなく、エルヴィネだ。彼女は深い溜息とともに自分を指さして、言った。
「私がいるってことが伝わってるとか? ボーカンチの捕虜を抱き込もうとしてるのって結構、知られたらまずいでしょ? レカルタの中ならすぐに露見するし」
「かなり低いが、可能性はある。だから、エルヴィネも外でいた方がいいだろう。顔が広まっていなければ、だが」
「そこはたぶん大丈夫、解放軍のときは長いこと身を隠してたし、それ以降は狭い部屋の中だったから」
「わたしもフェンと一緒にいるわ」とベルメイアは居住まいを正しながら言った。「フェンが何かしないよう見張ってる」
僕は頷き、全員の顔を確認していった。やるべきことは決まった。
後は全力を尽くすだけだ。
「じゃあ、フェン、ベルメイアさま、エルヴィネさん。ゆっくり来てください。アシュタヤとヨムギは僕がしっかり敵から守ります」
「おいおい、ニール、俺は守ってくれねえのかよ」
肩を竦めて、半笑いでおどけるマーロゥに僕は噴き出す。
「守られたいの?」
「そうじゃねえけど、省かれたみたいで寂しいだろうが」
「なに言ってるのさ。きみまでそばで守られてたら誰が敵を倒すんだよ」
ああ、そうか、それが俺の仕事か、と再確認するみたいにマーロゥが呟き、僕は笑う。
……笑いながら、一つの懸念を抱いた。
この襲撃の目的に裏はないだろうか。
確かにエルヴィネという存在を匿い、王都へと迎え入れようとしていることが知られたら、国王やカンパルツォは何らかの追及を免れられないだろう。そのために、王都で僕たちを襲い、露見させる。筋は通っている。
だが、相手にはギルデンスがいるのだ。さらなる裏、あるいは、失敗してもなお悪影響を及ぼす計画が練られていてもおかしくはない。炎剣が僕たちの前に姿を現したのが本当に独断であったことを願い、僕は祈るように顔の前へと掲げた手袋から〈腕〉を引き抜く。




