96、「これほど愉快なことはない」〈バンザッタ防衛戦4〉
眼前で光が迸った。
ギルデンスの全身を抉る魔法陣が発光している。彼の皮膚、肉を循環する魔力は彼自身を取り囲むような水の壁を形成した。屈折した光がちらちらと周辺へと撒き散らされている。
戦いは始まっているのだ。
行かなければ。
若草色の〈腕〉は外界の空気の中で身震いするように踊り、意識するより早く、植物のように岩へと絡みついた。静かに持ち上がる岩から土がぱらぱらと落ちる。浮遊する盾を誇示するように、僕は「鳥の翼」の開口部から足を踏み出した。
前方から魔法が放たれる。困惑に揺れる炎はギルデンスの水壁に衝突すると、その中に潜り込むようにして消えた。何発か放たれた水弾のうち、一つが岩の盾に弾かれ、飛散する。僕とギルデンスが掲げた障害物は敵の魔法をものともしない。蒸発音と衝突音が折り重なり、炎の飛沫が水の破片とともに舞い落ちた。
一瞬の静寂が訪れる。ペルドール軍の狼狽を示す空白の後、僕とギルデンスへの攻撃はいっそう苛烈なものへと変貌した。正面から絶え間なく魔法が直進し、距離がなくなっていくと投石や矢など、物理的な攻撃が混ざり始める。
しかし、危惧していた横方向からの攻撃はなかった。
中央にいるのは僕とギルデンスの二人だけだ。壁の両端からはそれぞれ二十人前後の傭兵たちが飛び出している。僕たちを迎え撃っているのは正面にいる敵だけで、それ以外の攻撃はより接近している傭兵たちへと割かれていた。
「さて」さっさと先に行けばいいのに、ギルデンスはわざわざ歩調を合わせている。「お手並み拝見と行こうか」
「……お前は背中に気をつけろ」
敵軍の前線までおおよそ百メートルほどになったとき、僕たちはほとんど同時に地面を蹴った。〈腕〉で身体機能の補助ができないため、ギルデンスの方の速度が勝る。それでも、彼の前に展開されている水の壁にはいささかの揺らぎもなく、その様はギルデンスがエニツィア最強の魔装兵である証左とも言えた。
そして、雄叫びが、破裂した。
ペルドール軍の戦線から槍を構えた敵兵がギルデンスへと飛び出している。
水面を通して屈折する敵兵の像。彼は勢いそのまま槍を突き出した。その穂先が水壁へと触れた瞬間、彼の手から武器が消えた。
弾かれるように槍が舞い上がっている。
「え」
呆然とした声の端はすぐに泡と変じた。水壁に取り込まれた敵兵は内部に発生している激流に飲み込まれ、為す術もなく、翻弄される。脱出しようと手足を動かすその男に対してギルデンスは平然とした表情で金属の筒を向けた。虫を払うかのような、温度のない顔。
――照準が合わせられている。
かつて、風で小さな石を押し出していただけの「風銃」、今、そこに込められているのは小石などというちゃちなものではなかった。
筒が破裂しそうなほどに詰め込まれていた水が、針の先ほどの穴から放たれる。高圧の水流は壁の中でもがく敵兵の胸を、呆気なく貫いた。
ウォーターカッター――音速を超えた水の剣は鉄すらも切り裂く。敵兵の鎧の隙間からじわじわと赤が漂い始める。
慣れた、流れるような動作で人を殺すギルデンスの表情には逡巡など欠片も見当たらない。彼は水の壁を一度消し、二方向から迂回してくる敵を同時に撃ち殺した。殺人への喜悦も怯えもなく、淡々と作業をこなすその姿はフーラァタとは別種の、しかし、より強い恐怖を纏っていた。
「――よそ見とはずいぶん余裕があるな?」
ギルデンスの言葉と同時に、〈腕〉を通して衝撃が肩へと響いた。
我に返り、僕は勢いよく大岩を上へと持ち上げる。視界が開け、大岩を割ろうとしていた敵兵の姿が露わになる。
五人だ。金属の鎧に身を包んでいるペルドール軍の兵士たちが敵意を込めて剣を振り上げている。
僕の姿を確認した瞬間、彼らの顔にはそれぞれ別の感情が宿った。
中央にいた男は好機だと捉えたらしく自分と仲間を鼓舞するように上擦った声で叫んだ。不自然な動作に警戒してそれを止める者もいれば、独りでに浮遊する岩に恐怖して立ち竦む者もいる。右端にいた男が「囲め」と指示を出し、左端を走る男は僕の顔を見て目を見開いた。
「『化け物』レプリカだ!」
翻訳装置は言語の間にあるわずかな溝を素早く埋める。どうやら僕の顔も名前も、そして力も隣の国へと轟いているようだ。「近づくな」と左端の男が口にした。
逃がすわけがない。
僕は宙に上げた大岩を前進してくる中央の男目がけて振り下ろした。大岩によって緩和された鈍い感触が〈腕〉を痺れさせる。果実を潰したかのように赤い血飛沫が弾け、敵兵たちの身体に付着した。
悲鳴を上げられる前に岩を振り回す。十トン以上の質量を持つ大岩の前では鎧など意味がない。厚さ数ミリの板金は衝撃を一切和らげることなく、むしろ破裂音とともに彼らの皮膚に食い込み、突き破った。
左右に吹き飛ばされた男たちはぴくりとも動かない。
――この二年半で殺人への罪悪感は摩耗した。
戦場で、向かってくる敵に情けをかけるなど僕にはできない。この空間で生き残るためには敵はすべて蹴散らさなければいけない。運が良ければ死ななくて済むだろうし、運が悪ければ死ぬだろう。
その程度に考えなければ、足が止まる。
これが罪だというならば、後に飽きるほど裁きを受けよう。
僕は祈るような雄叫びを上げ、血液が滴る岩を敵陣へと放り投げる。〈腕〉を身に纏い、肉と血液の塊を飛び越える。悲鳴が飛び交う敵陣へと滑り込んだ。
〇
ギルデンスは敵将の『虎』に何と伝えたのだろう。
敵の狼狽を目にするとなんとなく予想がついた。
「エニツィア軍は『虎』を時代遅れの猪程度にしか捉えておりません。地を這うあなたの部下を卑劣にも遠くから魔法で炙り、高笑いを上げるでしょう。それを逆手に取りませんか?」
こんなところだろうか。
魔法隊を守るペルドール軍の歩兵の練度はなかなかだったが、突破して内部に潜ると手応えがないほど脆かった。短剣しか持たない魔術師たちは叫喚とともに得物を振り上げ、あっけなく僕の〈腕〉の餌食になる。恐怖で足がもつれ、そばにいる兵もろとも将棋倒しになる者もいた。あるいはこの密集地帯で魔法を放つ者すらいる。恐怖で曇った目ではまともな方向へ発射できるはずがなく、同士討ちが乱発し始めた。
僕が食らった攻撃など流れ弾程度だ。
〈腕〉に刻まれた治癒魔法陣で素早く傷を治し、僕は再び暴れ始める。
地獄絵図という表現がぴったりとくる光景だった。やがてエニツィア軍本隊が到着し、左側から攻め込み始める。ペルドール軍の中には背中を向けて逃げてくる者もいたが、進行方向にいるのはギルデンスと僕だ。逃走はむしろ確実な死へと繋がった。
ああ、こんなものは戦争ではない。
これは処理だ。利用を終えた道具を捨てるための、処理。近接戦闘の実戦経験がないのか敵の魔法兵はただ逃げ惑うだけだった。
人垣の奥で野太い声が震えている。「何をしている!」怒鳴っているのが「虎」だろうか。
その声には「虎」の名が示す野生動物じみた力強さは幾ばくかもなかった。予想外の状況への怒りと困惑に塗れた弱い人間の表出ばかりがあった。
「ギルデンス!」
「虎」らしき男の声は大きかったが、威嚇するような獰猛さはなく、必死に縋り付くような無様さが滲んでいた。
「話が違うぞ、どうなっている!」
「私の名を呼ぶなという約束すら守れないようですね」
彼らの姿は視界には入らない。だが、辺りをつんざく悲鳴の中、彼らの声は不思議な確かさで僕の鼓膜を強く揺さぶった。耳を澄ませるまでもなく、会話が耳へと届く。
「裏切るのか、この俺を……!」
「先に裏切ったのはあなただ。攻めるのは秋の終わり、そうお伝えしたはずですが」
「だが、俺にも面子が――」
「そうして目先のことばかりを気にした結果がこれだ。あなたとは前の『継承戦争』……ドズクア以来の付き合いになるが、どうやら頭の中に入っているのは腐った肉らしい」
「やめろ、やめろ! ギルデンス、貴様――」
どん、とどこか間の抜けた音が戦場のあらゆる音の隙間を走った。見えていなくても何が起こったか、予想がつく。ギルデンスが敵将を殺したのだ。敵兵の誰かが喉が張り裂けそうな調子で「虎」の名を叫んだ。
その瞬間、音が消えた気がした。
あらゆる人間の動きすら静止したようにすら感じる。
そして、一瞬後、恐慌が爆発した。
敵は攻撃など忘れたかのようにめいめいばらばらに逃げていく。右方から中央付近まで移動して来ていた傭兵たちがその背中を斬り、突き、あるいは魔法を放っている。
吐き気を催すような殺戮が始まっていた。
奇襲は相手の予想を裏切るからこその奇襲だ。ギルデンスの背信により全貌が伝わっている以上、ペルドール軍に勝機などあるはずがなかった。
「どけ、『化け物』!」
剣を振りかぶって退路を作ろうとした敵兵を弾き飛ばす。彼の身体はそばを走っていた男たちもろとも地面を転がり、中央部まで来ていたエニツィアの傭兵たちの手によって動かなくなった。
彼らも「虎」も被害者だ。ギルデンスと虚栄心に踊らされた哀れな人々。
僕は足を一歩、踏み出す。
もはや大勢は決した。逃げ惑う人間の群れに僕の敵などいない。
敵はただ一人、ギルデンスのみだ。
〈腕〉を身に纏い、地面を蹴る。声がした方向へと跳び上がる。空中でギルデンスの姿を発見する。水の壁はない。死体のそばで心地よさそうに阿鼻叫喚を聴き入っていた。
気狂いめ――ここで終わらせてやる。
ギルデンスはまだ僕に気がついていない。人の壁を掻き分けて、ぽっかりと空いた空間に辿りつき、ギルデンスを視認した瞬間、尖らせた〈腕〉を振りかぶった。
隙だらけだ。
胸に狙いを定め、思い切り突き出す。
だが、その〈槍〉はギルデンスに触れる瞬間に見当違いの方向へ逸れた。
いつの間にか水の壁がギルデンスの周囲を覆っている。内部で荒れ狂う激流に切っ先が持って行かれたのだ。明確な殺気に反応したのか、彼のぎょろりとした目がこちらへと向けられていた。
「気が早いな」
「遅いくらいだ」
〈槍〉を引き、〈腕〉へと戻す。あの水壁がある以上、ギルデンスへの攻撃は容易く逸らされる。ならば、壁を薙ぎ払う方が先決だ。
僕は〈腕〉を垂直に動かし、水の壁を縦に割った。固定された激流が元の形へと戻るために揺れ動く。
その瞬間、太腿に痛みが走った。鉄の筒、その暗い穴が見え、水の弾丸が発射されたことに気がつく。動脈を傷つけていたのか、傷口を赤い血がぞろりと舐めあげた。
肺から出ていこうとする悲鳴を堪える。喉の肉が削られるような感覚を味わう。
再び水の壁が構成され、それと同時に僕は〈腕〉に刻まれた治癒魔法陣へとエネルギーを送った。魔法陣を循環する僕の認識は即座にその傷を塞ぐ。
「治癒、か」
そこでギルデンスはなぜか嬉しそうに笑った。下卑た笑みに腸が煮えくりかえる。怒りに身を任せ、今度は〈腕〉を広げたまま突き出した。
水面に衝突すると同時に〈腕〉に鈍い衝撃が走る。面を向けていればギルデンスからの攻撃は止められる。案の定、水の壁に隙間が空いた瞬間、鋭く重い感触がエネルギーの先端で弾けた。
水飛沫が飛び、ギルデンスの身体を濡らす。水量を減らした壁はほとんど壁の様相を呈していない。〈腕〉を〈剣〉へと変え、袈裟切りに振るった。
だが、切り裂いたのは空気だけだ。
ギルデンスは身体を半身にし、あっさりと僕の攻撃を躱している。マーロゥと同様、しかし、彼よりもずっと研ぎ澄まされた動きだった。
「そう慌てるな」ギルデンスは大きく後退し、落ち着いた表情で口角を歪める。「こんな『ついで』で雌雄を決するのは味気ないだろう」
「関係、ない!」
おおよそ十五メートルの距離、〈腕〉で補助した身体機能であれば三歩で肉薄する。
ギルデンスが水の壁を生み出す一瞬の間で距離を潰した。後方で水の壁が生まれるのと同時に身体から〈腕〉を引き剥がし、〈剣〉として斬りかかる。
がつ、と硬い感触が当たった。
ギルデンスの長い髪に触れようか、という距離で僕の攻撃を止めたのは彼が持つ鉄の筒だった。
こんな中身のないもので――止められるはずがない。
力を込める。
〈腕〉が弾き飛ばされる。
「な――」
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。金属の筒に生じた亀裂から水が噴き出し、僕の髪を濡らしている。
意図せず、舌打ちが出た。
水は射出される穴が小さいほど勢いを増す。僕の〈腕〉は最大の切れ味を実現するために運動エネルギーが当たる点をできる限り小さくしている。視認できないほど薄い傷が生まれたことで金属の筒が破裂したのだ。
破片が頬を掠め、痛覚が血液を伴って肌から漏れる。
もし、以前のように物質を透過できたままだったら――益のないたらればが浮かんだ瞬間、ギルデンスとの距離が再び離れた。
「ニール、私はここでお前とやり合うつもりはない」
「お前の都合など知ったことか! 今、ここで、お前を――」
足下に飛んできた水の弾丸をすんでの所で躱す。
だが、彼から目を離したその一瞬が、千載一遇の好機を奪い去った。
先ほどまでギルデンスがいた空間に敵兵たちが流れ込んできている。どこかで人の流れを堰き止めていた壁を解除したのかもしれない、先頭を切って僕へと突っ込んできた男の身体は水を被ったかのように濡れていた。
「ギルデンス! 逃げるつもりか!」
敵兵を薙ぎ払い、叫ぶが、ギルデンスは姿を見せない。どこからともなく声だけが届いた。
「春だ……。建国祭の直前、愚かな貴族どもがエニツィアに対して宣戦布告をする。お前が望むならそこで決着をつけよう。使いをよこしてやる」
「ふざけるな! どこにいる!」
「ニール、私は歓喜に震えている。お前はやはり、私に似ている。この世でもっとも私に近いのがお前だ」
あらゆる轟音でギルデンスの声が消されかけ、正確な方向が分からない。むやみやたらに〈腕〉を振るって障害物を取り除いたが、彼の姿はどこにもなかった。
「お前だったのだ」
この空間からあらゆるものが消える。剣戟の音も魔法の爆裂音も地面を踏み鳴らす靴音も、恐怖で顔を歪めながら逃げる敵兵も戦果を求めて殺戮を続ける傭兵も国を守るために奮闘するエニツィア軍も、すべて消える。
あるのは僕とギルデンスの低い声だけだ。近くて遠いどこかから彼が語りかけてくる。
「エニツィアという化け物が私に対抗するために生み出したのが、ニール、お前だ。エニツィアが私を殺すために、『私』を送り込んできたのだ! これほど愉快なことはない!」
「身勝手なことを……言うな!」
僕は、お前とは違う!
ギルデンス、お前は独善的な異常者だ。人としての道を歩もうとしない、この世でもっとも邪悪な生き物。
その思いが声になったのか、もはや判然としない。憤激が身を貫き、状況を把握することも困難にしている。喉元で熱された鉄の塊が蠢く。腹の底で粘ついた泥が揺れる。己から発せられる怒りの悪臭で鼻が曲がりそうだ。
耳元でギルデンスの高笑いが響いている。鼓膜にこびりつくような笑い声はしばらく残り、その感触が失われるとともに周囲の風景が僕の現実へと帰ってきた。
開戦から一時間足らず、ギルデンスによって誘導された二つの軍はその道筋に従って仕分けされた。エニツィア軍の面々は圧倒的な勝利に歓声を上げている。
戦場の中、僕だけが立ち尽くし、虚空を睨んでいた。




