慰撫の温度
「あ、ははは……これは麗しの陛下。どうもどうも」
パレルがそーっとアンジェリカから離れ、あからさまな愛想笑いをシキに向ける。たった今魔王だと知らされたばかりのその男は、たいそう不機嫌そうな顔でじろりとパレルを睥睨した。そして溜息。
「もう下がれ。おまえがいるとうるさい。うるさい上に話が進まん」
「はあーっい! お邪魔虫は退散しまあす!」
「……」
苦虫を百匹噛み潰したような仏頂面で、むっつりと黙り込むシキの真横をさあっとパレルが走り抜けていく。ぺろりと舌を出し、彼はアンジェリカに向かって軽やかに片目を閉じた。そして彼女が何か反応を返す前に姿を消してしまう。
伸ばしかけた手を下ろし、仕方なしに男を見上げる。彼は無言だった。かなりの長い間、じっと、無言でアンジェリカの傍らに立っていた。アンジェリカはどうしたものか分からず、戸惑いを隠すようにむすっと唇を噛み締める。掛布の端を握りしめて、沈黙を保った。
やがて、ゆっくりとシキが口を開いた。途方に暮れたような視線が、アンジェリカのひたいのあたりに注がれていた。
「先刻、あやつが言った通り、俺は魔王だ、とされている」
アンジェリカは首を傾げた。
「なんか、曖昧な言い方」
「……俺はそんなものになるつもりはなかったんだがな、成行き上、というやつだ。だが、務めを果たせているのかは疑問だ。ゆえに、されている、と言う」
小難しい言い分に呆れる。なんだか、真面目な男だ。こんなのが魔王? へんなの。
シキはそんなアンジェリカの様子を気にすることなく、それで、と続ける。
「この屋敷には、屋敷を任せているものが数人、配下のものが数人、住み込んでいる。それから、ここに住んでいなくとも、魔族のものは好き勝手にやってくる」
そこでためらうように区切り、眉間の皺を深くする。
「人間は、お前ひとりだ。そして魔族は、人を恐れ忌む。意味は分かるな? こちらも充分に注意は払うが……お前自身も、気をつけろ」
アンジェリカは緩慢に瞬いた。人を、恐れ、忌む? 嫌うのも、忌まれるのも、分かる。だが、なぜ、恐れるのだろう。魔族は人間よりずっと強いだろうに。
(いったい、何が怖いというの)
ぼんやりとしてしまうと、あたたかいものが頬に触れた。反射的に固まって、訝るように相手を見る。シキの、何を考えているのか、よく分からない深い眼差しが淡々とアンジェリカを包んでいた。そのあまりに含みのない、敵意も好意もない、何か不思議な視線に、身の裡をすべて暴かれるような気分になった。落ち着かなくて、うろうろと目を泳がす。けれどすぐ、きっ、と彼を睨みつける。
「なに?」
「……身柄を引き受けた以上、お前を守ると約そう。アンジェリカ」
予想外の言葉に瞠目する。シキはどこか優しく、労るような手つきでアンジェリカの両頬を覆い、撫で、耳の裏を子犬にするようにほぐし、くしゃりと彼女の真っ白な髪を梳いた。とん、とん。と穏やかに肩を叩かれる。冷えきった腕がカッと熱を持つのを自覚した。アンジェリカはなぜだか分からないが、無性に腹が立って、少し泣きそうになった。ぎゅう、と大きな手の甲を抓るように握り、爪を立てた。痛みにか、シキは僅かに顔をしかめたが、それ以上は反応しない。それがまた腹立たしい。アンジェリカはさらなる攻撃をしかけるべく、彼の腕を強く引っ張り、獣のように噛みついた。
「……ッ、お、前。なんなのだ……」
疲れた声が溜息混じりに降ってくる。自分の行動が訳の分からないものであるとは分かっていたので、彼女はしかめっつらで彼の腕から歯を離した。すると傷のある指がアンジェリカの唇をぐいとぬぐう。目線を合わせられる。困ったような目が陰鬱に翳った。でもその目を、どうしてか怖いとは思わなかった。じっと見つめ返すと、再び静かな沈黙が降りしきり、ふたりは暫し向き合ったままだった。そのうち根負けしたようにシキが三度目の溜息をつき、アンジェリカの顎をすくった。やわらかな唇を押し当てられ、それはくちづけというより、荒れたアンジェリカの唇を癒すような仕草だった。獣の睦み合いのようだな、と思った。弱った皮を吸われ、じれったいほどゆっくりと甘噛みを繰り返される。差し入れられた舌先があふれた唾液をすくい、彼女の舌を絡めとる。そのときばかりはぞくりと背筋が粟立ち、感じたことのない疼痛がじんと走った。
「……ん、う……、ふぁ」
息ができなくなってきて、つたない喘ぎ声が出た。シキは角度を変え、覆うように口づけを深める。けれどそれはやはり、色欲よりも慰めめいていた。
んぁ、と荒くなった息を吐いたとき、ふと解放される。自然と潤んだ視界のなか、シキの指がそっとアンジェリカの瞼を撫でた。目をつむるように、ということだろうか。促されるまま瞼を伏せると、なまあたたかい舌がアンジェリカの唇をじわじわとなぞっていく。舐められ、ときについばむように軽い接吻を繰り返され、彼女はふるりと身を震わせた。甘い痺れに似た感覚。
「……っあ、ふ……っぅ、ん」
まるで子鹿のようにか弱げに喘ぐおのれが信じられなかった。いったい、自分はどうしたというのだ。あんなに。あんなに、おののき、嫌悪し、憎み、絶望していたのに。もっと、痛めつけられてこの細胞すべて死んでしまえたならと、あんなに願っていたのに!
なのに、なぜ、このひとの触れる体温を、あたしは救われるほど優しいと思うの。
————もっと、この優しい熱が、欲しいと。
***
部屋を出たパレルを待ち受けていたのは、目を三角にとんがらせたナーニャだった。うわー、鏡ん中に逃げればよかったー、と後悔したが時すでに遅し、彼女は嵐の勢いで凄まじい罵詈雑言を浴びせた。パレルは唇を尖らせ、ぶうたれた顔で、でもさあ、と話を変える。
「あの子、僕たちのことぜぇんぜん怖がってなかったよお。よく考えればさあ、首絞めたときもそんなに怯えてなかったし。わりと肝据わってる感じィ」
「そんなことまでしてたんですか!」
「うっ、だってさー、あそこってば陛下の寝室じゃん。タチの悪い身の程知らずの夢魔でも入り込んでたのかと思ったんだよお」
気持ちは分かりますがねえ、とナーニャが頭を抱える。そして、ふと眉をひそめた。
「でも……そうですか。我々を怖がられなかったのは、良いことですが……」
「ん? なんか気にかかるの?」
「いえ、……まあ、何でもありません」
ぎこちなく笑った彼女を不満そうに見やってから、まあ良いけどー、とパレルは背を向けた。どこに行かれるんですか、とナーニャが問うと、にやぁっと不気味に口の端を吊り上げた。
「ま、イロイロ? 陛下の新しいお客さんのこと、伝えた方が良い相手もいるでしょ?」
今日は陛下にたくさん怒られて傷心だしー、僕が優先順に伝えてきてあげる!
晴れやかにそう言って逃走し出した彼を、ナーニャはあんぐりと顎を落とすして見送った。な……な、なな。
「ちょっ————お待ちくださいませ、今度は何をなさるおつもりですか、パレル様!」
普段温和な彼女からは考えられない怒声を上げて、もう追いつけない位置に消えた少年を思い、ナーニャはがくりと膝を落とした。
またも遅くなってすみません……! 覚えていてくださった方、まだおつきあいくださっていた方、ありがとうございます。