CROSS ROADS(7)
「それからだよ。試験を受ける度にその時の母さんの顔を思い出すようになっちゃって。鉛筆を持つ手が震えて、頭の中が真っ白になっちゃって。それでも期待にこたえなきゃって思って問題は解くんだけど…、それでも間違えて。この前の模試ではじめて順位を落としちゃったんだ」
…それで全国5位ならいいと思うが、今までの話と橘の深刻な顔を総合するとそうも言っていられないようだった。
「…それで、お前なんかいらないって言われたのか?」
橘が膝で握っている手を更に硬くして言った。
「何も」
「え?」
「何も言わなかった」
恐る恐る試験結果を母に手渡す。怖くて顔を上げられなかった。
母親が椅子から立ち上がる気配がした。思わず目をつぶり、歯をくいしばる。
「夕ご飯の支度しなくっちゃ」
ぱたぱたと台所にかけていく母。試験結果はその手にはなく、いつの間にか床に落ちていた。
呆然と立ち尽くす橘の代わりにすぐ後に帰宅した兄がそれを拾う。
「どうしたんだ、豊?これ、見せるんだろ?母さんは?」
橘は立ち尽くしたまま動かない。兄が台所に向かって叫ぶ。
「母さん!これ、豊の…」
「いいのよ。それはもう終わったから」
なんだ、もう見せ終わってたのか、と兄が呟きながら橘に試験結果を渡す。
紙を受け取りながら、橘は兄の言葉を反芻していた。
違う。試験結果のことではない。母は自分自身に言ったのだ。
お前はもう終わったのだ、と。
「それから何度も試験の事とか大学の話を母さんにしようとしたんだけど、目を合わせてくれなくて…。すぐに話をはぐらかすんだ、音楽とかテレビの話とかして。そんな話、絶対慣れてないのに…」
殴られるより無視されるほうが人は傷つくという話がある。
存在を認めてくれる人がいるからこそ自分はそこに存在できるし、存在する事に意味があるとも思える。何かに必要とされてはじめて人は自分の存在価値を見出す。
では、存在を否定されたら?自分がそこにいる事、存在している事を認めてくれる存在がいなくなったら?
―――自分が必要とされなくなったら?
「そうやっていろいろ考えてたら、よく分かんなくなっちゃって。本当に勉強が好きだったのかな、とか。1番ってそんなにいい事なのかな、…とか」
風が橘の前髪を揺らす。
「僕は多分ただ母さんに喜んでほしかったんだ。頑張ったって笑ってほしかったんだ」
橘がそっと砂をすくいあげる。砂がゆっくりと風にさらわれていく。
「…でも、母さんが必要としていたのは、人に自慢できる優秀な子供だけだったんだ」
手の中の砂が消え。遠くを見つめる橘。
「僕は…、もう…あの世界にはいらないんだと思う」
義務的に接しようとする母。無感情に語りかける父。出来の悪い弟を見るような兄の瞳。そんな家族をどこか不安そうに見つめる弟。
自分のせいで家族の歯車も狂ってしまった。
橘は諦めと寂しさとが複雑に入り混じったような表情をしていた。
それは郁也が今まで助けた人達と同じ顔だった。
何かを諦めて、それでも諦めきれなくて…。ああしておけばよかった。そうすればこんな事にはという表情。このまま消えたくないという誰よりも強い思い。
―――彼らはみな、確かに後悔していたのだ。
「僕は、きっと誰にも必要とされてないから」