CROSS ROADS(8)
―――貴方にも何かやり残した事があるんじゃない?―――
郁也が立ち上がる。靴の底に砂がつまっていたが、そんな事はどうでもよかった。
「…お前、本気でそう思ってんのか」
橘が顔を上げる。またあの表情だ。憂いに満ちた表情。
「…うん」
「自分が必要とされてないって?」
「親の期待にも満足にこたえられない、弱い自分が嫌になったんだ。
こんな自分は、あの家族には必要ないんだよ」
「自分で、そう思ってんのか?」
「え?」
ポケットに手を突っ込んで見下ろす。橘がぽかんとした顔で郁也を見る。
「人に言われたからそう思ってんじゃないのかよ。母親に言われたから」
「…それは」
「いや、正確には言われてもいないな。そう自分で思い込んでるだけだ」
「…口にしなくても態度で分かる事だってある」
「直接聞いたのか?母親に。自分は本当に必要かって」
「聞けないよそんなこと!それでいらないって面と向かって言われたら、僕は…」
橘は声を荒げて立ち上がる。しかしすぐに俯くと郁也に背を向けた。
「…叶君には分からないよ。人に見捨てられるのがどんなに怖いかなんて」
「ああ、俺には分からない。でもお前なら分かるんだろ?」
「え?」
橘が背中を向けたまま視線だけを郁也に向ける。
「見捨てられる奴の気持ちを誰より分かってるお前が今度は見捨てんのか、あいつを」
「…あいつ?」
橘が首を傾げながら振り向く。橘の話を聞きながらもずっと脳裏をよぎっていた、郁也が助けた小さくて、でも大切な1つの命。
「あの猫だよ」
橘がはっとして顔を上げる。名前も持たない小さな猫。でも確かにそこに存在していた。
「あいつを見捨てるのか。餌だけ与えて、あとはさよならか」
「…ごはんならたくさん置いてきた。なくなったら、自分で探しに行くよ」
「その途中で車にはねられたら?犬とか人間に襲われたら?」
「せ、生徒の誰かが見つけるかもしれない。家で飼ってくれるかもしれない」
「その前に先生が見つけたら?保健所に連れて行かれたら?」
「し、知らない!どうせ僕がいなくったって生きていける!関係ないよ!」
ぐっと胸倉を掴み上げられる橘。いきなりの郁也の行動に目を丸くする。
「お前じゃなきゃダメなんだよ!!」
郁也が怒鳴る。その形相に思わず息を呑む橘。
郁也が力を緩め胸倉から手を離したが、腰に力が入らずそのまま尻餅をついてしまう。
「………食わないんだよ」
「…は?」
上ずった声を発する橘を見下ろして言う。
「食わないんだよ、あいつは。お前のメシしか」
郁也は橘が去った後も猫に餌を与え続けていた。放課後のチャイムが鳴るまでずっと。
その間、猫は一度も餌を口にしようとしなかった。試しに餌だけ置いて猫の目の届かない所に移動してみたりもしたが、結果は同じだった。
「そんな…だって、今までだって…」
言いながら橘は思い出す。ある金曜の放課後、魚を2匹持っていった。塾があったので1匹だけ与えて、もう1匹はそのままダンボールの中に置いていった。月曜の朝ダンボールをのぞくと、そこには魚がまるまる1匹そのまま残っていた。
「あの時は、魚が気に入らなくて…、てっきり自分で餌を見つけたんだと…思って。じゃあ、あの時は…2日間何も…」
「あいつは餌を探す為に外に出たんじゃない。お前を探してたんだよ」
はじめて郁也が猫に会った時、あの猫は確かに自分から郁也のほうに走ってきた。
おそらく制服を見て勘違いしたのだろう。同じものを着ているのだから橘に違いないと。
「さっき自分は誰にも必要とされてないって言ったな?」
「…」
「自分がいなきゃ生きられない奴がいるって事は、そいつは必要なんじゃないのか?」
「…」
「必要とされてるってことじゃないのか?」
「…僕…が?」
見上げて言う橘に手を差しのべ、郁也は少しだけ笑って言った。
「どうも俺じゃダメみたいだからな」
橘がゆっくりと手を伸ばしながら言う。
「…終わったって言われた時、自分の人生もここで終わったって思ったんだ。もういいって…、お前は必要ないから、…いらない…って。…でも…、僕は」
『―帰っておいで―』
頬を一筋涙が伝った。それはまだ終わりたくないという確かな想い。小さな希望の欠片。
「…僕、あの場所にいていいのかな?生きてても…いいのかな?」
橘の手を取り思い切り引き上げ、思わずよろける橘の背中をばしっ!と叩いて言う。
「それはお前が自分で決めることだろ」
橘が薄く微笑んだ。その姿がゆっくりと光に包まれていく。




