第16話 癒やしの札と第三の進路
読んでくださっている皆さま、こんにちは。
第五章「癒やしの札と第三の進路」も、今回でいよいよ最終話です。
七月八日、智徳の誕生日から始まったこの章は、負傷した慎悟が前線を離れるところから動き出しました。福江南高校を巡る激突、歩美の回復札が突きつけた「治すことと救うことは同じなのか」という問い、そして指中莉奈と光狐の出会い。十人それぞれが、自分の弱さや迷いと向き合いながら、少しずつ形を変えてきた章でもあります。
今回はその集大成として、慎悟たちが寿満寺での特別合宿を決意する場面と、金津美里の側で進行していたもう一つの真実――五天王の正体――が同時に描かれます。
読み終えたとき、「救い」という言葉の重さが、少し違って見えるかもしれません。
最後まで、どうぞお付き合いください。
(本作の執筆にはAIを活用した推敲支援を一部取り入れています)
七月二十一日、清王学園高校は終業式を三日後に控えていた。
廊下を歩けば、教室から漏れる声はすでに夏休みの色に染まっている。
「花火大会、絶対来いよ」
「うちの部活、合宿で琵琶湖行くんだけど」
「宿題、今年こそ計画的にやる」
そんな声の隙間を縫って、慎悟たちは三階の使われていない教室へ向かっていた。
普段は倉庫代わりに使われている部屋で、埃をかぶった長机が壁際に寄せられている。
カーテンは半分だけ閉じられ、残りの隙間から強い日差しが斜めに差し込み、床と机の上に白い帯を作っていた。
冷房は入っているが、古い教室にはまだ夏の熱が染みついている。
慎悟、友紀、南海、蓮、翼、歩美、翔一、綾実、伊織、健太。
十人が机を囲むように腰を下ろす。
慎悟は椅子に座る瞬間、わずかに息を止めた。
脇腹に巻いた包帯の下、悪路漢の日本刀――松影に斬られた傷が、今も鈍く疼いている。
表情には出さないつもりだった。
だが友紀の視線が、一瞬だけその動作を捉える。
南海も、隣で小さく眉を寄せた。
二人とも何も言わなかった。
言わないことが、二人なりの気遣いだった。
教壇には、大溝奈緒が立っていた。
黒いファイルを教卓に置き、腕を組む。
生徒たちを見回してから、口を開いた。
「これから話すことは、夏休みの補習より面倒だ」
翔一が、いつもの調子で片手を上げる。
「補習より面倒って、もう戦争じゃないですか」
軽口のつもりだった。
だが奈緒は真顔のまま、静かに返した。
「実際、戦争に近いだろう」
その一言で、教室の空気が変わった。
窓の外から届いていた蝉の声が、急に大きく聞こえるようになる。
翔一の笑みが、頬の途中で止まった。
奈緒は続けた。
寿満寺で、特別合宿を行う計画がある。
提案者は住職の池口寿蒙。
学校には「課外地域史研修」として届け出るつもりだという。
「私自身、以前から寿満寺の資料を調べていてね。寿蒙さんとは、その頃からの知り合いだ」
奈緒の声に、変に芝居がかったところはなかった。
事実を並べるだけの、教師らしい平坦な口調だった。
だが翼は、ノートを開きかけた手を止めた。
蓮も、机の下で軽く指を組む。
奈緒は、慎悟たちの正体について踏み込んだ質問をしなかった。
霊護獣とは何か。
なぜ校舎が壊れるのか。
なぜ夜中に抜け出す生徒がいるのか。
そうした問いを、彼女は一つも口にしなかった。
それでも奈緒の目には、迷いのない光があった。
「詳しく話せないなら、それでもいい」
一拍置いて、続ける。
「ただし、何も知らない大人のふりをして見捨てるつもりもない」
その言葉に、感傷的な響きはなかった。
硬く、事務的とすら言える言い方だった。
だからこそ、教室にいる誰の耳にも、まっすぐに届いた。
友紀が小さく息を吐く。
伊織は目を伏せ、姿勢をわずかに正した。
歩美は机の上で組んだ両手に、力を込める。
慎悟は、奈緒の顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
事情を暴こうとしているのではない。
戻ってこられる場所を、確保しようとしている。
そのことが、言葉よりも先に伝わってきた。
◇
奈緒は、合宿の目的が体力づくりや技の強化だけではないと説明を続けた。
「調べたいことは、いくつかある」
机の上にファイルを開き、指で示しながら言葉を選ぶ。
霊護獣との契約が、なぜ、どんな条件で成立するのか。
『寿満寺縁起』に記された恐竜型の龍神と、霊護獣との関係。
そして――
奈緒はそこで一度言葉を切り、歩美の方を見た。
「人間の傷を治す札が、なぜ鬼に使うと、人間へ戻そうとするような反応を起こすのか」
翼が身を乗り出す。
「それは、寿蒙さんの側から出てきた話ですか。それとも先生の推測ですか」
奈緒は正直に答えた。
「半分は寿蒙さんから聞いたこと。半分は、私の想像だ。混ぜて話すつもりはない」
蓮も短く尋ねる。
「安全に人間へ戻す方法までは、まだ分かっていないんですね」
「分かっていない。だから調べる」
奈緒の答えは短かった。
すべてを知っているふりをしない。
その姿勢が、逆に信頼を生んでいた。
歩美は、自分の手のひらを見下ろしていた。
指先に、まだ感触が残っている気がした。
恨卑の身体に、札が吸いつくように貼りついた瞬間の感触。
喉が裂けるような絶叫。
灰になって崩れていった、小さな身体。
福江南高校の体育館で、冥顎が絶叫した音。
札を剥がそうとして、指まで焼けるような痛みに襲われた咬覇の顔。
そして――角羅の札を受け、絶叫の末に命を失った男性教師の姿。
記憶は、順番も脈絡もなく歩美の中に押し寄せてくる。
奈緒の声が、その渦を断ち切った。
「知らずに使い続けるのが一番危険だ」
歩美は顔を上げた。
「怖いなら、なおさら正体を調べろ」
慰めの言葉ではなかった。
責任を、抑えた声のまま差し出すような言い方だった。
歩美は一度、自分の両手を見下ろした。
この手は、負傷した生徒に包帯を巻き、飲み物を渡し、汗を拭いてきた手だ。
同時に――一つの命を、灰に変えた手でもある。
歩美は、拳を強く握った。
「逃げません」
声はまだ震えていた。
それでも、はっきりと言葉にした。
「私の札が何をしているのか、最後まで確かめます」
正しいと決めつけるつもりはない。
助けたかった、という気持ちを、免罪符にするつもりもない。
怖いまま、それでも目を逸らさない。
その覚悟だけが、歩美の中に残っていた。
◇
歩美の言葉を受け、奈緒は十人全員を見回した。
「参加は命令じゃない。自分で決めろ」
慎悟は、包帯の巻かれた脇腹に、そっと手を添えた。
これまでの慎悟は、「俺がやる」と言って前線に立つことで、仲間を守ってきたつもりだった。
だが福江南高校では、自分がいなくても九人が生徒を守り、七人の鬼を退けている。
喉の奥が、小さく詰まった。
胸の内側を、冷たい風がすっと通り抜けていく。
自分がいなくても回る戦場を、確かにこの目で見てしまった。
慎悟は、目の前に並ぶ九人の顔を、一人ずつ見た。
友紀。南海。蓮。翼。歩美。翔一。綾実。伊織。健太。
誰も欠けていない。
そのことを確かめてから、ようやく口を開いた。
「前へ出られない俺に何ができるのか、それを知りたい」
前線に戻るためだけの合宿にはしない。
仲間を信じて、戦場全体を支える方法を学ぶための場所にする。
慎悟の声は、いつもより低く、慎重だった。
友紀は、兄の言葉が終わるのを待たずに、ほとんど間を置かず答えた。
「私は、兄ちゃん一人を前へ立たせない方法を覚えたい」
兄から離れたいわけではない。
兄を不要にしたいわけでもない。
同じ場所に立って、互いを守り合いたい。
友紀らしい負けん気と、兄への想いが、一つの言葉に重なっていた。
南海は、慎悟を見つめたまま、少し遅れて口を開いた。
「慎悟くんに守ってもらうだけじゃ」
言葉を選ぶように、一度息を吸う。
「たぶん二人とも最後まで生き残れない」
静かな声だった。
だが、その静けさの中に、譲らない意志があった。
南海は、慎悟の後ろにいることを安全だとは思っていない。
慎悟が一人で傷つき続けるなら、それは二人で生き残る未来ではない。
傷つく可能性を承知の上で、隣に立つ力が欲しい。
三人の言葉は、同じ方向を向きながら、まったく違う形をしていた。
慎悟は、言葉を探しながら自分の役割を疑う。
友紀は、迷わず前へ出る。
南海は、二人の言葉を受け止めてから、迷いのない声で結論を出す。
奈緒は何も言わず、ただ小さく頷いていた。
◇
蓮が、抑えた声で口火を切った。
「福江南高校では、俺と友紀と翼と綾実で指揮が分かれた」
結果的には勝てた。
だが、と蓮は続ける。
「誰が全体の指揮を引き継ぐか、決まってなかった。あれは、たまたま上手くいっただけだ」
蓮は、霊護獣ごとの移動速度、攻撃範囲、感知能力、支援可能な距離を頭の中で並べているように、視線を宙に泳がせた。
「慎悟がいなくても機能する指揮系統を作る。それを、寿満寺でやりたい」
冷たく聞こえる言葉だったが、その底には、誰の命も失いたくないという意志が沈んでいた。
翼はノートを開き、ページを見せる。
そこには『寿満寺縁起』から書き写した曼荼羅の図、十色の配置、霊護獣の特徴が、几帳面な文字で並んでいた。
「古い記録では、恐竜型の存在は『龍神』と呼ばれている」
翼は淡々と説明する。
「でも今の恐竜型の存在は、人間を鬼に変えている。この矛盾が引っかかる」
回復札が、傷ではなく「本来の姿」を修復しているのだとしたら――霊護獣と、恐竜型の鬼は、完全な別種ではないのかもしれない。
翼はそこで、断定を避けるように言葉を止めた。
「札の正体を知るには、力ではなく歴史を調べる必要がある」
奈緒が、社会科教師らしく短く応じる。
「歴史を調べるのは得意分野だ。付き合おう」
翔一は、最初、両手を頭の後ろで組んで笑った。
「寺で泊まり込みって、修学旅行より渋いな」
誰も笑わなかった。
奈緒の視線が、静かに翔一へ向く。
翔一は、少しだけ姿勢を正した。
福江南高校で牛竜と戦った時、自分は勢いだけで突っ込み、一瞬、仲間の戦線から外れかけた。
その事実を、翔一は誤魔化さずに認めた。
「俺の速さと明るさを、仲間を置き去りにする軽さじゃなくて」
翔一は、拳を軽く握る。
「全員を動かす力にしたい。だから、行く」
深刻さの中に、翔一らしい軽さが確かに残っていた。
綾実は、机の下で一枚のタロットカードを握っていた。
友紀が、それとなく尋ねる。
「綾実、それ何のカード」
綾実はすぐには答えなかった。
カードは「塔」の正位置。
破壊、崩壊、隠されていた真実の露見を意味する札だった。
綾実は、カードを見せないまま、ゆっくりと口を開いた。
「未来が危険だから行かないのではなく」
一拍の間を置く。
「危険を変えるために行きます」
きっぱりとした言い方だった。
だが、そう言い切った後、カードを握る指先に、わずかに力がこもった。
その動きに気づいたのは、隣に座る伊織だけだった。
伊織は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「私が放った矢は」
言葉を探しながら、続ける。
「本当に、敵を救っていたのでしょうか」
それとも、元の人間ごと、存在を消していただけなのか。
伊織にも、答えは分からない。
「救う方法があるのなら」
伊織は姿勢を正した。
「知らないまま射続けることはできません」
普段は沈黙を選ぶ伊織が、命の扱いについてだけは、はっきりと意思を示した。
最後に、健太が低い声で言った。
「倒すだけなら、俺の力でもできる」
健太は、自分の両手を見下ろす。
「でも、倒した後に何も残らないなら」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「それで守ったことになるのか、分からない」
必要なら、これからも力を振るう。
だが、力を振るわずに止める方法があるなら、それを探したい。
健太の言葉は短かったが、教室の中に、確かな重みを残した。
◇
十人全員の声を聞き終えると、奈緒は腕を組んだまま、小さく頷いた。
感傷的な反応は、一つも見せなかった。
「覚えておけ」
奈緒は淡々と言う。
「力を持つことより、その力で何をしたのか説明できることの方が難しい」
続けて、少し声を落とす。
「社会は綺麗じゃない。だが、社会への怒りが破壊を正当化する理由にはならない」
それは、誰か特定の名前を出さない、けれど確かに「第三の進路」への反論だった。
奈緒は日程、集合場所、持ち物、学校への届け出について、要点だけを簡潔に伝えていく。
説明を終えると、最後にもう一度、十人を見た。
「全員で行くなら、全員で帰ってこい」
短い命令だった。
だが、その言葉の重さを、誰も軽く受け止めなかった。
慎悟は、九人の顔をもう一度見回す。
誰かが自分の代わりになるのではない。
十人が、それぞれ違う役割を背負い、互いの欠けた部分を支える。
前線、制御、後衛、回復。
それらが重なって、一つの戦線になる。
一人の英雄ではなく、十人で作る戦場に。
慎悟は、静かに息を吐いた。
「行こう。寿満寺へ」
十人が一斉に同じ言葉を返したわけではなかった。
友紀が先に頷く。
南海が、ふっと表情を緩める。
蓮は、早くも日程をノートに書き写している。
翼はページをめくり、新しい項目を書き加える。
歩美は、自分の両手をもう一度見て、そっと握りしめた。
翔一が「決まりだな」と軽く笑い、綾実がカードをそっとポケットへ戻す。
伊織は静かに頭を下げ、健太は太い腕を組んで頷いた。
半分閉じたカーテンの向こうで、蝉の声が一段と強くなる。
白い日差しが、床の上でわずかに角度を変えていた。
◇
清王学園高校の教室に差し込んでいた白い光は、そこで途切れる。
代わりに広がるのは、暗紫色の鬼気が這う、湿った洞窟の闇だった。
勝川市の山中。
金津家が所有する広大な山林の奥に、地図には載っていない洞窟がある。
内部は自然にできたものではない。
壁には、経文にも、恐竜の骨格図にも見える奇妙な紋様が、人の手によって刻まれていた。
湿った土の匂い。
苔と古い香の匂い。
その奥に、乾いた骨と、鉄に似た鬼気の臭いが混じっている。
美里は、腰に国影の太刀を差し、五天王を従えて最深部へと進んでいた。
悪路漢、邪顎、冥顎、鱗華、麗刃。
五人とも、福江南高校で歩美の札を受けた影響から、身体の奥に鈍い痛みを残している。
だが、それを口にする者はいない。
誰も、今日ここで何が行われるのかを聞かされていなかった。
悪路漢は、美里のすぐ後ろに出ようとする。
五天王筆頭としての立場を、常に確かめておきたかった。
邪顎と冥顎は、少し距離を取って歩いていた。
悪路漢を、心から信用してはいない。
鱗華と麗刃も、互いに視線を交わさないまま、警戒するような足取りで続く。
美里だけが、一度も振り返らなかった。
最奥へ進むにつれ、闇の中に巨大な影が見え始める。
長い骨の連なり。
乾いた皮膚の一部。
首から下がる、大きな珠を連ねた数珠のようなもの。
その全貌は、まだ見えない。
だが、そこに何かが「眠っている」ということだけは、五人全員が肌で理解していた。
◇
石室の中央には、巨大なミイラが胡坐をかいていた。
上半身は、人間の僧侶に似ている。
しかしその背後には、長大な首と尾の骨格が、洞窟の奥まで横たわっていた。
乾いた皮膚には無数の亀裂が走り、その奥で暗紫色の鬼気が、心臓のようにかすかに脈打っている。
首には、人の頭蓋骨ほどもある黒い珠を連ねた、巨大な数珠が掛けられていた。
悪路漢は、その重圧に、思わず足を止めた。
美里は振り返らず、短く命じる。
「並びなさい」
五人がミイラの前に並ぶと、石床に刻まれた五つの紋章が、それぞれ淡く光を帯びる。
悪路漢の足元は、赤。
邪顎の足元は、青。
冥顎の足元は、黒。
鱗華の足元は、桃。
麗刃の足元は、黄。
悪路漢は、掠れた声で尋ねた。
「何が、始まる」
美里は答えなかった。
国影を鞘から抜き、石床へその切っ先を突き立てる。
金属音が、石室の壁に長く反響した。
次の瞬間、五人の身体から、大量の鬼気が引き抜かれた。
悪路漢の頭部を、赤い光が貫く。
その光は、ミイラの頭部へと吸い込まれていった。
邪顎の右腕から、青い鬼気が糸のように伸び、干からびた右腕へ集まっていく。
冥顎の左腕からは、黒い鬼気が流れ出し、乾いた左腕に、うっすらと筋肉の影を作った。
鱗華の右脚からは、桃色の霊力が引き抜かれていく。
麗刃の左脚からは、黄色い雷光が細く伸び、乾いた脚の骨を包んでいった。
五人は、その場に膝をついた。
痛みは、血や霊力を奪われる痛みだけではなかった。
自分の人格の一部を、無理やり引き剥がされるような感覚。
かつて一体だった鬼の魂を五つに分け、腐らせずに保存していた欠片。
それが今、元の場所へ戻ろうとしていた。
力が集まるにつれて、ミイラの身体が、少しずつ動き始める。
まず、乾いた指が動いた。
爪が、石床をわずかに引っかく。
ひび割れた胸が、ゆっくりと膨らんだ。
数百年ぶりの空気を、肺の奥まで吸い込むように。
喉の奥から、砂と腐った香の臭いが漏れる。
洞窟の奥で、土埃が舞い上がった。
天井から、小石が一つ、また一つと落ちてくる。
石床に刻まれていた紋様が、黒い曼荼羅となって広がっていく。
長い首が、骨の擦れる音とともに、ゆっくりと持ち上がった。
巨大な尾が石壁に触れ、洞窟全体が、低く長く揺れる。
僧侶の上半身と、ディプロドクスの巨体が、音もなく立ち上がった。
その両眼は、最初、何もない空洞のように見えた。
そこへ、金色の光が灯る。
巨徳は、美里を見下ろした。
一瞬、その巨躯が襲いかかるように見えた。
だが次の瞬間、長大な首をゆっくりと折り曲げ、深く頭を下げる。
石室の空気そのものが震えるような、低い声が響いた。
「お久しゅうございます、焔羅様」
その声は、大声ではなかった。
洞窟の石壁そのものが喋っているような、乾いて重い響きだった。
焔羅。
美里自身の名でも、金津家の通り名でもない、聞き慣れない呼び名だった。
巨徳が頭を垂れる先にあるのは、目の前の十五歳の少女――それだけではないのかもしれない。
彼女の奥に潜む、何か別のもの。
五天王たちには、忠誠の矛先がそこへ向けられているように感じられた。
◇
巨徳が復活した後も、五天王は力を奪われたまま、石床に膝をついていた。
美里だけが、当然の結果を受け取るように、その光景を眺めている。
悪路漢は、荒い呼吸のまま顔を上げた。
「俺たちは......何のために選ばれた」
声はかすれ、語尾がわずかに震えていた。
美里は、表情を変えないまま、視線だけを悪路漢へ向ける。
「選んだ覚えはないわ」
短く、冷たい声だった。
「必要な場所へ置いただけ」
その一言が、悪路漢の中で、何かを砕く音を立てた。
自分は、五天王筆頭として認められたのではない。
巨徳の頭部を保存するための、ただの器だった。
南海に選ばれなかったこと。
慎悟に勝てなかったこと。
美里の前で、五天王筆頭として振る舞ってきたこと。
他の四人を見下し、自分だけが特別だと思い込もうとしてきたこと。
美里への忠誠を、自分の価値だと信じ込もうとしてきたこと。
そのすべてが、意味を失っていく。
美里にとっては、その執念深さこそが、巨徳の頭部を保存するのに都合が良かっただけだった。
悪路漢の指先が、刀の柄へ伸びかける。
顔を上げ、僅かに鬼気を集めようとする。
だが、そこで動きが止まった。
反抗すれば、五天王筆頭という最後の肩書きすら失う。
それだけは、耐えられなかった。
「俺は......まだ、使えるはずだ」
搾り出すような声だった。
自分を人間としてではなく、「使えるかどうか」で評価する言葉。
それを、悪路漢自身が口にしていた。
邪顎、冥顎、鱗華、麗刃も、それぞれの表情を強張らせている。
自分たちは仲間でも、幹部でもなかった。
魂の保管容器だった。
その事実に、誰も声を出せなかった。
だが、五人と巨徳の霊的な接続は、完全に切れたわけではなかった。
悪路漢が反抗の気配を見せた瞬間、巨徳の頭部が、わずかに揺らいだ。
鱗華が、無意識に一歩後ろへ足を引くと、巨徳の右脚が、ほんの一瞬よろめいた。
その現象の意味を、五人のうち誰一人として理解していなかった。
美里も、詳しく説明するつもりはないようだった。
「第三の進路」は、選ばれなかった者が自由を得る道ではなかった。
美里自身が新しい選別者となり、他者の価値と役割を、一方的に決めていく制度だった。
その真実は、長い言葉ではなく、五天王がどう扱われたかによって、静かに示されていた。
◇
美里は、巨徳へ視線を移した。
「覇竜十傑の席は、まだ一つ空いているわ」
巨徳は、首に掛けた黒い数珠を、静かに鳴らす。
低い音が、石室に長く響いた。
「最後の一席にふさわしき者は」
巨徳は、洞窟のさらに奥へと、空洞のような目を向けた。
「すでに目覚め始めております」
美里も、同じ方向へ視線を移す。
そこには、分厚い岩壁と、古い封印縄で閉ざされた巨大な空間があった。
岩壁の向こうから、獣とも人間ともつかない、低い鼓動が響いてくる。
一度。
二度。
鼓動が鳴るたびに、洞窟の壁に刻まれた恐竜の紋様が、淡く発光した。
悪路漢たちは、その音の主が、巨徳よりもさらに巨大な存在であることを、直感的に理解した。
美里は、満足そうに口元を緩める。
「夏が終わる頃には」
指先で、洞窟の奥を軽く示す。
「すべての席が埋まる」
その頃、清王学園高校では、十人が寿満寺へ向かう準備を進めていた。
彼らが学ぼうとしているのは、敵を効率よく倒す方法ではない。
傷ついた命を救い、鬼となった者へ、再び選択肢を返す方法だった。
一方、勝川市の洞窟では、美里が選ばれなかった若者たちの身体と魂を組み合わせ、古い怪物を現代に蘇らせている。
人間へ戻すことを救いと考える、歩美と寿蒙。
人間性を捨てさせることを救いと考える、巨徳。
鬼になる自由を与えると語りながら、相手を兵士や部品へ変えていく、美里。
三つの救済観が、静かに、しかし確実にすれ違っていた。
真夏の蝉の声が、遠く校庭から響いている。
洞窟の奥では、地の底から、巨大な鼓動が響き続けている。
白い夏の日差しと、黒く広がる曼荼羅。
その対比だけが、多くを語らずに、これから起こることを予感させていた。
巨徳は、首の数珠をもう一度、低く鳴らした。
「人であることに疲れた者たちへ」
低く、乾いた声だった。
「真の救いを授けましょう」
その言葉は、僧侶の慈悲のようにも、死刑の宣告のようにも聞こえた。
夏の寿満寺を舞台に、命を救おうとする者たちと、人間性を奪うことを救いと呼ぶ者たちの戦いが、静かに始まろうとしていた。
完。
第五章「癒やしの札と第三の進路」、これにて完結です。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この章の出発点は、「治す」という行為が必ずしも「救う」ことと一致しないという、シンプルだけれど厄介な問いでした。
歩美の回復札は人間を救い、鬼を人間へ戻そうとする。角羅の札は鬼を救い、人間を鬼気へ変えて壊す。同じ「回復」という言葉を掲げながら、まったく逆の結果を生む二つの力。
そして金津美里の「第三の進路」もまた、救済という言葉をまとった支配でした。選ばれなかった者へ道を示すと言いながら、実際には彼女自身が新しい選別者になっている。その矛盾は、五天王の正体が「巨徳復活のための部品」だったという事実によって、もっとも残酷な形で証明されてしまいました。
悪路漢が最後に漏らした「俺は……まだ、使えるはずだ」という言葉。
あれは、誰かに価値を認めてもらうことでしか、自分の存在を保てなかった者の、悲しい叫びだったのだと思います。
一方で、慎悟たち十人は、力ではなく「命を救う方法」を学ぶために、夏の寿満寺へ向かう決意を固めました。
戦いを終わらせるための力ではなく、戦いのあとに残された命をどう扱うか。第六章では、その問いがより深いところへ進んでいきます。
寿満寺に何が眠っているのか。
回復札の本当の正体は何なのか。
そして、洞窟の奥で目覚めかけている「もう一つの鼓動」の主とは何者なのか。
次章「猿寺の凍れる夏」では、それらの謎に、十彩獣団自身の手で迫っていくことになります。
第五章という長い章を読み切ってくださった皆さまに、あらためて感謝申し上げます。
引き続き、十彩獣団の物語を見届けていただければ幸いです。
(本作の執筆にはAIを活用した推敲支援を一部取り入れています)




