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時を駆けるバトン

「さて。今日の勉強会では感染症について勉強していきます。まず…奈緒子ちゃん。」

「はい。…感染症とは、主に微生物による病原体が身体に侵入して増殖することで、身体に異常が起こることです。この場合、病原体は主に細菌、真菌、ウイルス、寄生虫を指します。」

「うん、そしたら続きを久美ちゃんね。」

「はい!えと…感染症への対策は予防と治療があって、予防は感染経路を遮断することが大事です。」

「例えば?」

「え、えっと…!」


 用意してきたレジュメがすっ飛んだな?

 今日の勉強会は有志で終業後にやってるものだから時間はたっぷりある。悩め悩め。


「久美ちゃん、ほら、ここだよ!」


 奈緒子ちゃんがプリントのレジュメの一箇所を指し示すと、久美ちゃんが顔を赤くしながら礼を言った。


「ありがと…!えと、感染経路は空気感染、飛沫感染、エアロゾル感染、接触感染によるものがあって、空気感染やエアロゾル感染、飛沫感染はマスクでの吸い込み防止が効果があります。接触感染は、病原体が粘膜に触れることで起こるので、手洗いが効果があります。」

「粘膜同士で触れるような感染は?手洗い関係ないよね?」


 千早ちゃん…ツッコむの早いよ…そしてそれは乙女が答えるのハードル高くない?


「…STDの場合は、避妊用具で防止できる場合もあります…。」


 久美ちゃん…真っ赤になって、でもちゃんと答えたね。エライ。


「他に、狂犬病やマラリア、ペストなど、他の生物を介して伝染するものもあります。その場合はその生物から身を守る方法が必要です。」

「ペストは必ずしも動物由来じゃないけど、その辺は調べてきた?」

「えっと、えっと…!!」


 うん…ごめん…私がちょっと意地悪だったね…。ペストなんて今日び一般的にはお目にかかれないもんね…。


「はは、ペストは流石に調べてないか。ペストはね、元々の宿主のネズミからペスト菌を含んだ血を吸ったノミが媒介することで起こる場合と、肺に及んだペストが咳とともに撒き散らされて、それを吸入して起こる場合があるのよ。」

「先輩、すごーい…!」

「いやこれ看護学校でやったでしょ?」

「「「覚えてませんでした!」」」


 何で千早ちゃんまで声を揃えてんのよ?!


「二人はともかく、私は五年も前のことなんで記憶の彼方です!」

「千早ちゃん…ドヤって言うことじゃないよ…。」


 ……さて、ペストの話は置いといて。

 次はウイルスについての話を進めよう。


「それじゃー次ね。久美ちゃん、ウイルスの感染症で一番厄介なのは何だと思う?」

「え、えっと……やっぱり、重症化すること、ですか?」

「それもそうだけど、もう一つ。……もし、皆が『どうせみんなかかるんだし、かかった方が免疫ついてラクでしょ』って油断して、感染を繰り返したらどうなると思う?」


 久美ちゃんは少し考えて、「うーん……集団免疫ができるんじゃないですか?」と首を傾げる。

 その隣で、千早ちゃんが腕を組んで溜息をついた。


「久美ちゃん、ウイルスはね、増殖する『機械』じゃないのよ。」


 私がレジュメの端っこに、ウイルスが細胞の中でコピーされていく模式図をササッと描く。


「ウイルスっていうのは、細胞に入り込んでコピーを作らせることで増える。でも、そのコピーの過程で、一定の確率でエラーが起きるの。それが『変異』。感染する人数が多ければ多いほど、ウイルスがコピーされる回数も天文学的に増えるでしょ?てことは?」

「……あ。」


 久美ちゃんの顔に、さっきまでとは違う真剣な驚きが浮かんだ。


「そう。私たちがウイルスを身体に入れて、体内で何億回と増殖させるたびに、ウイルスは『次回の最強の姿』になるチャンスを掴んでるようなものなのよ。『かかってもいい』じゃなくて、『かかるたびに進化の実験台を提供してる』ってこと。そんな風に考えたこと、ある?」

「……全然なかったです。」

「インフルエンザもコロナもそう。ウイルスを変異させてワクチンを効きにくくしたり、もっと感染力強くしたりしてるのは、誰でもない、無防備に感染を繰り返す私たちなんだよ。」


 シーンと静まり返るステーション。

 ペストの話ではふざけていた千早ちゃんも、今は神妙な顔でペンを握り直している。


「……だから、医療従事者である私たちが一番気を抜いちゃいけない。私たちが運んだ先でウイルスが変異したら、それこそ一番守らなきゃいけない患者さんが、一番割を食うことになるんだからね。」

「……はい!……気を引き締めます!」


 久美ちゃんが真剣な顔で頷く。


「それとね。逆に言えば、ウイルスはそれ単体では増殖も変異も出来ないの。感染を抑え込んで変異のチャンスを減らすことが対抗策にもなるのよ。」

「ってことは…!ワクチンがあるウイルスなら、ワクチンを打つことで個体での増殖を抑えられるし、伝播も抑えられるから変異も起きにくくなるってことですね…!」

「ビンゴ。実際にワクチンで撲滅できた感染症があるわよね。」

「私、それなら知ってます!天然痘ですよね!」


 お。奈緒子ちゃんも前のめりになってきた。いいぞいいぞ!


「そう。ウイルスには色んな種類があってそれぞれに特性もあって、実は天然痘みたいに上手くいく方が珍しいの。」

「そういえば、内科の先生がコロナの出始めに予言してましたね。これからコイツは弱毒化してインフルみたいな立ち位置に収まってくるって。この伝播速度と感染しやすさ、変異の速さはインフルよりエゲツないけど、だからこそ致死率が高いままでいるはずないって言ってました。」

「確かに、その通りになってきてますね、先生すごい…!」


 うんうん、私も説明と仕組みを聞いたらなるほど…!ってなったなぁ。ただ、そのオチがね…。


「私もそれ聞いたけど…それね、スマホのゲームで確信したって言ってたのよね。」

「「「へ???」」」

「伝染病の立場になって、人類を滅亡させるゲーム。」

「そ、そんなゲームあるんですか…?!」

「私もやってみたけど、勝確パターン決まっちゃってて今はやってないわ…。」

「あー……。」

「つまり、そのパターンがコロナの戦略というか、今までの流れとバッチリ合ってたのよね。だからゲームと言えど侮れないのは確かよ?」

「…私、それやってみたいです。あとで教えてください!」


 おー、奈緒子ちゃん乗り気だね!おねえさん嬉しいよ!


「さて。今日は時間も時間だし、この辺にしとこう。次の課題に向けてまた勉強し直そうね。私も資料もう一回見直しとかないとだし。」

「先輩それ以上詳しくなってどうするんですか…私たち追いつけないじゃないですか!」


 へにょりと情けない顔になる千早ちゃん。


「この世界、これで良しって思った瞬間置いてかれるのよ?私に張り合うんじゃなくて、後輩に追いつかれないように努力しなさいよ。」

「むー…!勉強好きじゃないのに…!」

「「私もです…!」」


 正直者か!


「勉強だと思うからしんどいのよ。楽しみなさい、知ることを。仕組みを知って、現場とリンクさせて、身体に染み込ませて…そしたらもっと知りたくなるから。」

「それが一番難しいんですってば!」


 そうかなあ?


「じゃ、次は細菌についてと抗生剤をメインにしよう。そしたら現場でもっと役に立つから楽しくなるよ?」

「ダメだ、先輩のステージが違いすぎる…!」

「でも、私、先輩のステージまで頑張りたい…!」

「そんな御大層なもんじゃないよ。でも、楽しみながら頑張ろうね。」

「「「はーい!」」」


 今日の内容を口々におさらいしながら帰り支度する久美ちゃんと奈緒子ちゃんに、ハッパをかけつつ自分も、と気合を入れる千早ちゃん。今日は参加出来なかったけど、と資料を欲しがった後輩たち。


 私がかつて受け取って肉付けしたバトンを、今度は私が彼女たちに渡す。

 彼女達は、十年先、二十年先の後輩たちにもっと豊かになったバトンを渡してくれる。


 …そう、確信出来た。今日の一杯は格別な味になりそうだ。ツマミを何にするか悩みながら、私も帰り道を急ぐのだった。

用語解説


STD

STD(性感染症:Sexually Transmitted Diseases)は、性行為(膣性交、口腔性交、肛門性交)を通じて、病原体を含む精液、腟分泌液、血液、粘膜の接触により感染する病気の総称。古くから知られているものに梅毒、淋病、クラミジア、尖形コンジローム、新しいものにHIV(AIDS)等がある。自然治癒するものはないため、医療機関でしっかりと治療する必要がある。


ワクチンと集団免疫:

ワクチンは個人を守るだけでなく、集団全体での感染拡大を抑える効果がある。ウイルスの増殖機会を減らすことで変異のチャンスも減らせるため、「自分は若いから大丈夫」と考えずに接種することが、社会全体を守ることに繋がる。


天然痘撲滅:

1980年、WHOが天然痘の世界根絶を宣言。人類がワクチンによって撲滅できた唯一のウイルス感染症。徹底したワクチン接種と感染者の隔離により達成された、医学史上最大の勝利の一つ。

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