言えなかった言葉
「俺はね、亭主関白だったよ。奥さんも子供も俺の言う事聞くのが当たり前。」
そう話す痩せた老人の顔色は悪かった。
「でもさ、今じゃそういうのは流行らんらしいね。俺もこの通り一人だよ。」
「奥さんたちは…?」
「出てっちまったよ。そりゃそうだよな。何やってもかにやっても文句しか言わねえクセに何にもできないヤツなんぞ、社会じゃ厄介な鼻つまみモンだからな。」
「自分で言っちゃうんですか。」
「言っちゃうよ。誰も言ってくんねぇからな。」
ははは、と笑う顔には寂しそうな影は見えなかった。
苦笑しながら検温する私に向かって、彼はいたずらっぽい口調で続けた。
「どうだい、結婚する当てがないなら俺がもらってやろうか?」
「やー、自分で稼いで食べられるんで結構ですー。」
「フラれちゃったなー。」
「さっきの話の流れから言ったら、不良債権って自白してるじゃないですか。どうしてオッケーしてもらえると思ったのかわかんないですね。」
「ほら、一回失敗して学んだから次は大丈夫ってなんない?」
「なんないですねー。…はい。血圧、今日は大丈夫そうですね。」
血圧計を外して電子カルテのワゴンに戻すと、彼の痩せた腕を布団の中に戻した。
反対側の腕のシャントに聴診器を当ててシャントのスリル音を聴く。…うん。良い音だ。
「それじゃ、もうすぐ穿刺に来ますから。」
「今日も頼むよ。ドライウェイトまで抜ければ良いんだけどな。」
「こないだみたいにラーメン食べたりしてなければ大丈夫じゃないですか?」
「あー…うん。頑張るわ。」
呆れた私がジト目で返すと、そっぽを向いてバツが悪そうにしている。
「豚骨?醤油?味噌ですか?」
「…お見通しだなぁ。醤油ラーメンだよ。駅前の。」
「美味しいですもんね。…透析してるんでなければ。」
参ったな、と頭をかきかき苦笑していた彼は、二ヶ月後に自宅で亡くなったそうだ。
透析患者の死因の多くは心不全や感染症だが、彼も心不全を合併していた。おそらく心不全から動けなくなり、脱水を起こしていたのだろう。通院補助のサービスを受けていたために倒れてからの発見は早かったが、既に心臓は止まっていたと聞いた。
本当は、一緒にラーメン食べに行けたら良いですねって言いたかった。
ラーメンを食べながら、別れた奥さんやお子さんたちの話を聞かせてもらいたかった。
失敗から学んで、人を思いやる気持ちを身につけた彼と話すのは存外楽しかったのに。
「そういうとこ、ですよ。」
ぽつりと呟いた言葉は誰の耳に留まることもなく夜の風に消えていった。
用語解説
人工透析
腎不全や腎臓摘出を受けた人が、生きるために血液中の老廃物や余分な水分を人工的に体外へ排出する治療法。週に3回、半日かけて受ける血液透析と毎日腹腔内に透析液を注入して排出する腹膜透析がある。自力で水分や老廃物を体外に出せないので塩分制限や水分制限がかなり厳しい。
シャント
血液透析を受けるためには、太い血流の豊富な血管が必要となる。大抵は腕の静脈と動脈を繋ぎ合わせて動脈血を静脈に流すシャント造設術という手術を受ける。二の腕などにもりもりとした太い血管が浮き出てくるが、ぶつけたりすると大出血を起こすので扱いに注意が必要。シャント音は動脈血がしっかりと流れているか確認するために毎回聴診器で聴く。
ドライウェイト
透析で水分を排出する量を決めるための基準体重。本人の身体状況によって変更される。ドライウェイトに対してどの程度体重が増えたかによって透析の内容(水分や老廃物をどの程度排出するか)が決定されるが、水分を抜けば抜くほど血圧が下がってしまい体調が悪くなりやすい。なのでどのくらい水分の増加を減らせるか=水分制限を守れるか、が肝となる。




