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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
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35/41

I didn't notice,So I regret that day.


 登場人物:染井美依、末路なのは

「さ、入って入ってなのちゃん! 今日は両親とも夜まで帰って来ないのですよ! 好きなだけお喋りできるです!!」


 玄関のドアを開け放って第一声。元気よく喉から飛び出したご機嫌な声に、ドアの向こうでショルダーバックの位置を調節していた大親友――末路なのはちゃん、通称なのちゃんは「今日も元気だねー、美依ちゃんー」といつも通りの呑気な調子で返してくれた。ふわ、と緩く微笑み片手を上げた彼女は、今日もお気に入りの蛍光色のジャージを夏服の制服の上にわざわざ羽織ってやってきたらしい。この八月の炎天下、よくもまぁそんな格好が出来るよね、とクラスメイトにはよく呆れられる彼女だけど、かくいう僕も私服は全部ポンチョで統一という自分でも変だと思うファッションセンスの持ち主なので人のことは言えない。


 今日のポンチョは淡い桜色。今年の頭に買った品だけど、中々肌触りが良くて愛用しているものだ。「おはようなのちゃん!」と遅ればせながらに挨拶しながら片手を上げた動作に合わせて、白いファーのついた裾がふわりと揺れた。


「美依ちゃん、話し放題も何も、今日はお勉強会だよー? 忘れちゃったのー?」


「勿論忘れてなどいないですよ? でも飽きたらお喋りできるです! 今日はお喋りしてても、怒る人は誰もいないのですよ!」


「そりゃー美依ちゃんは成績いいからいいけどー……むー。わたしの成績が下がったら、美依ちゃんのせいだからねー」

 

 そうは言いながら声に批難の響きはない。どうやら相手も喋る気満々らしいと悟り、僕は満面の笑みを浮かべた。友人と勉強会――と称したお遊び会を開くのは、もう小学校の頃からの定番だ。夏休み中盤の近い八月となれば、僕も彼女も、そこそこ課題は片付けてしまっている。今日は僕が彼女に古典を、僕が彼女に理数系の課題を教え合うという体裁を取ってはいたけど、多分まともに勉強はできないだろう。それでも僕は一向に構わないのだけど。


 なのちゃんを家の中に招き入れて、先に二階の自分の部屋へ通す。高校に入ってから三年間、ずっと仲良くし続けていて「コンビ」扱いされることも多く、またお互い大親友の称号を授け合っている仲だけあって、なのちゃんは勝手知ったる様子で階段を上っていった。その足音を背景に僕はキッチンに駆け込み、グラスコップに透明色の氷を三つずつ投入。引き続いて冷蔵庫から炭酸飲料と林檎ジュースを取り出して盆の上に乗せた。千五百ミリリットルの大きいペットボトル二本となるとそこそこ重量があるのだけど、僕はちょっと平均より力持ちなので大きな問題にはならない。ひょいと盆を持ち上げて階段を上り、自分の部屋の前に辿り着いた。


 よくある中流家庭に生まれた僕の部屋は、広すぎず狭すぎない適度な広さを持っている。ドアの反対側の窓際にベッド、壁の両際にはちょっと大きめの本棚と小さめのテレビ、パソコンラックが据え付けてあるのが僕の部屋だ。これが普通の同い年の女の子だったりすると、本棚の中は少女漫画とかファッション雑誌で構成されていたり、チェストの上にはお洒落なランプとぬいぐるみが並んでいたりとかしちゃうのかもしれないけど――僕の部屋は、ちょっと違う。


 なのちゃんは部屋に来るなり早速、ローテーブルの下に敷いたクッション材質のラグに座り込んで、本棚の中から一冊抜き出していたらしい。ドアを開けた僕となのちゃんとの目が合って、次に僕の目が彼女の持つ本の表紙に向いた。そこには案の定、なのちゃんが最近ハマりだと話していた、ダークファンタジー系のライトノベルのタイトル。げ、と悪戯がバレた子どもみたいな顔をした彼女に、思わずため息が零れた。


「なのちゃんこそ勉強する気まったくないじゃないですかぁ!? それ読み始めちゃったら勉強できないですよ! それともあれです、なのちゃんはラノベぱらぱらしながら勉強もしゅぱぱぱっと出来る天才君ですか!?」


「えー、だって続き気になってたんだもんー。何だかんだ言いながら入荷してる美依ちゃんが悪いー」


「なんつー責任転嫁です!? っていうか自分で買おうって風には行かなかったんですね!? まぁそのシリーズが面白いのは確かですけど、まずは勉強が先なのですよ!」


「さっきは飽きたらお喋りって言ってたのにー、ぶー」


 渋々、と言った調子でなのちゃんは本を棚に戻し、それから尚も不服そうに僕を見上げた。駄目駄目、と首を横に振るとようやく諦めたらしく、未練がましくちょいちょい本棚に向けて動いていた指先を強制的に止めるとローテーブルに向き直る。


 僕はお盆をテーブルに置くと、視界に入った本棚をそれとなく見上げた。溜まりに溜まった蔵書の数はもう三百に及ぶかもしれない。所狭しと並べられた本は多くが文庫サイズで、珠に漫画が見受けられる程度。……しかも、並んだ漫画は少女漫画などではなく、勿論文庫サイズの本たちは日本が誇る文豪たちの高尚な小説などではない。


 いわゆるライトノベル。それが僕の本棚の実に九割を席巻しているのだ。

 ジャンルはいわゆる学園物だけに限られず、ハイファンタジー、ローファンタジー、SFチックな世界観がウリのものからホラーまで、統一性という言葉のかけらもない本たちが並んでいる。背表紙に書かれたタイトルも、短かったり長かったり、当て字だったり横文字だったりと多種多様だ。自分で言うのもなんだけれど、天井近くまでの高さがある本棚に両側を囲まれたこの部屋は、その本棚の威容に気圧されてすっかり萎縮しているように見える。慣れ切ってしまっている僕やなのちゃんはともかくとして、簡単に友達を連れてこられる場所でないのは間違いない。そして勉強するにはあまりに向いていない空間であるのも、間違いない。


 そもそも勉強場所に図書館とかフードコートを選ばなかった時点で、僕ら二人の勉強に対する本日のモチベーションの低さは一目瞭然だ。二人とも成績が低いわけじゃないけど、勉強が好きなわけでは決してない。勉強なんかしなくていいのなら一生したくない、というのが僕たちの共通見解だ。だけどいくらそう考えていても、学生という身分でいるうちは勉学からは逃れられないのである。


「まぁー、しょうがないからそこそこ頑張ろっかぁー」


 心底めんどくさい、勉強したくないオーラを放ちながらも、建前だけはそんなことを言ったなのちゃんは、自分で取り出した古文のテキストを見てうんざりした顔になった。


 高校三年生は第一志望の大学入試の受験科目に応じた科目を取ってカリキュラムを組むのだけど、なのちゃんは不思議なことに理数系が得意なのに文系科目を取っている。将来が決まっていないのか、と前に尋ねたら、「そんなことはないよー」とほのぼの返されたっきりで、結局どういう進路を取りたいのか話してくれたことはない。


 長い付き合いだから、なのちゃんのことは大体分かっているつもりだ。なのちゃんは基本的に嘘をつかないし、誤魔化すこともしない。だから、「そんなことはない」というなら「そんなことはない」のだと僕は納得して、請われるがままに古典を教えたりしているのだった。


 腑に落ちないところがない、と言えば嘘になる。進路が決まっているんだったら僕に話してくれないのはどうしてだろうと思うし、かといって決まっていないというには妙な態度ばかり。高校三年生の夏になってもどっちつかずのなのちゃんの言動は正直煮え切らないし、何かを僕に隠しているだろうと予測するのは容易だ。それは悲しいことだけど、反面僕はしょうがないことだとも思っていた。


 たとえ大親友であろうと、恋人であろうと、家族であろうと、絶対に話せないことというのは誰しもが持っているんだから。


 世界中の誰もが、誰にも言えない秘密を抱えて生きている。

 自分を包み隠さずに生きていられるほど強い人間なんて、きっとこの世のどこにだっていない。

 もしそんなのがいたとしたら、僕らはただの出来損ないに成り下がってしまうんだろうから。


「うん、そこそこ頑張ろうですよ! すっぱぁぁぁぁんと片付けてお喋りタイムにしようです!!」


 僕は直前まで頭に浮かんでいた仄暗い気持ちを誤魔化すように、にっこりと笑った。



■ □ ■



 僕の将来の夢は高校教師……ということに、なっている。

 その夢をかなえる為には当然ながら、教員免許を取得しなければならない。

 高校三年生という身分の僕からして、教員免許を取るための一番の近道はやっぱり大学進学だ。決して家が裕福なわけではない僕だから、本来は大学なんか行ってないで働いたほうが家のためなんじゃないか、とも思う。……だけれど、大学進学率八十パーセントとそこそこ進学率の高い高校に進学してしまった僕にとって、就職を選ぶのはちょっと不安なことだった。


 周りの誰もが大学へ行くことを当然だと考えている。人生設計なんてことをクラスメイトたちがしているのかは定かではないけど、なんとなく――そう、『なんとなく』、大学へ行くのは自分たちの人生で最初っから定められた確定事項のような、そんな振る舞いをする子が多い。


 とりあえず大学に行って、国立なり私立なりで四年間を過ごし、そうしてから就職をして。それが当たり前の人生で、この高校にやってきた自分たちに用意されているレールだ。そんな風に考えている子がやたらと多い気がする。


 理由はどうあれ、大学進学希望者ばかりが寄り集まるような僕の高校で、就職を選ぶものは二十パーセント。多いのか少ないのか僕には分からないけれど、僕の話したことのあるクラスメイトたちや友人の中に就職希望者は誰も居ない。将来の目標がくっきりと定まっている子や、そうではないけど周りに合わせて、なんて消極的な気持ちの子もいたけれど、手に職就けようという子はだれもいないのだ。


 それを知ってしまうと、なんだか無性に怖い気持ちになってしまった。

 

 周囲の輪から外れるのが怖い、と思った。誰もが当たり前のように取っている進路を自分が取らない、それは即ち周囲と「違う」ことだ。誰かと違うことは怖いのだ、と僕は知っている。中学時代に僕のオタク趣味が周囲に露見したときの、遠まわしに避けられて距離を置かれるあの感覚――それを思い出すだけでも寒気がしてくる。もうあんな思いは二度としたくない。


 だからこそ、高校に入ってからは趣味を隠してきた。それなのに進路でまた、皆と違うことを選べるような勇気は僕にはない。大袈裟で馬鹿馬鹿しい被害妄想だって分かってはいるのだ、進路が少し違ったくらいで避けたりするほど子どもっぽいクラスメイトじゃないことくらい、僕だってもう十分に分かっている。


 それなのに、いつまでも過去に怯えて、「周囲と違う」ことを怖がっている僕は随分と臆病だ。臆病で卑怯だとも言える。しかもそれがバレないように、別に志してもいない高校教師なんて職業を、将来の夢なんてご立派な物に仕立て上げて隠蔽工作までしているのだから、自分でも笑っちゃうくらいに用意周到。実に計画的に、自分を偽っている。


 さてそれでは、僕に将来の夢があるのかと言われると、実は答えられない。そう、僕は明確に志す「将来」を持っているわけじゃないのだ。


 将来の夢もないくせに将来の夢を騙り。

 親を安心させるために働くのでもなく、自己保身のために進路を選んで。

 自分に嫌気が差すくらい、僕は、身勝手だ。


「――どーしたの美依ちゃん。手、止まっちゃってるよー?」


 どうしてだか分からないけれど、その声に息が詰まって、ようやく僕は我に返った。

 ぱち。ひとつ瞬き。いつの間にか茫洋として焦点の合っていなかった視界が刹那の間に色彩を取り戻していた。目の前の数学の問題集は、勉強会の初めに開いたページのまま。ページの半ばまでが埋められてはいたけれど、そこから先は全部まっさらだった。


「……あれ」


「美依ちゃんってばー、全然進んでないじゃん! わたしなんか五ページも進んじゃったよー? しかもこんなー、初歩の初歩でー。いくら数学が苦手だからってー、解けない問題じゃーないでしょー?」


 ぱち。また瞬き。なのちゃんの言う通り、僕の手が止まっていたのは高校一年生の基礎問題がベースの基本問題で、どうして手が止まってしまったのか自分でも分からない。もう何度か瞬きを繰り返してそれを確認してから、僕は慌てて空笑いした。


「あっはは、どうしたですかねー、僕! 昨日の夜うっかりゲームしすぎたんですかね! 三日前に買ったソフトの進みがいい感じだったから、ついやり過ぎちゃって母さんに叱られたですー」


「へー、何時まで起きてたのー?」


「……えっと、三時くらいまで」


「ふぅん。美依ちゃん、嘘をつくならもっと上手くつこうねー」


「――え」


 ぎょっとして僕が目を見開きなのちゃんを凝視すると、なのちゃんは悪戯っぽく目を細めて口角を上げた。企むように不敵に微笑むそれは、なのちゃんの特徴的な笑い方。一瞬その笑みに、どきりと心臓が悪い音を立てた。


 まるで全てを見透かす占い師のような、そんな不思議な眼差しだった。普段は呑気で、緊張感をまるごとどこかに置き忘れてきたような振る舞いばかりをする、いかにも鈍そうななのちゃん。だけれど僕は、彼女は本質的に鋭い人なのだと時折思わされることがある。


 例えばそう、こういうとき。


 なのちゃんはガサガサ自分の鞄を漁って何かを探し出すと、得意げな笑みを浮かべてその何かをぐいっと突き出した。蛍光イエローのハードカバーを嵌めてある携帯端末に表示されていた液晶画面には、今となっては大勢の人に普及したSNSのやり取りの記録。


「美依ちゃんが起きてたんならー、わたしが夜中の二時に送ったSNSの返信が朝になってから来るわけないもんねー。なのちゃんは、起きてる間は端末手放さないもんー。この時間には寝てたっていう確たる証拠だねー」


 うぐ。言い返す言葉もなく、僕は決まり悪くなって唇を尖らせた。

 なのちゃんの言う通り、夜型の生活が基本になっている僕にしては珍しく、昨日は十一時には眠ってしまったのだ。瞬殺でなのちゃんに嘘がバレてしまった。いつもはあんなのんびりしてる癖に、どうしてこうも要らないところで鋭いのだ。少々理不尽な気持ちでなのちゃんを睨むと、彼女は一転して陽だまりのような笑顔を浮かべる。


「まー、美依ちゃんって、すぐ自分の世界入っちゃうもんねー。ゾーン突入? 的な? そういうこともあるよー、だいじょーぶだいじょーぶ」


「ゾーン突入って、僕はいったい何の特殊能力に目覚める予定なのです!? 急に見えちゃいけないものがばばばばあぁぁぁぁんッと見えたりし始めるんです!?」


「んー。ほらー、例えばー、魔法が使えるようになったりとかー」


「魔法ー? ゾーン突入で魔法って、それなんかショボくないです?」


 なのちゃんが思案顔で言った台詞に、僕はそう返す。ゾーンって言えば、ライトノベルや漫画で多いのは「既に何かしらの特殊能力に目覚めている状態で、更に特殊能力がパワーアップする」状態のことを指すことが多い。特殊能力のもう一段階上、ということだ。一定時間しか使用できなかったり、その状態になることで何かしらの代償を支払わなければならなかったり、作品によって差はあれどもパワーアップを指す用語であるのは間違いない。


 僕はただの平凡な女子高生に過ぎないし、そもそも物思いに耽っていただけなのに、それをゾーン呼ばわりされては悲しいだけだ。そしてもしその物思いに耽ることが「ゾーン突入」なんだとして、その期間に魔法が使えるようになるだけ、というのはちょっとばかし寂しい気がする。


「魔法と言ったって色々種類があるのは分かりますけど、火の玉飛ばしたり水操ったりするくらいだったら、ゾーンって呼び方は嫌ですよ! せめてノーマルモードです!!」


「あははは、冗談だよー、冗談。でもさー、魔法が使えるってすごいことだよねぇー。だって他の誰にもできないことができるんだよー?」


 僕の言い分をさらっと「冗談」で受け流して、なのちゃんはそんなことを言う。


「その魔法がどんなものでも……たとえ地味だったりー、目に見えなくてもー、他の人にできないことができるってすごいことだと、わたしなんかは思うのだよー。見えない何か、にもきっと、意味はあるんだと思うんだよねー」


「……? 見えない何か? それは世に言う『心』とかのことです??」


 セオリーに従えばそんなところだろうと思って僕が問うと、なのちゃんはふ、とまた笑い方を変えた。その笑みに、僕はほんの一瞬だけ身を竦める。

 

 なのちゃんのその笑顔は、これまで一度も見たことない笑みだった。

 穏やかなだけではなく、まるで何かの決意に満ちたような、不思議な笑顔だった。


「ううん、透明人間の話ー」


 にこ、と笑ってなのちゃんはそう告げた。

 え、と呆気に取られる間もなく、なのちゃんは「じゃあ一回休憩にしようかー。ねー、相談に乗ってほしいことがあるんだけどー」と手早く話題を切り替えた。まるで彼女らしくない性急な話し方。どうしてだろう、言い知れない違和感を感じながらも僕は大人しくシャーペンを置いて、なのちゃんに向かい合った。


「あのねー、最近従兄弟経由で知り合った子のことなんだけどー」


 なのちゃんはさっきの「透明人間」の一言なんてまるでなかったかのように、平然と続ける。ジュースを注いだコップ片手に片肘をつきながら話すなのちゃんは、まるでいつも通りだった。


 なんだ、さっきの違和感は、きっと気のせいだ。

 僕はそれを見て、そうすんなり納得した。なのちゃんはマイペースな子だ。たまに僕には辿り着けないような思索の答えを出したり、考えるのも大変そうな哲学みたいなことを、今日の朝食のメニューみたいに平然と喋り出すこともある。きっと、さっきの透明人間発言だって、その類だったんだ。あっさりと思い至る。


 きっと、僕の考え過ぎ。


「ふんふん。従兄弟くん、というと彼ですね? 運動がめっちゃくっちゃ得意だけど勉強がハイパー苦手で、だけど根っからのお人よしの」


「うんー、そう、その子ねー。でさー、その子経由で知り合った子がいるんだけどねー、その子にわたし、ちょっと頼みごとがあってー。なんだけどさぁー、その子が全然取り合ってくれなくてー」


 ちょっとくらい話を聞いてくれたっていいのにねぇ。なのちゃんは拗ねたようにそう付け足して、コップの中の透明な炭酸飲料を一気に煽る。気がつけば、持ってきたときには満タンだった四つの矢がモチーフに採用されている炭酸飲料のペットボトルの中身は、もう半分を切っていた。勉強会を始めてまだ二時間しか経っていないのに、随分と消費が早い。対して、主に僕が消費する側に回っている林檎ジュースは殆ど減っていない。


 ダンッとコップをテーブルに置いたなのちゃんは、彼女にしては珍しく愚痴るような調子で肩を竦めてぶつぶつと言葉を並べ始めた。


「えっと、年は十二歳の男の子でねー。眼鏡でいかにも頭良さそうでー、しかも学級会長までしちゃってる子なんだけどー。その子がねー、こっちの話全然取り合ってくれないのー! 『馬鹿か貴様、そんな頼みを引き受けるほど俺は酔狂じゃない!』とか怒鳴られちゃった……。貴様とか酔狂とか、普通そんな言葉使わないよねー、小学生」


「……うん、使わない……何ですか、そのずどどどどどぉんと感じの悪い言い方は!小学生の生意気の粋超えてるですよ!?」


「でしょー。高校三年生のおねいさんが、必死になって頭下げてるのにさー、『ふざけるな、俺は暇じゃない。帰れ』の一点張りなのー!」


 むっすー。機嫌悪そうに眉間に皺を寄せるなのちゃんなんて滅多に見ない。どうやら、その少年がお願いごととやらを取り合ってくれないのが大層お気に召さないようだ。


 僕は大いに興味を惹かれていた。小学生でそんな言葉遣いをするマセガキに関してもそうだけれど、なのちゃんがそこまでしてその子に頼みたい事柄というのが何なのか、とっても気になったのだ。手元のコップを取って林檎ジュースで喉を潤してから、僕は身を乗り出して尋ねてみることにした。


「それでそれで、なのちゃんはその子に何を頼みたいんです??」


「ん? ……んーとね、絵を教えてもらいたくて!」


「……はへ? 絵?」


 思わぬ解答に、僕はぽかんとした顔で反復した。絵。絵。……絵?


「絵、って……なのちゃん、絵なんか描くですか?」


「え? あー、そっかぁー、言ってなかったよねぇー。私実は漫画描くの好きなんだよー」


「なっなななんですとぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」


 勢い余ってガタンっとテーブルに膝をぶつけてしまったが、それを気にすることも出来ずに僕はまじまじとなのちゃんを見つめた。なのちゃんは相変わらずぽわぽわと花を散らしたようにニコニコ笑んでいる。どうやらさっきの言葉は嘘でも冗談でもないらしい、と数分かかってようやく悟り、僕は恐る恐る更に尋ねた。


「い、いつから、かっ描いて……?」


「んー、あれー、いつだったかなー。中学生の頃にはもう描いてたかなー? 漫画描くの楽しいよー」


 衝撃の事実。

 大親友は漫画描きが趣味でした。


 あまりのことに驚いて声も出なくなった僕を見て、なのちゃんはくすりと笑う。それからシャーペンを手にとって問題集をどけ、ノートを広げるとおもむろにペンを走らせる。


 無造作にペンを動かしているようにしか見えなかった五分七秒後、なのちゃんはシャーペンを放り投げてノートの片隅を指差した。


「ふふふー、そこそこ上手いでしょー」


 ちょっと嬉しそうに言うなのちゃんの指先。そこに描かれていたイラストを見て、僕は思わず「わぁ……!」と声を上げた。


 ただの罫線しか書かれていなかったノートに、たった五分の間で可愛い女の子が姿を現していた。ふわふわした緩いウェーブヘアに、優しげな眼差しの双眸、斜め線で彩られたカーディガンにロングスカート。口元を隠すように当てられた手は素人にありがちに歪んでもいなくて、パッと見なんの違和感も感じないくらいに上手い。というか、個人的にだけれど、


「何この子ちょーーーーーーーうぜっつ可愛いじゃないですか……もう今からマイエンジェルって呼び称えるです……可愛い可愛い可愛い……」


 そう、めちゃくちゃ可愛い。

 少女漫画チックに瞳は大きめに描かれているけれど、過度に大きいわけではない。全体的によくバランスが取れていて、イラストなのに何だかやたらと感動した。こんな可愛い子が二次元以外にいるならぜひ会いたいと思っちゃうレベルだ。僕の親友は知らない間に、こんな技術を身につけていたらしい。


 ノート上のその娘をガン見しながら手放しに褒めまくる僕に、なのちゃんは照れたように頬を赤く染めて、


「やー、この娘はちょっと顔を見たことがある子を参考にさせてもらったんだー。二つか三つ年下なんだけどねー、可愛かったからついー」


「ぇぇぇぇぇ!? こんな可愛いエンジェルがこの街にいるんです!?」


「あー、ここじゃないよー。この前お出かけしたときに見たのー」


「う……じゃ、じゃあ会えるわけじゃないのですね……」


 がくりと肩を落とした僕に、なのちゃんは「絵なら幾らでも描いてあげるからさー」なんてことを言って、また炭酸飲料を飲んだ。


 いつかもしこのイラストの女の子レベルに可愛い娘に会えたなら、その娘をマイエンジェルと呼ぼう。心の中で迷いもせずにそう決めて、僕は「じゃあ後で十枚くらい描いてくれるですか」と林檎ジュースを飲みながら尋ねる。「そのうちねー」「今日中」「それは無理ー」あっさりすっぱりそう切られて、また私はガクッと項垂れる。


 だけれどなのちゃんはそんな私を華麗にスルーして、「それでー、話の続きなんだけどねー」と簡単に話題修正した。


「その子ねー、えっとー、すっごく色塗りが上手でねー。わたしどうしても上手く色を塗れなくってさー、だからー、塗り方教えてもらおーと思ってー」


「……な、なるほど……??」


「特にねー、色の重ね塗りが得意なんだってー。塗り潰しちゃうのー、綺麗さっぱりー。本人はその特技はー、あんまり好きじゃないみたいなんだけどさー」


 ほむ。それがなのちゃんが小学生男子に頭を下げてまで知りたかったこと、か。


 僕は知らなかったけれど、なのちゃんはきっとその漫画を描くことがとっても好きなんだろう。でなければいくらなのちゃんでも、小学生男子に頼み込んだりしないだろう。余程その子は色塗りが得意なのか、それとも色塗り教本を買うことも出来ないくらい家計が危ういのか。幼い頃両親が離婚したというなのちゃんの家はシングルファザーで、色々やりくりが大変なのだとうっすら聞いた記憶がある。私と同じくバイトをしてはいるけれど、なのちゃん家のお父さんはあまり稼ぎが良くないらしく。


 もし何か手伝えるなら、と思ったけれど、あいにく僕はイラストはからきしなので色塗りなんてもっての外だ。どうやら何も手伝えそうにない。ちょっとしゅんとして手伝えない悔しさを噛み締めていると、なのちゃんはまるでその反応すら見越していたように、にぃっと笑った。


「でねー、その子にうんと言わせるにはどうしたらいいかー、美依ちゃんに相談に乗って欲しくてねー! いいかなぁー?」


「……! 僕でよければっ!!」


 がたがたっ。またテーブルに膝をぶつけて、問題集の周囲に散らばっていた消しカスが跳ねる。だけどそれも気にせず、瞳を輝かせてなのちゃんの手を取ると、なのちゃんは照れくさそうに笑った。


「ふふふー、ありがとうー、美依ちゃんー」


「いやいや、僕にできることなんて全然ないですから! これからも僕で良ければどっしどっしじゃんじゃんぽんぽん相談するといいです! 僕はしがない女子高生ですが、できる限りのことはしたいのですよっ!!」


「うんー、頼もしいなー。美依ちゃん、ありがとうね」


 にっこり。微笑んだ彼女につられて僕も笑う。唯一無二の大親友の相談事、一緒に悩むくらいしか出来ないなら、とことんまで考えてやる以外に何の選択肢があろう? 僕は早速勉強では発揮されないレベルで頭をフル回転させて、解決策を考え始めていた。


 ――なのちゃんのその微笑は、どこか物悲しかったことに気付きもせず。


■ □ ■


 目を覚ました途端、頬の違和感に気づいた。

 

 両頬に何かが伝ったような形に、かさかさと乾いた感触。それが何か、なんて鏡を見て確かめるまでもない。ぱち、ぱち、ぱち。何度か瞬きをして、視界に映る天井がぼろく傷んだ薄汚い壁紙であることを認識してから、僕は布団からもそもそと這い出た。


 手早く布団を畳んで部屋の隅に積む。あの頃と違ってひとり暮らしを始めた僕の部屋は、壁も薄くて窓のサッシも錆びかけているような、およそ女子大生のひとり暮らしの部屋というには夢の欠けた場所だ。


 家賃月額一万二千円の格安物件。間取りは縦長で、台所とトイレはあるけれど風呂はないから銭湯に通わなくてはならないし、コインランドリーに洗濯物は頼っている。部屋にあるのは畳まれた布団と、簡素なちゃぶ台、大学で使うテキスト類を仕舞ったカラーボックスと冷蔵庫に箪笥くらい。あとは通学用にと使っているバッグに入った薄いノートパソコン。


 あの頃に比べれば、随分持ち物が減ったなぁと思う。部屋の壁にそびえていた本棚に並んだライトノベルは、家を出た三年前に全部売り払った。ゲーム機もソフトも全部売った。一切の迷いなく、欠片も動じることなく、売っぱらって中古の烙印を押した。


 あの娘の好きだったダークファンタジーライトノベル。ある場所でしか生きられない呪いをかけられ、世界から弾き出されて行く魔法使い達の運命を描いた、全八巻の物語は、


 魔法使いたちが全員死んで終わり、


 全巻セットで買取価格は千円もしなかった。


 僕は顔を洗ってから壁にかけてある時計を見た。時刻は朝七時、大学の講義に出かけるにはまだ少しばかり早い。さて、どうしようか、と思ってすぐ、この時間でもあの場所でなら既に起きている人がいることを思い出した。


 寝巻きを何の未練もなく脱ぎ捨てて、箪笥からショートパンツと長袖のシャツを引っ張り出し、それからポンチョを選んだ。ぱっぱと着替えて、そのまま大学の講義に行けるよう荷物を整えてから窓が閉まっていることを確認。戸締りオーケー、火気なし、オールクリア。

 

 うん、とひとつ頷いて、僕は鞄を掴み玄関へ。お気に入りのブーツを履いて、踵を慣らし、ドアノブを回す。


 間際、僕は誰もいない室内を振り返って。


「行ってくる、ね、」


 それ以上、言葉は続かなかった。

 言い逃げするように部屋を飛び出しドアを閉めて鍵を回す。


 行ってくるね。その言葉のあとに告げようと喉元まで出てきて、だけど結局引っ込んだそれが誰に対する懺悔なのかは明確だったけれど、僕にそれを言う資格などあるはずもなく。


 僕はしばしドアを眺めて、それから逃げるように立ち去った。十一月の朝の気温はそこそこに突き刺さり、ショートパンツなんて格好で出てきたことをここ最近の日課通りに後悔した。けれど、またあの部屋に戻る気にはなれなくて、僕は足早に目的地を目指す。


 早くあの娘に会おう。彼女の描いたマイエンジェルにそっくりな、現実のマイエンジェルに。若き魔法使いを束ねる、支部局長という地位に就く彼女に。


 早まる足元を掬いたがるように、冷たい空っ風が木の葉を攫っていく。ばさ、と僕のポンチョが翻った。青紫色のポンチョが風に煽られ広がる様は、まるでリンドウの花を連想させるようだった。


 ――裾に白いファーのついた、小春色のポンチョは、もう二度と着られることは、ない。

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