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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
間隙スピンオフ
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ピンチとポストイット

 ここから数話番外編を挟みます。それぞれ短編になる予定です!

 今回の登場人物:期橋紀沙、小柳燐花、佐々舞菜、堺戸時尋、小柳悠樹、秋羽根葉月

「助けてくださいお願いしますッ!!」


 十月下旬、時刻は午後五時半。


 インターホンを押して出迎えてくれたリンカさんに「こんにちは」の一言を告げる余裕すらなく、私はド派手なスライディング付属の土下座を決めて玄関口の床に頭を擦りつけた。


 その拍子にガンっと思い切り頭を打ったが為に視界が一瞬ぐらりと酔酊したが、それを気にすることも出来なかった。傍から見れば滑稽な現場でも私からすれば大真面目で、今後の人生に関わる問題だ。決死の覚悟を以って行動しなければ彼女たちに失礼である。


 え、と小さな戸惑いの声が聞こえたところで私はがばっと勢いよく顔を上げ、こちらを見下ろしているリンカさんを見上げる。彼女の表情は戸惑い全開だったが、私の顔を見て更に困惑の色を深めた。そりゃそうだろう――今の私は、魔法で《誤魔化す》ことすらままならないほど追い詰められていた。顔面蒼白で緩んだ涙腺のまま、潤んだ瞳であるはずだ。自分でも自覚があるが基本的にはいつでもにやにやしている私のそんな表情に戸惑わないはずがない。


 リンカさんはこの様子から只事でないと察知したのか慌てて座り込み、心配そうな表情で尋ねた。


「き、キサちゃん……? どうしたの、何かあったの? 助けてって……まさかトラブルに巻き込まれたとか!? だ、大丈夫なの!?」


「い、いえ、トラブル……じゃ、ないんですけど……っ! このままだと私、私……!」


 言葉がつっかえてしまう私を安心させるように背中をぽんぽんと叩いてくれるリンカさん。ああ、さすがイオリくんの面倒を見ているだけあって手慣れたそのリズムが心地よい。だが正直に言えばかなり申し訳ない気分になりながら、私は藁にも縋る思いで頼み込んだ。


「お願いしますリンカさん――勉強を教えてくださいッ!! 私……このままじゃッ、ニートになっちゃうんです……!!」


 しん。静寂。


 それが実際にはどれくらいの長さだったのか私には分からない。私に分かるのはただ、リンカさんは私の言葉に分かりやすく彫像のように凍り付き、言葉を失ったということだけだ。


 気まずさの漂うその時間は刹那だったのか、それとも数時間も経過していたのか――ようやく口を開いたリンカさんの表情は引き攣り、声は上擦っていた。


「……キサちゃん……留年寸前なの……?」


 まったくもってその通り。

 私、期橋紀沙は現在進行形で留年の危機を迎えていた。




■ □ ■




「期橋。お前自分の成績分かってるか?」


 少なくとも私にとっては青天の霹靂、ただし周囲にとっては必然の理であった担任教師からの呼び出しを無視するわけにもいかず赴いた職員室。昼休みの時間とあって周囲には他の教師陣が勢揃いしていて、しかもちらちらとこちらの様子を伺っている。かなり落ち着かないし居心地の悪い気分になりながら担任教師のデスクに辿り着いた私は、これまた何の前置きもなく突然に担任教師にそう訊かれた。


「……はい?」


「自分の成績。夏休み前の期末考査の教科ごとの成績、ちゃんと分かってるか」


「そ、そりゃあ分かってますけど……」


 戸惑いながらもなんとかそう答えると、教師はふむ、と手にしていた紙に視線を落とした。二十代後半で数学が担当科目の男性担任教師は、ぱっと見まだまだ二十歳すぎに見える若々しい顔に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。ぴく。嫌な予感に私の片眉が跳ねる。なんだろう、何かマズイことでもしただろうか。確かにこの前の期末考査は赤色のバッテンが乱舞する赤色のテストを何教科も受け取ったが、そのマイナス分は夏休みに半泣きで受けた補習により清算されているはずだ。夏明けから十二月までの二学期分の成績に結果が加味される中間考査は二日後。……ふむ。別にマズイことにはなっていないはずなんだけれども。


 ああそうか、きっと先生は私がちゃんと勉強しているか心配なんだろう。そう思いついて私はしてやったりという笑顔になった。この担任は私がただの不真面目なバカだと思っているんだろうが、夏休みに既に体験した「補習」というあまりに手痛い打撃を二度被る気になるほど私は愚かではない。こんな私でも失敗から学んで着実に成長しているのである。今回はちゃんと勉強して――


 ――あれ。


 私は自分の思考回路が見つけてしまった致命的過ぎる違和感にフリーズした。


 〈人形〉事件、と称されることになったらしい東興星観タワーでの一件があったのは今から七日前、ジャスト一週間前だ。そして視力が回復したのはつい昨日のことである。先輩や魔法同盟の面々が見舞いに来てくれて、ちょっとばかり照れ臭いながら感謝の意を伝えられたのはつい昨日のことなのだった――私は学校には極力行く主義なので、まだ休んでいた方がいいんじゃないかと言ってくれたトキヒロや養父の声をありがたく思いながらも、今日の朝久し振りに登校した。クラスメイトとはそこそこ良好な関係を築いているので、感染病に罹っていたと聞かされていたらしい(勿論養父の嘘だが、馬鹿正直に「意識不明になってて意識を取り戻してからも失明してました」と言うわけにもいかないだろう?)彼彼女らに朝から体調の是非を聞かれてちょっと大変だったのは嬉し恥ずかしい話だ。


 さて。


 つまり今日はテスト二日前である。


 何度も言うが、二日前である。


 そして私は一週間まるごと学校を休んでいたし、その前からもユウキの予知夢に関する対策を考えていたり、そうでなくても魔法同盟支部64号局の仕事を手伝ったりしていたわけで――つまり。


 勉強など、……一分もしていない。


「……!!」


 さぁっと顔面から思い切り血の気が引いていくのを実感した。恐怖ではなく焦燥感と途方もない絶望感に目の前が真っ暗になりかけたのを何とか堪え、私は咄嗟に目に力を込めた。誰にも気付けないコンマ数秒の世界でオレンジ色の光が瞬き、私の表情をロスタイムなどなく塗り替える。作り上げた仮面は余裕の笑みを浮かべたそれで、私は自らの大失態を悟られないように嘘八百を並べ立てた。


「やだなぁセンセ、私が勉強してないとでもお思いですか! 私は同じ失敗を二度繰り返すほど馬鹿じゃないんですよ!? 今回はバッチリです! 少なくとも赤点なんてとりゃしませんよっ、あはははは」


 嘘です先生勉強してないです。

 というか赤点しか取れない気がします。むしろ零点の可能性大です。


「……テスト前一週間を病気とはいえ休んじまったのにか?」


 教師の訝しそうな声に魔法の裏で私の目が泳ぐ。受け答えする声が震えないよう努めながら保険のために自分の声帯をも誤魔化してみせる。回復した直後なので魔法の酷使は避けたいところなのだが、今ばかりは必要なのだと割り切ることにした。


「あ、いやほら一週間分のノートは友達に見せてもらいましたし! すごくないですか私三週間前から勉強してたんですよ! もう私は夏休み前までの私ではありません。任せてください、クラスの平均点を異常に下げるような愚行はもう二度と犯しませんから!!」


 ごめんなさい嘘です先生。ノートなんか見せてもらってないし、三週間前は魔法使いのいざこざに巻き込まれまくって戸惑いマックスで勉強とか頭の片隅にもありませんでした。夏休み前の私じゃないですよ、ええ、不真面目さに磨きがかかったという点で。クラス平均点学年最下位になったらすみません。


 ……と思いつつ私の口は調子に乗って自らハードルを上げていく。教師は私の言葉を信用などしていないのが一目でわかる猜疑心に満ちた目でこちらを眺めていた。悟られてはならない、私が勉強なんて欠片もしていないことを絶対に悟られてはいけない――詐欺師の名にかけて!! 絶体絶命のピンチに冷や汗が落ちるがそれすらも騙しおおせて更に言葉を重ねようとした私だが、それより早く教師は投下した――


「そうか。じゃあ課題は勿論終わってるんだよな?」


 ――核爆弾級の威力を秘めた言葉を。


「……か、課題、ですか?」


「おう。数学のワークをテスト範囲分……だから十単元分の基礎問題をノートにやってくるのと、英語の文法ワークとノート提出、国語からはノート提出だけ、……それから生物基礎と化学基礎はワーク提出。世界史は課題のプリントが計七枚。提出日は各教科のテスト当日。――三週間も前から勉強してるっていうなら終わってて当たり前だよな? 素晴らしいぞ期橋。俺は感動した」


「え、あの、ちょ」


 感動したと言いつつ先生無表情ですけど、なんてツッコミを入れる精神的余裕などあるわけもなく、詐欺師の名が廃るほど分かりやすく思いっきり動揺した私をせせら笑うように、担任教師はそのまま顔色ひとつ変えず告げる。


「いや危ないところだったな、期橋。お前、平常点がまず悪いからな――それにテストの点数も危ない。実は今回課題を期限の日に出さなかったら、お前が全教科八十点以上でも取らないと取り返しがつかないところだったんだぞ」


「と、取り返しが……つかないって?」


 恐る恐る尋ね返すと、教師は真面目腐った顔できっぱりと言い切った。


「課題が期限日に提出されないとなると、お前は留年確定だったんだよ。しかしこれでひとまずは回避だ。良かったなぁ期橋」


 ――まさかこの短い期間で、二度も死刑宣告を受ける羽目になろうとは思わなかった。




■ □ ■





 以上、回想。


 涙ながらに時に拳を利かせて(あまり意味は無い)自分の不幸すぎる身の上を語り終えた私は、思い出すだけでも憂鬱さを加速させるあの現場の記憶を振り払うように緩く頭を振って、再び頭を下げた。


「そういう訳なんです、お願いします……! 私、に、ニートにはなりたくないですッ!! なるたけ何もせずに就職してなるたけ楽に稼ぎたいんです! 助けてくださいお願いします!!」


「いや何もしないで就職とか楽に稼ぎたいとかすごくダメ人間というか、社会人の皆さんに喧嘩売ってる感じがするけどとりあえずキサちゃん落ち着こうか、ね?」


 ぽん、と優しく労わるように両肩を叩かれて私はしぶしぶ興奮を抑えつけてソファに身を沈めた。リンカさんは困り顔にも近い曖昧な笑みを浮かべて私の横に座る。本日のリンカさんの装いは黒のタートルネックセーターにロングスカートという淑やかさ漂う格好だったが、夕飯の支度のために着けているらしいパンダのアップリケ付きの淡いピンクのエプロンがまるで保育士のような印象を抱かせている。見れば見るほどリンカさんは美人というか可愛らしい人で、ちらと視線を投げた先で目を細めて嘲笑の表情を浮かべているどこぞの性悪着物女とは大違いだ。


「……ちょっとキサさん、貴女今失礼なこと考えましたわね? 侮蔑の色になったのがわたくしに見えないとでもお思いですの? 本当に呆れた方ですわ、頭の中身空っぽですのねぇ」


 チッ食いついてきやがった。

 

 面白くない気持ちになりながら睨みつけてやると、返ってきたのは余裕綽々の悠然とした微笑み。その目から感情を読み取らせない癖に、他人の気持ちを色で認識してしまう彼女――アキは、今日も色眼鏡をかけてライトイエローの瞳を覆い隠し嫌味に微笑んでいた。本日は真っ青な着物姿で、その首の上に乗っかった頭さえなければもうちょっとマトモそうに見えるはず(だと私が勝手に思っている)そいつに、私は吐き捨てるように言ってやった。


「いやだって本当に、リンカさんのほうがあんたより全てにおいて格上っていうか、あんたロクでもないなと思ったんで。しょうがないじゃないですか、思っちゃったもんは思っちゃったんですし。正直な感想ですよ?」


「ならわたくしも正直な感想を申し上げさせていただきますけれど、貴女って頭の回らないお方ですわよね。そもそも勉強ができないと泣きついてくるだなんて……はしたないことこの上ないですわ」


 有り得ませんわ、と付け足して着物の袖で口元を覆うアキ。目元しか見えないこの状況においても私を馬鹿にしているのが良く分かる、明らかな軽蔑に満ちたその目を私はありったけの敵愾心を込めて睨み返した。視線が一瞬交錯し、すぐに外れる。私も、相手も、犬猿の仲というにはあまりに温いほどお互いを嫌っている。目を合わせ続けることは苦痛以外の何物でもなかったのだ。


 その様を見てため息をついた人が約一名。


「……なにやってんの……時間の無駄だと思うけど」


 今日は男物かと見紛うほどにスタイリッシュなデザインの紺色のパーカーをいつもシャツの上に羽織っているベスト代わりに着込み、ぴったりしたストレッチパンツを履いた、知り合って日の浅い私にとってはちょっと珍しい服装のササちゃんである。


 どうもこだわりがあるのか、首元の赤いネクタイとハーフフィンガーグローブはそのままだ。シャツの上にパーカーという格好ゆえに、まるで校則違反を承知で制服を着崩したボーイッシュな少女のような様相を呈している。やる人によってはダサくなるだけの格好なのに、ササちゃんはやたらと似合っていた。時折言動がめちゃくちゃイケメンなササちゃんだが出で立ちまで格好いいとは、本当に年下とは思えない。


 私とアキのやり取りを目撃するのは実は今日が初めてではないササちゃんは(ササちゃんだけではなく、この場にいるほとんどがもう私たちの口論は目撃している。昨日初めて顔を合わせたときに派手にやらかしたのだ)、だがもう慣れたとでも言いたげに肩をすくめて首を横に振る。


「……やってないキサも悪いけど、アキ、言い過ぎ。そもそもキサ、こっちの都合に巻き込まれてたんだから。しょうがない」


「いえ、それは違いましてよササ。要はキサさんが一学期にちゃんと勉学に励んでいればこんなことにはならなかった訳でしょう? 自業自得で正解ですわ。勉強をする気もないくせに高校になんて進学するから痛い目を見るんです」


「……聞く耳くらい持ったらどうなの」


「持ってますわよ?」


 あ、こりゃダメだ。ササちゃんはアキの澄ました顔で言い放った答えを聞くなり、もう何を言っても無駄だと悟ったように深いため息をついた。昨日今日で分かったことだが、アキは相当頑固な性格であるらしく、早々自分の意見を曲げることがない。私から言わせれば偏屈なそれは、どうも付き合いはそれなりに長いはずの彼らにもどうしようもないことらしい。本当にめんどくさい性格だなこの人、と呆れてため息をつけば、そのタイミングを図っていたかのように話を本筋に戻したのはトキヒロだった。


「で。キサは勉強を教えてもらいたくてここに来たんだよな」


 間髪入れず私は肯定の意を示して頷く。


「うん、そう。啓太先輩に頼もうとしたら『知らねぇ自分でどうにかしやがれ』って……あの人どうせ学年一位で頭いいんだからちょっとくらい教えてくれればいいのに……まぁ受験生なのは分かってるけどさぁ……! うぅぅぅ、ひどい、ひどすぎる……あの薄情者ッ!!」


「本来勉強はひとりでするものなのですから間違ってはないと思いますけれど、その殿方は。向こうの都合も考えずに薄情者呼ばわりするのは失礼ではないですの? やっぱり自分勝手なお方ですわね貴女」


「ちょっとあんた黙ってくんないですか」


 進む話も進まない。なんでいちいち話の腰を折る。


 言いたい文句は山ほどあったものの、またあのぎすぎすした空気になるのもなんとなく憚られたので全精神力を稼働して言葉を自制し、私は再び頭を下げた。


「そういう訳なんです、もう他に頼るアテがありません……!! 学校の友人には『キサに教えても時間と労力と精神力の無駄だから』と断られちゃったしあの藪医者に勉強頼るぐらいなら死んだ方がマシだしッ、お願いします、助けてください!!」


 頭上でリンカさんたちが顔を見合わせる気配。この際私が馬鹿なのは露見したってしょうがないし、アキにまで笑われるのはかなり癪だが文句を言っていられる状況でもない。みっともなかろうと、はしたなかろうと、二回目の高校一年生を経験するよりは断然マシである。もし留年でもしようものならいくら社会の荒波に揉まれることになろうと学校なんて辞めてやる所存だ。それはまぁ最悪の事態に陥ったときの選択肢であるわけだが、出来ればそんなことにはなりたくない。


 幸いにしてここにはリンカさんを始め、数名頼れそうな人物がいる。いかにも真面目そうなリンカさんと、嫌味なのがネックだが頭だけは良さそうなアキ、そして同い年のトキヒロだ。ササちゃんは中学二年生だから論外としても、もし今日ここにいるのが勉強なんて鬼門そうな(失礼)ユウキと中学三年生で不真面目そう(やっぱり失礼)なシュン、小学生・イオリくんだけだったなら状況は絶望的と言えそうだったが(勿論これは私の主観だ。もしかするとユウキとシュンはめちゃくちゃ勉強ができるのかもしれない――もしそうだと判明したら後で謝っておこう)、この面子ならば或いは。


 半ば祈る様な気持ちでリンカさんたちの是非の答えを待っていた私は、だが、トキヒロのちょっと申し訳なさそうな調子で放たれた言葉に思わず目を見開いた。


「あー……キサ、その、手伝ってやりたいのは山々なんだけどさ……俺たち、えっと……『誰も高校行ってない』っていうか、『中学すらまともに行ってない』から……無理かもしんね」


「――ひょえ?」


 間抜けな声を上げて、今の台詞が嘘であることを願いながらそろそろと顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、決まり悪そうに頬を掻くトキヒロと、申し訳なさそうに眉を下げるリンカさんと、そんなことも予想していなかったのかとむしろ開き直った様子で居直るアキ、そしてやれやれと首を振るササちゃん。


 どうも嘘ではないらしい、と理解したところで、私はただ金魚のように口をぱくぱくと開閉させることしかできず。


 刹那、思った。


 あ、詰んだわ私の高校生活。



■ □ ■



 とりあえず出してみなよ、と言われて支部のリビングにぶちまけた課題の山に、リンカさんの顔が多少青くなったのが見えた。ワーク、プリント、ノートが積み重なるその様はまさに壮観。これをやり終えなければ、私を出来れば人生で一度も目にしたくない地獄絵図へと導くであろう無慈悲な紙束たちは、乱暴に積まれたことを恨むようにこちらを睨んでいる気さえする。睨みたいのはこっちだ。しつこいと破るぞお前ら。いや、破って大変な目に遭うのは私本人なのだけれども。


 普段はほとんど物の置かれないテーブルに怖くなるほどの存在感を以って積み上がった課題にため息をつけば、トキヒロはさすがに引き攣った表情で尋ねてきた。


「……マジでこれ終わらすのか?」


「うん。あと二日で」


 トキヒロはぶんと思い切り首を横に振った。その目に宿るのは明らかな諦念である。久方ぶりに見るだろう課題や宿題の類の山に辟易しているらしい彼はこの量に気圧されているのかちょっとばかり逃げ腰だ。


「絶対無理だろ」


「無理でもやんなきゃ留年なんだよ」


「いや無理だろ」


 諦めが早すぎる、と返してやりたいところだが、正直私も無理な気がしていた。ただでさえ勉強のどれもが苦手な私である。勉強のできる優秀な生徒ならばともかく、万年赤点(とはいえまだ在籍期間は半年と少しだけれど)の劣等生たるこの私にクリアできる課題とはまったく思えない。もし魔法使いのあれこれに巻き込まれていなかったとしても、恐らく私は課題を終わらせられなかったし、終わっていたとしたらそれは答え写しという最終手段に出た場合のみだ。だが私の各教科担任は提出物のチェックがいちいち細かくて、出した課題を答え写しだと暴露された上で突き返され再提出を求められたことすらある。同じ過ちを犯すのは愚の骨頂だろう。


 といったって正攻法でやり始めても終わるのはいつになることか。頭の中で「二回目」の高校一年生になることを宣告されてのたうち回る自分が容易に想像できて私はがくりと肩を落とした。ヤバい、詰んだ。私の人生詰んだぞ。勉強が全てでない社会とはいえ、高学歴社会であることには違いない現在の世の中を渡って行ける自信など一ミリたりとも湧いてこない。


「……これ全部終わってないの」


「終わってないよ……ノートは友達のノートの写真撮らせてもらったから写せばいいだけなんだけど、ワーク……ワークね……」


 ササちゃんが呆れ返った表情でつまみ上げた生物基礎のワーク、今回のテスト範囲を示す付箋と付箋の間のページがぱらりと開かれる。その解答欄はすべて白紙だ。それは生物に限ったことでなく、数学も英語も化学基礎も、果てには世界史のプリントも、である。わぁすごい真っ白だ!! と思わずハイテンションで叫びたくなったのはただの現実逃避で実際は泣きたい心境だった。いや本当に泣きたい。なんだこれ、完璧に死亡フラグじゃないか。そんなフラグは心底要らない。


「あ、あと、二日かぁ……」


 リンカさんは困り顔に申し訳なさそうな表情と僅かな絶望感を滲ませつつ呟く。この場にいるほとんどの人間が目の前の巨大にして最難関の壁を目にして呆然自失としている中、たったひとり気に食わない女はふんと鼻を鳴らしてさらりと言った。


「そうやって無駄口叩いている暇があるなら片付けてしまえばいいんじゃないですの? まぁやったって無駄な気はしますけれど。せいぜい悪あがきのひとつやふたつすればいいですわ」


「アキちゃん、その言い方はあんまりよ……高校ってこんなに課題出るんだね……私、中学二年生までしかちゃんと学校行ってなかったから……」


 アキの暴言を嗜めつつも唖然とした様子で零すリンカさんに、私は力なく――あまりの遣る瀬無さに倒れ込む寸前だ――尋ねてみる事にした。誰も高校に行っていない、なるトキヒロの言葉が嘘でないとして、となると。


「リンカさん……魔法使いの学歴ってどうなってんですか……? そりゃ子どもの頃から特殊な環境下にいるのは分かってますけど、だからって! 私が言うのもなんですけど高校くらい行っといた方がいいんじゃないですか!? 魔法使い皆社会不適合者ってわけじゃないでしょう!」


 そう、それだ。


 先程言った通り、昨今日本は高学歴社会。かつては中卒でも本人の技能と努力さえあれば世の中を渡れたと言うが、今や高校に行くことはティーン世代の子どもにとって「当然」のことだ。勿論中には中卒で専門学校や就職を果たす人もいる、ということぐらい知ってはいるが、だとしてもその割合は限りなく低い。魔法同盟という特殊組織に属し日夜依頼をこなして生活費を稼いでいるとしても、その依頼の成功報酬だけでは暮らしはかなり不安定なものになるはずだ。ユウキやトキヒロがバイトしているのは恐らく生活費を安定させるためなのだろうけれども、そう長続きする生活ではないはず。バイトと不規則な依頼収入だけでやっていけるとはとてもじゃないが思えない。――となれば本来、どうあれ誰かしらはどこかの企業に就職するなりなんなりしておかないと生活できないだろうから、その就職の為には高校卒業という学歴はあるに越したことは無い。それなのになぜ誰も高校に行っていないのだろう――まぁ陰険着物女はその『目』の色のことがあるから、という事情ゆえだと予測できるにせよ。


 私の知る限りこの支部の収入源はユウキとトキヒロのバイト代、及び不定期的な依頼の成功報酬、そしてアキの受けている(らしい)イラストレーターとしての仕事の稼ぎだけだ。比してこの支部には私を含め八人が所属しており、うち七名は生活を共にしているわけで、七人分の生活費となればたった三つの稼ぎではとてもじゃないが暮らしていけないのではなかろうか。


 私の疑問に答えたのはアキだった。


「確かにこの時代高等学校への進学はもはや常識ですけれど、わたくしたちは事情が込み合っていますもの。わたくしはこの眼のことが露見すれば勉学どころではありませんし、トキヒロはまだ魔法の制御が不完全なところがあります。高等学校の生徒の記憶をもし魔法を暴発させて〈遮断〉してしまったら大騒ぎでしょう? 記憶喪失者続出ですわ」


「じゃ、じゃあリンカさんとか……ユウキは?」


「私は魔法使いになったのが中学二年生で、魔法使い成り立てだったから、正直高校受験のことなんて頭になかったんだよね……当時別の支部にいたんだけど、そこの局長さんにも『勉強してもどうせ意味ないから支部の仕事ができるようにしてくれ』って言われちゃって。お兄ちゃんは受験生の齢で魔法使いになったんだけど、まぁもともと高校行くつもりなかったらしいし」


 お兄ちゃんグレる前は、頭良かったんだけどね。

 ちょっと俄かには信じがたいことを漏らしつつ自分の学歴を恥じているのか、細く息をついたリンカさんはおもむろにササちゃんに視線を注ぐ。


「ササちゃんやイオリくん、シュンくんが学校にあんまり行ってないのもそれが理由ね。ササちゃんまだたまにボヤ騒ぎ起こすし、イオリくんは極度の人見知りに――いや『物見知り』になっちゃってるし。シュンくんはサトリさんたちに頼まれる仕事が忙し過ぎて学校どころじゃないんだ。一応三人とも学校に籍はあるんだけど、ほとんど行けてないね」


「……行ける日は行ってる。テストもちゃんと受けてる。でも毎日は行けない」


 なるほど、言われてみればそうか。私はそっと納得した。

 魔法使い。一般人の誰もが持ち得るはずもない不思議な力を得てしまった子どもたち。私のように自らの力すら《誤魔化せる》のならまだしも、誤魔化しようもない力の片鱗――例えば記憶をせき止める力、自由自在に生み出せる炎、青い電撃、蜂蜜色の瞳、物限定のサイコメトリー――の持ち主は、その魔法を完全制御出来ない限り満足に学校にもいけない、のだ。もしも露見すれば待っているのは想像するだけでも気分が悪くなるような出来事なのは疑うまでもない。リンカさんの魔法やユウキの魔法は露見する可能性は低いにせよ、やっぱり普通では無いわけで。


「あ、とはいっても、うちの支部の子はあんまり行ってないってだけで、余所ではちゃんと学校に通ってるところもあるよ? 局長の意向や魔法の制御具合にもよるんだけどね。身近なところだと、この前のドール事件で一緒だった27号局の〈暗視〉ちゃんは高校に行ってるし、他にも〈増強〉くんとか〈殲滅〉くんとか〈分力〉くんとか……、確かあそこは学生身分の子はほとんど行ってたはず。ちなみにシュンくんとタワーの外でお留守番してた〈情報〉さんはもう二十一で、大学は行かずに就職してたと思う……就学状況とかは場所によるのよ、本当に」


 ……台詞で上がった名前の中に「破壊」を意味する英単語(ディストラクト)が混じっていた気がするのはきっと私の気のせいだと思うことにした。


 しかしこうなるとちょっと申し訳ない気分になって、私は気付かれないように魔法を行使する。使用用途は私の表情をからっとした笑顔に塗り替えること。事情があって学校に行けなかった、ということはちょっと考えれば分かるだろうに軽率に疑問を口にした自分をちょっとばかり反省。当たり前から逸脱する劣等感を、私はそれなりに知っているのだ。ここで露骨に反省の色を見せれば逆に相手に気を遣わせてしまうのは私も知っていることなので、何にも気付かなかった愚鈍の振りをして笑った。


「ははぁ、じゃあ仕方ないですね! となれば、この支部唯一の高校生としての知識を持つこの私、期橋紀沙ちゃんがリンカさんたちに勉強を伝授して差し上げましょう! ふっふっふ、私の特訓は厳しいですよ……? ついてこられますかね?」


「……いやその前に、キサ、課題は」


「ハッ!! き、貴様その話題に触れるな……ッ! 古傷が痛む!」


 大袈裟にポーズを決めて声のトーンを抑え、右手で顔を覆うようにしてくつくつと笑う。この振る舞いのイメージはまだ一度しか顔を見ていない、マントに包帯に眼帯にシルクハットの少年めいた少女。別に物真似をしたわけではないけれど、そのおどけた雰囲気は私の狙いであった「反応の誤魔化し」に一役買ってくれた。トキヒロはがくりと肩を落として、私にほぼ予想通りの言葉をかけてくる。


「お前どこの眼帯だよ……。ほら、面倒になったササに焼かれて火傷負うよりはマシだろ、さっさと手をつけちまえよ」


「にはは、いやぁごめんごめん。……とはいえ思うんだけどとっきー、現実ってあらゆる人間にとっての最大の敵だと思うんだ。だからその強敵を倒すためには入念なレベル上げと経験値を積むことが必要で、」


「……そのレベル上げと経験値を得るチャンスを全部放り捨ててきたのはどこの誰だか」


 あっきれた、と呟いてササはソファを立ち上がり台所へ向かう。時間を見れば時刻は六時を回っていて、私と同時に時間に気がついたらしいリンカさんが慌てて追随する。夕飯の支度、ということのようだ。あ、ササちゃんも夕飯の支度手伝うんだ、と少々意外さを感じながらも私はテーブルの上の課題を思い切り睨みつけた。


 さて、どうあれこいつらを明後日までに片付けなければならない。事態はかなり切迫していて、逃げ道も現実逃避も許されない緊急事態だ。例えどれだけ勉強が嫌いでも、二回目の高校一年生を回避するためにはどうあれ避けては通れぬ道――頼れるものは己が頭と大量の参考書、ネットの掲示板、そして(学歴こそなけれど)友人たちのみ。


 気分は戦争。


 今、まさしく私の心は戦場を前に高揚を隠し切れず、そして同時に不安も抱えた兵士。


 ――この課題は、そう、仇!!


 言い聞かせるように心中でシャウトして、私は覚悟を決めた。鞄を漁って筆箱を取り出し、それを盾のごとく、あるいは剣のごとく構え――リンカさんが冷蔵庫の扉を開いたその瞬間を合図に、私は勢いよくワークのページを開き、白紙の解答欄にシャーペンを滑らせた。


 学歴について尋ねたことによるちょっとした後ろめたさには、誰も気付かなかったようだった。

 

「……勝手にしたらどうですの」


 ――つっけんどっけんに言い放ってくるりと背を向けたアキ以外には。

 


  


■ □ ■




 ――時刻、深夜三時。


 前日午後五時から二つのバイトを掛け持ってようやく帰宅したユウキは、物音で誰かが起きることのないよう、そっと玄関の鍵を回す。かちゃんと錠の回る音の後ドアノブを手にして、また余計な音を立てないよう足音を殺しながら中へと滑り込んで、錠を落とす。鍵はきちんとかけておく、というのがこの支部のルールであった。

 

 さすがにこんな時間なので誰も起きちゃいないだろうなと思いながらも、ユウキは深夜に帰宅する際はいつも音に気を使う。ただでさえ色々と鋭敏な感覚を持つ同居人と暮らす彼は、以前うっかり深夜に物音を立ててしまい、それで飛び起きてきたササに焼かれそうになったことがあるのだ。侵入者に対して警戒心が強いのは味方である限りは頼もしいのだが、寝ぼけ眼で襲撃されて丸焦げになっては、こちらがたまったものではない。住人たちへの気遣いというよりは、自己防衛の意味合いが強い癖だった。

 

 十一月の月初めを三日後に控えた十月の夜は、最近の異常気象の恩恵かさほど冷えていない。生温い、だが湿気はあまりないそこそこ居心地のいい室温が全身を撫でた。ふと空気に違和感を覚え、ユウキはそっと目を細める。室内に滞留した空気とは明らかに質の違う新鮮な空気が流れてくるのを感じたのだ――もしかして、窓が開いているのだろうか?


 だとしたら。少しだけユウキの足運びが慎重さを増した。この時期に窓を開け放ったまま眠りに就く同居人に心当たりはない。寝る前にはきっちり全ての戸締りを確認しないと気が済まない几帳面な妹が窓を閉め忘れたとはちょっと考えづらいし、かと言ってわざわざ閉められていた窓を開ける者がいるとも思えない――もしかして。


 夢で何度か見たことのある嫌な場面が脳裏をよぎった。開け放たれた窓、割られた硝子、どこかの床に付いた足跡と散らばる赤。ドラマの中の事件ではよくある強盗事件。まさかここに限ってそんなことは、と思うがそれでもユウキの中に生まれた過剰なまでの危機感は、彼の足を慎重でありながら早めさせた。ここにいる同居人は皆ユウキの年下で、女であったり子どもであったりする。万が一だって絶対に有り得ないとは言い切れない。


 何も起こっていないことを願いながら、リビングのドアに手をかける。


「……オイ、誰かいんのか? 帰ったぞ――、……は?」


 ドアを開けた瞬間目に飛び込んできた、嫌な危惧など消し飛ばしてしまうほどの不可思議な光景に、ユウキはしばし呆然として瞬きを繰り返した。


 リビングの窓は開け放されていた。白に淡い水色で水泡の描かれたカーテンが、強めの夜風に吹かれてばさばさとはためいている。深夜三時の月は既に天の頂上を通り過ぎていたせいか、カーテン越しに月明かりが透けて、その光景をより穏やかなものに魅せていた。


「……なにしてんだ、手前ら」


 思わず呟いても誰も応えを寄越さない。それはそうだ――リビングには五人の人間がいたが、その誰もが深い眠りに落ちていたのだから。


 リビングテーブルに半ば突っ伏すような姿勢で、右手にシャーペンを持ったまま眠りこけているのは、ユウキが死の夢を予見したあの新人の少女、期橋キサ。一週間前のタワー事件でいいところを掻っ攫っていったあのときのような不敵な笑みはどこにも見られず、ただすぅすぅと静かに寝息を立てているその姿は年齢よりも幼く見えた。その横に、ユウキのたったひとりの身内であるリンカ。すぐ後ろのソファにもたれかかる形で目を閉じたリンカの寝顔はふにゃふにゃと緩んでいて、やたら幸せそうだ。多分いい夢でも見ているのだろう。


 キサとリンカの真後ろのソファで横になって眠っているのはササだ。これはちょっと珍しい。ササは基本的に生活習慣がしっかりしているため、睡眠不足になることがほとんどなく、ゆえにうっかり寝落ちするということがほとんどないのだ。ざっくばらんとした物言いや振る舞いの目立つ彼女にしてはやや意外な、背を丸めて眠るその様はまるで猫のようだった。シュンが見たら声にならない歓喜の声を上げてスマホのカメラモードを起動しそうである。――対して、その反対側のソファの端に身を沈め、肘掛に頭を乗せて寝ているのはトキヒロ。右手には何か本を持っているらしい。少しばかり首の角度が辛そうだが、これは割合いつものこと。座って眠りに落ちても首が痛まないと本人は言っていたが、真偽は定かでない。


 そしてユウキが最も驚いたのは、そのトキヒロのいるソファの下、つまるところキサとリンカの対面に、着物の彼女が突っ伏していたことだった。彼女がこれまで絶対に他人の前で眠ったことがないのをユウキは知っている。元より人への警戒が強い彼女は、誰であろうと自分の隙を見せる事を嫌う。それは彼女が『命の恩人』と称するユウキに対しても同じであり、ゆえに、彼女の寝顔を見たのはこの支部で自分が初めてだろう。まさかこんなところで呑気に寝こけているとは思わず、ユウキは困惑のあまり壁に激突しそうになって寸でのところで押し止めた。


 そっと、そぅっと足音を殺してリビングテーブルに近付くと、そこには十冊近いノートと参考書、ワーク類が散乱していた。月明かりに運良く照らされていたワークの所有者を示す名前は『期橋紀沙』。なるほどな、とユウキは密かに納得する。恐らくはこの新人がワーク類を持ち込んでいたんだろう。リンカのポジションやトキヒロの持っている本が『数学Aをより分かりやすく』というタイトルであることからすれば……テスト前の勉強か。そういえば中高生はそろそろテストの時期だな、と思い出した。彼自身が真面目に勉強していたのはもう随分前の話になるが、クラスに一人は勉強が分からないと友人に泣きつく者がいた。キサはあまり頭が良くないようだし、大方予想は間違っていないはずだ。


 要約すると、勉強会の途中で全員揃いも揃って寝落ちてしまった、そういうことだと予想された。


 その予想を立てた途端今の状況がとてつもなく微笑ましいものに思えて、張り詰めていた身体の緊張がするりと緩む。カラフルな付箋やラインマーカーが目を引く開きっぱなしの参考書と、眠気の現れかミミズの這ったような文字しか書けていないワークの解答欄を視界に入れるなりユウキには似合わぬ苦笑を洩らしながら、ユウキはふとアキに目を遣った。


 普段は黒いストレートヘアに隠された、あまり外に出ないが故に真っ白の首筋を見てしまい慌てて視線を逸らしながらも、テーブルの上で彼女の下敷きになっている本に目を向ける。タイトルは、『誰でも分かる化学基礎』。よく見るとそこに貼られた付箋は、その他の参考書に貼られている動物を模した愛らしいデザインとは異なっていて、ただ目立つことを目的とした蛍光色のポストイットだった。お。思わずユウキは感嘆の声を上げかけて何とか声を呑み込んだ。


 あのポストイットは確か、アキが使っているものだ。これまで他人に貸しているところを見たことがない、彼女お気に入りのシンプルなシリーズである。


 ユウキは昨日の光景を思い出した。ほぼ初対面であるにも関わらずユウキの夢の一件で最悪な第一印象しか抱いていなかった新人とアキとは、向き合ったかと思うと開口一番に嫌味を口にした。ああ言えばこう言う、まさにその言葉が的確な罵倒の応酬はイオリをすっかり怯えさせてしまっていて、二人とも歩み寄る気などまるで無さそうな風体に見えたのだけれども。


「……、杞憂、か」


 アキが自分お気に入りのポストイットを使ってまで、あれほど口論を繰り広げた相手の勉強会に付き合ってやっていた――この状況がアキのどんな心境を示すのかは、ユウキにとっては火を見るより明らかで。


 は、と軽く息をついて、ユウキはそっとその場を離れた。さほど寒くないとはいえ、このまま放置しておくのは気が引けるし、一度起こしてしまえばそのまま眠れない者も多いだろう。それに迂闊にアキを起こして寝顔を見てしまったことがバレたらそれはそれは面倒なことになる。毛布でも取ってきてかけてやれば、風邪をひくことは無いはずだ。


 ――本当、素直じゃねェなァ。自分が言えた義理でもないがユウキはそう呟いて、緩んでしまった頬を引き締めてから毛布を取りにリビングを出た。


 明日になればきっと、アキはまた憎まれ口を叩いてあの新人を挑発するのだろう。ユウキはそれがアキにとっての自己防衛であることも知っているし、またアキの本音でないことも知っている。だがアキの発した言葉を受け取る側の新人は違うだろうから、二人の犬猿の仲をも通り越した仲の悪さは到底改善されまい。


 だが、いつまでも仲の悪いままというわけではないはずだ。ユウキはやたら確信的にそう思った。アキは支部の誰よりも対人関係において不器用で、魔法がなければ他人の心中を察することもできないほど鈍い女ではあるけれど――魔法で自分を誤魔化す自称詐欺師の新人とは、案外いいペアになるんじゃなかろうか。


「……ま、いつになるかは分かンねェけどな」


 言葉を付け足したとき、ユウキは確かに笑みを浮かべていた。

 それはまるで手のかかる妹のことでも考えているかのような笑みだった。

 






 結局キサの課題は魔法同盟メンバーの尽力により、テスト当日に提出することができた。幸いにして再提出を申しつけられることもなく、彼女は無事に留年の危機を乗り切ることに成功したのだ。

 ただし、毛布にくるまり一同がリビングで目を覚ましたその日、毛布をかけた当人を簡単に見つけ出したアキが静かに怒りながら、ユウキに対しおおよそ三日に渡る地味な精神的嫌がらせを行ったことを知るのは、アキとユウキの当人たちのみである。


 

 

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