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嘘つきダイアリー  作者: 八谷杉幾未
戦場フォーホーム
19/41

4 あまりに心臓に悪すぎます

 久し振りの朝投稿となります。

 今回は回想編なわけですが、悪戦苦闘しすぎてプロットガン無視という緊急事態が起きました。どうにか巻き返そうと思います。


 今回も楽しんで頂けると嬉しいです!!


「……雪、かぁ」


 最後に雪で遊んだのはいつだったかな、と、書類が山積みされた机に突っ伏していた上半身を起こして窓の外を眺めながら思い出す。


 二月十日、朝八時三十四分。比較的雪とは縁遠い百茎ではあったが、今日は最強寒波と称される低気圧のおかげで、窓の外は一面の銀世界と化していた。


 シェアハウスのすぐ真横にある針葉樹林は白化粧を被り、アスファルトには多くの車の車輪の跡が刻まれている。今はこんな時間なので子供の声は聞こえないけれど、午後三時にでもなればこのあたりに住む子どもたちが帰宅し、元気で遠慮ない笑い声を響かせることだろうと予測するのは簡単なことだった。


 室内はほんのり利かせた暖房の恩恵に預かり、さほど寒くない。それでも窓の隙間から時折身体を打つ寒風にふるりと身震いした。


「……雪が、なに」


 唐突にそう言葉を発したのは、私の正面にある書棚にもたれて漫画のページを繰っていた、去年八月にこの支部局へやってきた少女。


 名を、ササちゃんという。


 長めの髪を緩く結び、ひどく荒んでいるのに澄んだ光を放つ瞳の持ち主であるササちゃんは、シュンくんやイオリくんと打ち解けたわずか一ヶ月後の八月に配属が決まった子で、最初はかなり攻撃的かつ気が短すぎて大変だった。何回書類を燃やされたか思い出すのは気が重いのでやめることにして、最初の二人で二ヶ月の時間を要した打ち解けるための時間は彼女の場合倍の四ヶ月。いろんなアクシデントを乗り越えて、気がつけば私は十六歳になっていた。


 その十二月には、


「雪といえば一度食べたことあるけど、あれはお薦めしないな。スイカの皮のほうが美味いよ」


 とどこか調子外れな台詞を述べ、眠たげにあくびを漏らした彼、トキヒロくんが仲間入りを果たしている。


 最も、黒髪をあちこち跳ねさせ、だぼっとした服装で胡座をかく彼はここに来るなりひと月と経たず馴染んでしまった適応力溢れる人材なので、特段苦労はしなかった。代わりにその魔法が厄介で、制御できていなかった当初は物忘れというにはひどすぎる記憶喪失を繰り返しはしたが。


 今となってはササちゃんもトキヒロくんも、すっかり64号局の一員である。もちろん打ち解けるまでの期間が長いにせよ短いにせよそこには彼らだからこその滅茶苦茶なエピソードがあるわけだけど、それを掘り返すのは長すぎる回想だ。また今度時間のあるときにしようということにして、私は答えた。


「うん。雪で遊んだのいつが最後かなぁって。多分お兄ちゃんと一緒だったはずだから、五年は前だと思うんだけど」


「お兄ちゃん? ……え? リンカさん、お兄さんいんの?」


 あっけに取られたように尋ねてきたトキヒロくんと、ぽかんとした表情で目を見開いたササちゃんにあぁ、と思い出した。シュンくんたちには話してあったけど、二人にはまだだったっけ。


 兄のことを思い出すと付随してくる懐かしい思い出。たまに忌避したくなるそれは、いつでも温かい失われたセピア色をしている。古ぼけた写真のような心象の過去を、私は目を閉じてまぶたに映した。


「いるよ。ひとつ年上。お兄ちゃんは魔法使いじゃなかったから、一年と数カ月? 前にお別れしたんだけどね……先月が誕生日だったはずだから、今は十七歳かしら」


「……ふぅん。リンカのお兄さんね。……優等生タイプ?」


 ササちゃんがぽつりと漏らすと、トキヒロくんが「ああ、ぽいよな」と頷いて同意した。


「リンカさんがこの性格だもんな。きっとなんつーか、オレとは程遠い好青年って感じの奴なんじゃね? 将来の夢に教師を志すタイプ」


「あー、わかるわ、そのイメージ」


 ちょ、ちょっちょっちょ! 


 実際とは大きくかけ離れた二人の想像に思わず仰天した。いや、いやいやいや、そんなお人形みたいな兄を持った覚えは無い。私から連想した兄がとんでもない人物に成り上がっていたことに心底驚いた。ぶんぶん両手を振り回して否定の言葉を並べたてる。


「え!? いやいや、全然そんなことないよ!? お兄ちゃん俗に言うヤンキーさんだし! 中二の夏にグレちゃったから勉強もまともにしてないはずだし、将来の夢は決まって無かったし、しょっちゅう殴り合いの喧嘩して帰ってきてたんだから! 優等生ですかなんてお兄ちゃんに聞いたらすっごい勢いで怒鳴りつけられるって!!」


「……グレ……え?」


 信じられない、みたいな顔をされた。だが事実は事実である。私は更に言い募った。


「いっつも誰かと喧嘩してきて傷だらけでね。両親は共働きだから、怪我の手当は私担当だったんだけど徐々に話しかけてもシカトされるようになっちゃって……半年くらい口利かないままだったの。両親がいなくなってから、ようやく一日に三回会話できるかどうか、みたいな感じでさ」


 世間的に見れば、きっといいお兄ちゃんじゃなかったんだと思う。


 刑事の家の長男でありながら不良に成り下がりやがって。それが父さんの口癖だった。どうしてあんたは言うことを聞かないの。これは母さんのいつもの文句である。


 兄が中学二年生、私が中学一年生の夏。ある日突然、制服のあちこちをほつれさせて泥まみれで帰ってきた兄を見て何事かと大騒ぎになった。どうしたのと何度も聞いたけど、兄はただ黙して、それまで私に向けたこともない鋭くて恐ろしい眼光で私を睨んだのをよく覚えている。私では埒が明かないと言って、父さんと母さんは兄を居間に連れて行き、私に自室にいるよう言いつけた。話を聞こうと居間のドアの前に息をひそめていたら見つかって部屋に押し込められたのだったか。


 規則には一際厳しい両親である。その日に聞こえた罵声はどれもこれも突き刺すようで衝撃的だったが、その声の中に兄の声は一つも無かった。


 そのうち、兄が警察に保護されることも多くなった。両親は捜査一課の刑事であったから、自分の息子がもめごとで警察に保護されるという状況が恥さらしに思えて仕方がなかったらしい。兄を迎えに行くときの両親の顔は、まるで息子を見る目ではなかった。


 言うなれば、邪魔者を見るような、もっと言うなら無価値な路傍の石を見るような蔑んだ目だった。


 兄はその頃から私ともほとんど口を利かなかったし何を言っても耳に入れてはくれなかった。そうなってしまってから、私が困っていても助けの手を差し伸べてくれたことは無かったように思う。


「……お兄ちゃんはどうしていきなりそうなっちゃったのか、全然教えてくれなかったんだ。何を聞いても『うるせェ』『関係ねェだろ』しか返ってこない……ううん、違うかも。私がちゃんと聞けなかったんだ、多分」


 豹変した兄に恐怖しないでいられるほど、私は信頼に生きる人間ではなかったのだ。


 兄は昔から不器用だったけれど暴力沙汰は好まなかったはずなのに、突然暴力の世界に片足を突っ込んで、いくら叱られても罵られてもそこに居続けて、私たち家族を煙たがって。


 兄の射抜くような眼光が、当時の私の意識を兄から逸らしていたんだと、今になれば思う。


「でもね……お兄ちゃんは、優しい人だよ。不器用なだけ。それしか思いつかなかっただけなんだ」


 今になってみれば分かる。


 兄が何の理由も無くああなるわけはないのだ。きっとああするしかないほどの、どうしようもない何かがあって、兄は武力の世界に身を投じたんだ。


 それはあのお別れの日の兄の目が全部物語っていた。


 ……守るべき者ができた私が、最近ようやく分かるようになった気持ち。


 間違っていようとなかろうと知ったことか、兄の心情なんて自己解釈でいいと開き直っている。生まれ故郷の九州に未だいるだろう兄と、関東の百茎にまで来てしまった私とでは、もう心も体も距離が開きすぎている。どうせ会えることもない。


「……ま、もう会うつもりはないんだけどね! ごめんごめん、ちょっと話題が暗かったね。二人とも、そんな顔しないでいいのよ? 今となっちゃ笑い話みたいなものなんだから!」


 気がつけば、ササちゃんもトキヒロくんも顔を伏せて眉根を寄せていた。表情に出やすいササちゃんと、出にくいトキヒロくんだがこれで分からない程愚鈍な私でもない。二人とも、悲しく思ったようだった。


 違うのに。ただの昔話なのに、そんな悲しそうな顔をしないでよ。


 そう言いたくなる衝動をぐっと抑えて、私は笑顔を作り問いかけた。


「ねっ、今日お仕事終わったらどっか遊びに行こっか! 今日はイオリくんとシュンくん、二人とも本部に泊まりなんだし! どう!?」


「……え、でも」


「大丈夫よ、二人とはササちゃんが来るまでの間にいーーーーーっぱい遊んであるんだから! どこか行きたいところ無い? 交通費掛かりすぎるとかは困るけど、今日はできるだけどこへでも連れて行ってあげよう!!」


 にかっ! と笑えば、二人は顔を見合わせた後にぱぁぁっと喜色の色を浮かべた。今月十一歳になるササちゃんと、十四歳のトキヒロくん。本来は遊びたい盛りなのに、彼等は境遇ゆえにその経験が少ない。


 実を言えば支部局の生活費は結構ピンチだが、もう私もアルバイトができる年齢ということでちまちま内職したりコンビニバイトしたりと頑張っているのだ。頭の中で家計簿をめくって、ある程度の予算は確保できることを確かめる。うん、県外に出なければどうにかなるだろう。


 まだまだ小さなこの子たちに、娯楽もさせてやれないなんて悲しいもの。なんだったらバイトか内職をもうひとつ増やせばいい。そう結論付けて、私は目の前の二人の言葉を待った。


 







「まぁ……らしいと言えば、らしいんだけどね……?」


 思わず漏らした言葉が上ずり、顔が引き攣ったのは必然の結果である。


 両隣にいるササちゃんとトキヒロくんも、予想以上の音の洪水に呑まれている様子であった。目の前には色とりどりのカラーライトが明滅を繰り返していて、そこに雑然と混ざった人々の声がこだまする。奥の方からはコインの溢れるような金属音が響くが、私たち以外は誰も気にとめた様子も無い。


 つまり、簡単に言うと。


 私たちは三人揃って、人生初のゲームセンターへとやってきたのだった。


 私にとってはゲームと言えば無料のソーシャルゲームであり、ササちゃんは家庭用ゲーム機を少々かじったことがあって、そして意外なことにトキヒロくんに至ってはゲームがどんなものなのかもいまいち分かっていなかった。つい去年の初冬までは中学校へ通っていたはずで、私の記憶ではその年頃の男子というのはゲームが好きだった気がしたのだけど、彼の周りはそうでもなかったらしい。ゲームセンターという言葉だけは知っている、そんな感じ。


 実は一度行ってみたかったと顔を輝かせる二人の頼みを私が断れるわけもなく、過保護じゃないかと言われても仕方がないくらい繰り返し「いい? 知らない人についてっちゃだめよ!? カツアゲっていうお金を巻き上げる人もいるけど、もし声をかけられたらすーっと逃げてきなさい。ダメそうならお金なんていいから反抗しないこと!」などなど諸注意を述べて、最後に肝心な部分である「絶対に魔法を使っちゃダメ」を恐らく十は繰り返した。魔法が露見しては大問題だし、何より二人が危ない。


 そんなわけで、娯楽施設に入るというのに緊張張り詰める面持ちの私たちは、じっと目の前の空間を眺めていた。魔窟。そんな言葉が頭を過ぎる。


 ごちゃごちゃとして落ち着きのないこの空間をちょっと苦手に思う自分に気がついたが、次第にササちゃんとトキヒロくんの表情が好奇心に輝くのを見てしまってはそんな苦手意識も吹っ飛ぼうというものだ。できるだけ傍を離れないでね、と再び言い含めてから、私はひとつ深呼吸をしてゲームセンターへと踏み込んだ。


 きらびやかな世界が一気に視界を埋め尽くし、同時に奇妙な不安が私を襲う。どうも緊張しすぎているらしい。たかがゲームセンター、されどゲームセンター。きょろきょろと挙動不審気味に周囲を見回す。


 そして、驚いた。


 ゲームセンターにあるゲームといえば、私の中ではUFOキャッチャーとかメダルゲームだけだと思っていた。だが、周囲には賑やかに流れる音楽に合わせてボタンを押すらしいアーケードゲームやシューティングゲームなど実に多岐にわたるゲームが鎮座していたのだ。


「……おお」


 すごい、とササちゃんが楽しげに呟くのが聞こえた。その通りだ。すごい。これほどまでに騒がしくて清潔感に欠けるのに、こんなに楽しそうな空間を私は生まれて初めて見た。


「ね、リンカさん、オレあれやってみたい!」


 もうノリノリらしく無邪気な笑顔を浮かべてトキヒロくんが指差したのは、入口のほど近くにあったシューティングゲームだった。銃を象ったポインタで、大きめのモニタに映るゾンビ達を相手に銃撃戦を繰り広げるというゲームらしい。確か、割とゲームセンターではメジャーな物のはずだ。


 私はこの手のゾンビ物は全然平気なのだが、ちらとササちゃんを見やると少し嫌そうに眉をひそめている。どれだけクールに振る舞っても、やっぱり十歳の女の子。怖いものは怖いのだ。


「うーん、そうだね。じゃあササちゃん、ササちゃんは私の後ろにいればいいよ。大丈夫、私こういうの得意だから、ササちゃんを守ってあげるよ!!」


「……ゲームセンター初めて来たのに?」


「うぐ、いや、だいじょぶよ! ほら私経験あるし!」


 私の魔法は実戦投入するにはまだまだ問題点が多いので、実力行使の必要な依頼では大体銃を携帯することにしている。それに伴い、ちょっとだけだが狙撃は学んだことがあるのだ。きっと要領は同じはず!!


「……なら」


 ササちゃんの了承にトキヒロくんが嬉しそうに跳ねた。ポケットから百円玉を取り出して、投入口に投入。私も同じように続く。


 初めてのゲームセンターのゲームがゾンビシューティングかぁ、と若干残念に思ったが、直後予告なくゲームがスタートしてしまい、私は大慌てでおもちゃの銃を握り締めた。トキヒロくんは勝つ気満々と言ったように、いつもの眠くてだるそうな雰囲気をどこかへ置き忘れて楽しげにモニタを注視している。後ろにはササちゃんもいる。支部局長の威厳をかけて負けるわけにはいかないのだ。


 ……後から考えてみると、ゲームで威厳も何もあったもんじゃないんだけど。


 銃の引き金に指をかけたそのとき、画面に映る通路の角から声にならない呻き声を上げて何かが飛び出してきた。それを視認した瞬間に銃の位置を修正、引き金を引く。


 モニタに映ったピンク色のサークルがきゅうううと収縮したかと思えば、ほとんどロスタイムなくその一撃は敵の頭上のゲージを半分にすり減らした。HP、とおどろおどろしい字体で書かれているゲージだ。モニタの下方にある自分のゲージが無くなったらゲームオーバーなんだよね、と頭で整理しながら、勝手に視点が進んでいくモニタ上に映るゾンビを次々に撃ち抜いていく。


 そういえば、お兄ちゃんはどんなゲームをしていたっけ。急にそんな疑問が頭をもたげた。


 よく、青い液体状の、つぶらな瞳なモンスターと戦うゲームをしていたような気がする。いやでもそれは家庭ゲーム機の話で、そもそもお兄ちゃんはゲームセンターに来たことはあったんだろうか。来たことがあるとしたら、どんなゲームをしていたんだろう。さっき見かけた、ギターとドラムみたいなゲームは音楽ゲームだろうけど、ああいうのが似合いそうだ――――もしくはその横にあった格闘ゲームだろうか? ドライバーを倒してコマンドを入れて……でも昔、コマンドは好きじゃないって言っていたかな?


「っえ!? そこでそいつ!? 嘘、あちょっ、なぁぁぁぁああああ」


 考え事に耽っていたら急にそんな情けない声が隣から聞こえて、私は思わずトキヒロくんのほうのモニタへ視線を投げた。下方のゲージは既に空っぽ、画面の中央にはダークブルーで「Your Lose」の文字が……ってえ!?


 慌てて自分の画面に目を戻すと、そこにはガシッガシッとこちらに喰らいつきHPゲージを削り取る痩せこけたゾンビ男が奇声を上げて寄ってたかっていて、私は迷わず引き金を引いた。五、六体が一気に吹き飛ばされる。


 考え事をしていた間は奇跡的にノーダメージだったようだが、今の一瞬の注意散漫で既にHPゲージは半分を割っている。予想以上にシビアなゲームだ。そしてゾンビの造形がちょっと本気で気持ち悪い。私の後ろにいたササちゃんは私からちょっと距離を取り、既にプレイを終えたトキヒロくんのほうへ逃げていた。……モニタから逃げてるんだよね? え、私じゃないよね? などと内心冷や汗をかきつつ銃弾を撒き散らすこと十秒後。


 ほ、と息を吐いた私は、画面中央に表示されたルビーレッドの「Your Win」の文字に心底安心した。ゲージは途中で回復アイテムを拾っていたらしく七割まで回復していて、プレイしたことがないので比較できないがそれなりの出来だったらしい。ゲームモニターの中の外国人キャラが流暢な発音で「Very Good!!」と叫んだ。


 よし。やりきった。局長の威厳をなんとか保ってやった。ゲームひとつで途方も無い達成感を覚えつつトキヒロくんたちの方を振り返ると、二人はぱちくりと目を白黒させていた。


「……えと、なに、どうしたの? 二人とも??」


「あ、いや……なんていうか、上手いから」


 ササちゃんの言葉にこくこくこくこく頷きまくるトキヒロくん。


「本当にリンカさん初めて? 前にやったことねーの?」


「んー……無いと思うけどなぁ。やっぱあれじゃない、経験の差だよ! それにお兄ちゃんもゲーム得意だったから、きっと遺伝だって!」


「そんな遺伝聞いたことないけど……?」


 思い返せば、たまにお兄ちゃんのシューティングゲームを眺めていたような気がしないでもない。もしかしたらそのあたりで得た感覚を無意識に駆使していたのかもなぁと思う。


 昔からずっと、お兄ちゃんばかりを観ている子どもだったから。


「……じゃあ、次、あたし」


 刹那の郷愁に浸る間もなく、ササちゃんはうっすら微笑んで次なる目的を指差した。今度は音楽ゲームのようである。太鼓を象ったようなそれを見たトキヒロくんが、「じゃあその次これやりたい!」とまた別のゲームの名前を口にした。


 この二人、今日は遠慮する気ないな。


 一瞬にして悟った。二人とも、遊びに遊びつくすつもりだ。正直財布の紐は緩みすぎちゃいないかと頭の中で計算し直したが、好奇心と歓喜に満ち溢れた幸せそうなその顔を見てしまうと「お金が」なんて言うこともできない。よし、やっぱりもう一つ内職を増やそうと決意して、私は今日一日二人に付き合ってあげるべく息を整えた。


 子どもは夢中になるとハイペースだ。息切れを起こしては情けない。きっちりついていかなきゃ。










 ――――だがしかし。


 ハイになったバリバリの運動好きであるササちゃんとトキヒロくんのハイペースに追い付くはずもなく、私は結局へとへとになって、ゲームセンターからの帰路の途中にある公園のベンチに腰かけていた。


 もう日は傾いて、午後四時半。ササちゃんは一応十歳なので、出来れば五時半くらいまでには家に戻りたいところなのだけれども、いかんせん足が痛くてならない。そして財布は寂しくてならない。それなりにギリギリ感溢れる状況だ。


「……もう少し、厳しくならなきゃかなぁ」


 ちょっと私はメンバーに甘すぎるのかしら。と思う。現状のメンバーで働けるのは私ひとりしかいないので、本来はもっと節制に努めるべきなのは分かっている……だけど今回くらい、と毎度のごとく思っては私本人が痛い目を見ているわけで。


 これではそのうち、メンバーに負担を強いることになりかねない。無理な節制節約はできるかぎりしてもらいたくないのにそうせざるを得なくなる状況がやって来るかもしれないのだ。


 それでは元も子もない。……もっとちゃんと家計のことを考えよう。


 雪の降り積もった公園では、ササちゃんが飽きずに雪に触れて遊んでいた。だがトキヒロくんは中学二年生なだけあって、雪に足を取られて転びそうなササちゃんを「気をつけろよー」なんて苦笑して注意している。――――確かトキヒロくんには、双子の妹さんが《いた》のだったか。シュンくんやイオリくんに対しても結構面倒見がいいので、仕事に忙殺されている最中などは助かっている。


 ササちゃんも、今は雪に戯れる女の子にしか見えないけれど、彼女の魔法によってうちの支部局で引き受けられる依頼が大幅に増えた。本人は「簡単」だと言うけれど、私や他のメンバーでは片付けられない実戦系依頼を自ら進んで引き受けてくれるから本当にありがたい。


 この二人が来てから、特にシュンくんは一際明るくなった。それはシュンくんがササちゃんにとある感情を抱いているからだけれど、楽しそうに笑うことが増えたし魔法のスキルアップに向ける情熱も一層高まっているようだ。イオリくんも、トキヒロくんの寝ぼけたような和む雰囲気のおかげで、二人に随分早く慣れることができたし。


 やっぱり助けられっぱなしなんだけどね、とはにかむ。


 欲を言うなら誰にも手伝われないで大丈夫なくらいに、なんでもできる人になりたい。でもそんなのは土台無理な話、私はそんなにハイスペックじゃないのだ。ならば、できることをできるだけやっていくしかない。


 今の私は、まずまずの及第点じゃなかろうか。


「リンカさーん、足大丈夫そうー?」


 足元のササちゃんをちらちら見ながらこちらに尋ねてきたトキヒロくんに、私はひらりと片手を振って答えた。


「うん、随分良くなったよー。いやぁごめんね、私ってば体力ないからさぁ」


「そんなのいいってば。リンカさんはやることやってくれてんだろ。なぁ、ササ!!」


「……うん」


 え、と私はちょっと戸惑った。まるでついさっきまでの考えを読んだような言葉だったからである。


 だけどあの子達二人の魔法はそんな芸当はできないわけで……あれ、じゃあなんで?


 不思議に思って首を傾げる。


 と、トキヒロくんの呆れたような声が聞こえた。


「顔見ればわかる。結構分かりやすいんだぜ、リンカさんって」


 その台詞にデジャヴを感じて、私は息を詰まらせる。


 ……同じことを兄にも言われた。分かりやすいって笑われたのはもう何年前だろう。


 今日はやたらと兄のことを思い出してばかりいるような気がした。いつもはそんなことはないのに、二人の言動でいちいち兄を連想してしまっている。二人は二人なのに、彼らに兄を被せてしまっていることに気付いて、私はちょっと自分を情けなく思った。


 あの六月、兄にぶつけた言葉を思い出す。


『もう金輪際会いたくない。お兄ちゃんなんか大っ嫌いだから』


 兄が拳を握り締めるほどひどいことを言っておいて、私はどうも兄に会いたがっているらしい。なんて虫のいい話なんだか。


 大嫌いだというその言葉は、魔法同盟に所属するということを決めた後に無関係である兄を巻き込むわけにはいかないと思って投げたものだった。別に放っておいても兄は首など突っ込んでこなかったかもしれないが、念のため、そんなつもりの言葉だった。でもその言葉の真偽なんてどうでもいいのだ。私が兄にとてもひどいことを言って姿を消したというその事実は、どうあれ変わらない。


「……顔、暗い」


 気付けばササちゃんがすぐ至近距離で、私の俯いた顔を覗き込んでいた。はっ、なんと、気付かなかった。慌てて頭を起こして苦笑い。


「ごめんごめん、ちょっと考え事してただけよ。ササちゃん、手とか大丈夫? 確か寒さに弱くなったんだよね?」


「……それは、平気。実はほんの少し、使ってる」


 〈蒼炎〉と名付けられた炎の魔法を手にした彼女は、以前より寒いところが苦手になったらしい。魔法が体質に影響するという話はたびたびあるけども、この雪の中ごく普通に遊んでいたのは魔法を使っていたからだったのか、と納得した。ササちゃんは魔法を得て一年も経たないとは思えない程、魔法のコントロールに長けているのである。


 見れば、確かに彼女は素手なのにしもやけひとつない綺麗な手をしていた。


「うん、なら大丈夫だね。ササちゃん、魔法上手になったもんねぇ」


 それじゃ、脚も回復したことだし帰ろっか。にこりと微笑みかけると、ササちゃんは私をまだ心配そうに見上げていたもののひとつ頷いた。少し離れた場所で携帯電話片手に雪を眺めていたトキヒロくんも、了解と言ってこちらに駆け寄ってくる。


 ダウンジャケットのその姿がまた兄にだぶって、私は気付かれないよう小さく首を振った。


 もういい加減、こんな情けない気持ちは捨てなくちゃ。二年近く前の、兄に暴言を吐いたときのあの覚悟はいったいどこに飛んで行ったの、私。


「……私は、支部局長、小柳燐花。皆を守るのが私の仕事」


 しっかりしなさい。冷え切った彫像のような両手で頬を叩けば、じぃん、と微かな痛みが身体を伝う。冬の空気は痛くて寒く、そして寂しいものだった。


「なんか言った?」


「ううん、何でも! じゃ、帰ろう。夕飯なにがいいー?」


「……じゃあ、鍋」


「鍋か……ならキムチ鍋食べようぜ。オレすごく腹減った。帰ったら菓子パン食べる」


「本当、よく入るよね夕飯……絶対食べ過ぎっていうか乙女は食べらんないよ……はいはい、キムチ鍋はササちゃんが食べられないから却下。普通のお鍋にします!」


「えー……」


「……この前、トキヒロとシュンのせいで麻婆豆腐がカレーになった。今日くらい譲って」


「む。そう言われたらしゃーねえじゃん……」


 いかにも不承不承と言った様子でありながらも、トキヒロくんはキムチ鍋を諦めたらしく、もうぼそぼそと「じゃあ菓子パン三個でやめとこうかな」とおやつと夕飯のバランスを思考し始めていた。トキヒロくんはかなりの大食漢だから、今は百六十くらいの身長もよく伸びるだろう。それを分かっているからか、彼は思うように身長が伸びないとむすくれるシュンくんをたまにからかっていたっけか。……うん、多分シュンくんも伸びるだろう。まだシュンくんは十二歳、成長期はこれからだ。……多分。


 牛乳嫌いのシュンくんがあとどれくらい身長が伸びるかしら、とあれこれ想像を重ねていると、交差点に差し掛かった。歩行者用信号機はちょうど青色を点滅させ始めたところで、それを見るなりササちゃんが歩く速度を上げた。多分魔法を使っていても寒いものは寒いから、急いで帰りたいんだろう。


 私も速度を上げようと信号機を見て、直後顔から血の気が引いた。記憶ではもう少し長かったはずの明滅時間が短くなって、既に信号機は赤色の警告色を発している。ササちゃんは気付いていないようで、思わず立ち止まった私とトキヒロくんとの差は開きササちゃんは横断歩道の中央にまで足を進めてしまっている。


「っ、ササちゃん! 危ないから急いでっ!!」 


 叫んだ言葉は、最悪なことにかき消されてしまった。横断歩道に迫るバイクの爆音によりである。


 車両であるバイクからすればイレギュラーはササちゃんの存在で、それなりの速度を出しているのですぐに気がつくのは無理だろう。あの速度のバイクの制動距離はいかほどなのか知らないけれど、そのバイクがササちゃんに轟音を伴って接近しているのに、両者とも互いの存在に気付いていない。


 後ろでトキヒロくんが息を呑む気配がした。それに気付いたのは、後先考えることも忘れて私が駆け出したその直後のことだった。


「リンカ、さっ……!」


「ササちゃん!!」


 切迫したトキヒロくんの呼び声に答えている余裕なんかない。自分の足の遅さを呪いながら、竦みそうになる両足を叱咤して、私は彼女に手を伸ばした。ササちゃんがようやく私に気づいて振り返ろうとした途中、バイクの姿を視認したのか目を大きく見開く。あ。ササちゃんの口が円を描いた。


 そこでバイクの運転手も異常に気がついたらしい。ブレーキをかけるのが見えた、だがこの時点でササちゃんまでの距離は十メートルもなくとてもじゃないが間に合、


「っ!」


 った。


 間に合わせた、というほうが正しかろう。ササちゃんの頭を抱き込むような形で引き寄せて手のひらを彼女の頭頂部に置き、魔法を発動。そのままぐいっと後ろへ無理に飛び退り、間に合って良かった、と思う間もなく着地し損なって歩道の中央分離帯へ思いっきり頭を打ちつつ倒れ込んだ。


 アスファルトに打たれたササちゃんが受けるはずのダメージまで肩代わりしたせいで、ぐぉんっと鈍器で殴り飛ばされたような衝撃が脳髄を揺るがす。どこからも出血はしていないようだけど、足がじくりと痛んだのでひねったかもしれない。あぁ、思ったより痛いなぁ。なんて他人事のように思った次の瞬間、予期せぬ破壊音が私の耳をつんざいた。


 ずがぁんっ、そんな派手な音だった。痛むからだを無理に動かして音の出処を探ろうと視線を上げて、私は絶句した。

 

「あ……」


 バイクはこれでもかと言うような激しいブレーキ痕を残して、横倒しに横転していたのである。


 周囲で悲鳴とクラクションが鳴り響いた。反響し過ぎたその大音声にくらくら視界が酩酊するのを感じながらも、私は腕の中のササちゃんに問うた。


「怪我、ない? 大丈夫?」


「……だ、い、……じょうぶ」


 返ってきたのは弱り切った虚勢の返事。それはそうだ、彼女は二度目の命の危機を目の当たりにしたのである。怯えないわけが無い。必死に彼女が隠そうとする身体の震えを感じ取りながら、私はふらりと笑う膝をおっ立てて立ち上がった。


 視線の先の横断歩道で、トキヒロくんはがくがくと震えていた。涙こそ流していないが泣きそうな顔で呆然としていて、立ち上がった私に気付いていないかもしれない。その表情にずきりと心が痛んだ。


 トキヒロくんが、交通事故……未遂とはいえ、それを前に冷静でいられるわけがない。なにせ彼の妹は交通事故で亡くなったのだから。


 でも、今はごめんなさい。心で謝って、私はすぅと息を吸って彼をどやしつけた。


「――――なぁにボケっとしてるのトキヒロくん!!」


「ッ、リ、ンカ……さ」 


 びくりと彼の肩が震えた。そういえば、64号局に来てから、もしくは生まれてから怒鳴るのなんて初めてかもしれない。彼の虚ろな視線が私を見て焦点を結ぶ。


「私もササちゃんも無事だから! 私はバイクさんを見てくるから、トキヒロくんはササちゃんといてあげて!! いいわね!?」


「で、でも、オレっ、」


「トキヒロくんは―――《お兄ちゃん》でしょう!? お兄ちゃんなら妹分の面倒は見てあげなくちゃだよね!? 大丈夫。君ならできる。……できるね?」


 無理に表情筋を使って微笑むと、トキヒロくんはほんの刹那ためらうように視線を泳がせた。だがきりりと表情を引き締め、ひとつ頷く。その顔に私は安堵しつつ、よろめきかけた足を叱り飛ばすようにしながら踵を返してバイクのほうへ歩み寄った。


 正直立っていたくなどない。すぐにでもへたりこんで情けなく泣きわめきたいくらいには全身が痛むし、叫んだ喉もからからで痛い。なにより精神的にショックを受けていた。命の危険を感じたのは、これまで依頼をこなしていたにも関わらず人生初のことだったから。


 周りの人々が私たちを心配するような声をかけてくれることにも、しばらく気が付かなかった。横転したバイクと、ヘルメットを抑えてうずくまる運転手を見て顔をしかめる。もしかして、頭を打ったのか?


 私は慌てて「すみません、誰か救急車と警察呼んでいただけますか」と叫んだ……つもりだったけれど、実際は掠れた声が喉をかすめただけである。それでも意味は通じたのか、すぐにひとりが頷いてくれた。


 それからしゃがみこむ。怪我の程度や種類にもよるけれど、仕事柄応急処置の心得はあるのだ。もしかしたら何かしらできるかもと淡い期待をかけた。


「あ、のっ、大丈夫ですか? どこか、痛いところ、あります? 怪我、は?」


 途切れ途切れの言葉にすぐには返事が返って来なかったが、しばらくの沈黙の後にぼそっと「……足」と呟く。見れば、バイク横転の衝撃で割れたライトのガラスが運転手のスラックスごと足を切り裂いていたようで細く血が滲んでいて、私は特に何も気にすることなく、カーディガンの下に着ていたブラウスの裾を破って止血作業に入った。ふと後方を見遣れば、トキヒロくんはちゃんとササちゃんを歩道に導けたらしい。周りで事故の目撃者たちが心配そうに声をかけているのが聞こえた。


「他に痛いところ、ありませんか? 頭を、打ったり、とかは?」


「……大したことねェ」


「本当に?」


 私の問い返しには応じず、運転手はまたぼそりと「手前とガキは」と聞いてきた。


 はて、そのヘルメットでくぐもった声になんだか懐かしい気持ちになったのはなぜだろう。ヘルメットのせいで顔はよく見えないが、若い。高校生くらいの男性の声だった。


「え、あ、私はなんともない、ですよ? それより、運転手さんのほうが大変です。もうすぐ、救急車来ますから、あまり無理に喋らないでください」


「……」


 男性は私の台詞を聞き入れてくれたのか黙りこくった。ちょうどそのとき、近付いてくるサイレンの音が耳に入った。救急車とパトカーが別方向からほぼ同時に到着したらしい。思ったより早い到着に、胸を撫で下ろしたところで後ろから叫び声。


「リンカさんっ、怪我は!?」


「あ、大丈夫よ、トキヒロくん! それより、ササちゃんの、ほうは?」


「それは大丈夫っ!」


 よかった。ちゃんと魔法は発動できていたんだ。私はふぅと張り詰めていた息を吐いた。途端、ずきずきと頭と背中が痛み出して思わず顔をしかめる。中央分離帯にササちゃんのダメージ上乗せで背中からダイブしたのだ、鞭打ちか、打撲か、ともかく無傷ではいられないだろう。これは仕事に支障が出るだろうから、あの眼鏡上司からお叱りを受ける覚悟は決めておこう。それから、無理なんかして、とシュンくんにも怒られるかな。イオリくんは気が優しいから泣き出すかもしれない。


 それにしてもと私はバイクの運転手さんを見やった。あれだけ派手な横転をしておいて、彼には足の傷以外に大きな外傷は見当たらない。ヘルメットがきちんと役割を果たしたのか、頭部にも傷は無さそうだ。偶然なのか受け身を取ったのか分からないが、普通死んでいてもおかしくない事態だったと思う。というか当たり所が悪ければ即死だ。


 そう思うと果てしなく申し訳なくなってしまって、私はか細く謝罪を述べた。


「本当、ごめんなさい。私がしっかりしてなかった、ばっかりに」


「喋ンな」


「……え、はい?」


「喋ンな。痛むんだろ」


 ぶっきらぼうなその言葉は、かつて聞いた言葉と一字一句違わなかった。思わず目を見開く。


 そう、あれは私が小学生のとき。学校の帰り道ですっ転んで膝に怪我をした。心配なんかかけたくなかったので平気なフリをしていたら、そう言われたんだ。


 後から聞いたら、私の平然を装った笑顔は分かりやすかったと笑われて。


 交差点がざわめきに包まれる中、私は呼吸すら忘れたようにただ、ヘルメットを被った運転手を見つめ続けた。まさか、そんな。いや、でも、この声は。信じたい気持ちと信じたくない気持ちがせめいで落ち着かない。こんなところで、こんな再会が有り得るものなの? いや、違う、だからきっとそれは勘違いなんだわ。視界をちらつく白い雪がぐるぐると回る世界に巻き込まれて消えていく。今になって全身の痛みが更にひどくなった。サンドバックにされているんじゃないかと錯覚しそうな激痛が背筋を駆け巡ったけれど、私はその人から目を離せない。


 赤いサイレンと一緒に、救急隊員と思しき制服を着た人物がやってきて名前を聞いてきた。ただそれだけのことなのに、私はやけに緊張した。名前。それは、私の疑惑を確証に変えてくれるはずのもの。


 だけれど答えを先に聞いてしまうのはなぜだか怖く思えて、私は慌てて口を開き名乗ろうとした――――の、に。


 私を制するように片手を水平に上げて、バイクの運転手はそっとヘルメットを外した。横目でこちらを一瞥するその瞳に宿る感情は、やはり読めない。


 私と同じ薄い色素と、前にはあまり見られなかった目の下の隈が色濃く印象付けられた。鋭く切れ長の目は三白眼にすら近い。派手な出で立ちで、随分身長も伸びたようだけれど――――もう、見間違いようもない。


「……小柳、」


 名乗る直前に少しだけ迷ったのか、間が開いた。信じられない思いで彼を見つめる。


 どうして、九州にいるはずなのに、こんなところに、あなたが――――、


「悠樹。……小せェ柳に、悠久の樹で、小柳悠樹だ」


 お兄ちゃんが、いるの。


 その言葉は声にならずに溶け消えた。






 


 精密検査の結果は異常なし、だった。


 あの直後、大事を取って病院に搬送された私たちだが、勿論ササちゃんは無傷。傷を負ったのは私ともうひとりであり、その上私の傷は傷と言っても痛覚を刺激するだけの魔法の効能によるものと、打撲や鞭打ち、ひねった足首だけだ。精密検査なんてやったところで無駄でしょうと断ったのだけれど、上司(主に眼鏡さん)から圧倒的圧力をかけられたのに屈しての検査である。


 当然、何の異常もあるわけがない。


 ああ、これでより懐事情が寂しくなったなぁ、などと呑気なことを思えたのは束の間のことだ。直後ずぱぁんッ! とおよそ病院で立ててはならないレベルの大きな音と同時に、


「リ、ン、カぁっ!?」


 と額に青筋を浮かべたシュンくんが怒鳴り込んできたからである。


 その際、一応局長であるはずの私に彼が向けたお説教タイムが実に二時間に及び、途中で仲裁しようとやってきたササちゃんがいつもの強気さはどこへやら、シュンくんの迫力にあっさり負けてお説教仲間のひとりとなったのは珍しい出来事であった。正直あそこまで怒るとは思っていなかったので、終始身体を縮こまらせていた。もうシュンくんは怒らせないようにしようと誓った所以だ。


 それが落ち着いた頃に、警察から事情聴取を受けていたというトキヒロくんも検査入院の病室へ顔を出した。トキヒロくんの経歴はシュンくんも知るところなので怒鳴りつけず、ただ「ありがとう」とだけ感謝の意を示した。トキヒロくんは自分が感謝される理由なんか、と苦笑いをしていたが、その表情はどことなくすっきりしたように見えた。


 続いて落ち着かないことにやってきたのは、なんとしくしくと泣きじゃくるイオリくんを連れたリボン上司、ことコハルさんだった。どうも事故の件を聞いて頭に血の昇ったシュンくんが、イオリくんを連れてくるのも忘れていたらしい。ばつの悪そうな表情になってむすくれたシュンくんを、コハルさんが「馬鹿ねぇ」と面白そうに嘲笑っていたのはいつものこと。


 そうして多くの人たちが私を心配してくれたことを、素直に嬉しく思った私だったが、ひとつ気がかりなことがあった。


「……ねえトキヒロくん、嫌なことを思い出させちゃうけど聞いて良い?」


「リンカさんがそう言って聞くなら、重要なんだろ? いいよ。何?」


「あのときさ、……バイクはどうして横転したのか、見えた?」


「え、そりゃあ、あのとき運転手が――――」


 ハンドル切ったからだけど。


 トキヒロくんの不思議そうな顔を視界の片隅に入れながらも、私はそうか、と嘆息した。


 やっぱりそうだったんだ。兄はわざと、横転する可能性も承知の上でハンドルを逆方向に切ったのだ。いきなりそんなことをすればバランスを失ってしまうのは目に見えているのに、そんなことをしたのはまず間違いなく……。


「……お兄ちゃんの馬鹿」


 ぽつり。誰もいなくなった病室でひとり呟いた。


 あのとき、兄がハンドルを切らなければもしかすると、私はササちゃんを助けるのが《間に合わなかった》かもしれない。ハンドルを切って進路が微かに逸れたからこそ、彼女は無傷で済んだのだと思う。だけれど横転により自身が大怪我を負いかねない状況と、すぐ目の前で救援の手が伸びている女の子の命とを鑑みて、あんな即座に反応できる人間だなんて思っていなかった。


 優しい人だけど、あそこまで馬鹿みたいに優しいとは思わなかった。


 魔法同盟のメンバーが帰った後、事情聴取に訪れた刑事さんによれば、兄は足の切り傷だけではなく頭部にも軽い外傷があったのと、身体中の古傷が開いてしまったので入院は多少長引くそうだ。無論その古傷は兄のやんちゃ時代のものだろう。刑事さん自身も驚いていたが兄妹ということで病室は教えてもらっている。


 私は意を決して、ベッドから出た。兄に訊きたいことも言いたいことも山ほどあった。


 病室を出るとき少し足がふらついたが、そんなのはどうだって良い。会うつもりなんてなかったけれどこうなってしまっては言わずにはいられない。思いの丈をぶつけてやらねば気が済まなかったのだ。


 だが、探し人は案外簡単に見つかった。病室へ向かう途中の深夜のロビー、そこに並んだ待合用の椅子の一つに、それなりの怪我をしているくせに彼は腰かけていたから。


 自動ドアの向こうから降り注ぐ月光が、兄の影を映し出した。二年ぶりに見たその姿は前よりも大きいはずなのに、今は少し小さく見えて瞬きする。落ち込んでいる、ように見えた。


「……お兄ちゃん」


「っ!」


 弾かれたように立ち上がろうとして、すぐに顔をしかめて座り直す兄。自分の傷を忘れていたらしい。ああもう何してるの、と言いつつ私はぽすっと兄の横に座った。


「びっくりしたよ。お兄ちゃん、向こうにいるんだと思ってた」


「……だろうな」


「なんでこっち出てきたの? 叔父さんたちうるさかったんじゃない?」


 私は魔法使いだということを、魔法同盟に引き取られるにあたって、兄には話していないが叔父と叔母には話してあったはずだ。そのときこれまでの物腰柔らかな態度から一変して、私を奇異な物でも見るような目で見ていたから、いくら不良でも長男の兄をあっさりこちらへ寄越すとは思えなかったのだけど。


 兄は至極簡潔に答えた。


「煩かったから無視してきただけだ」


「……それはなんとも、お兄ちゃんらしいっていうか」


 その無視がどれくらい面倒なことか呆気なく想像できたので、兄のスルースキルに素直に感嘆した。


「じゃあ、どうやって私がここにいるって突き止めたの」


 そこは結構な疑問点だった。親族にも関東圏であることしか告げていないというのに、一体どうやって……。


「ンなの当たり前だろ」


 兄は鼻を鳴らして答えた。


「どこにいるのかなんざ知らねェから、全部闇雲に歩いたんだよ」


「ってええ!?」


 当たり前もなにも馬鹿げた答えが返ってきた。


 は? 全部闇雲に、歩いた?


 いやいやいやいや、まさか兄が昔から頭脳労働は苦手だったとはいえどそんな馬鹿なことがあってたまるものか。ていうか誇らしげに言うところじゃない。それは手当たり次第ということで、つまり手がかりはゼロだったということだ。そんな中闇雲に私を捜していた?


 ……あの、兄が?


 唖然として口をぱくぱくさせていると、兄はちらりとこちらを見やって、それからまた目を逸らしてぽつねんと呟く。


「……よくあのクソ親父が言ってただろ。現場が命、現場百篇。靴底すり減らして歩きまわりゃァ道は見つかる、ってよ」


「……!」


 あの兄が、父さんの言葉を覚えている?


 途方もない衝撃を受けた気分で、私は兄をただ見上げた。嵐のように暴れたあの頃の両親を、ちゃんと兄は覚えていたというのか。あんなに嫌って、あんなに暴言を吐いて、あんなに煙たがっていた、兄を無価値な物でも扱うように見ていた両親を?


「……俺ァ馬鹿だったんだ」


 急に、兄はそう言った。


 自嘲するような言葉を兄から聞いたのは、これが初めてのことだった。


「もっと早く気付きゃァ良かった。俺がクソつまんねェ意地なんざ張って、親父にもお袋にも何も言わねェで全部終わらせようとなんかしなけりゃ、何か、親孝行の一つでもできたかもしんねェのに」


「お、兄ちゃん……?」


「素直になれなんざ無理な話だ。俺にゃ一生無理だ。だけどよ、だけど、」


 それだったらもっと早く、ああいう夢が見られるようになってりゃ良かったんだ。


「……ああいう、夢?」


「あれはきっと俺に対する天罰って奴なんだろうぜ。毎晩毎晩、寝る度に気味悪ィ夢ばっかり見るんだ。……知らねェ奴が死ぬ夢だった。知らねェ奴が怪我する夢だった。昨日の夜は、知らねェガキを轢きそうになる夢だった」


「!」


 それって、まさか。私は息を呑んだ。


 今日の事故はまさしくそれではないか。知らない餓鬼、それはつまりササちゃんのこと。


「それでさ、いつもその夢の中身は《現実になる》んだ。……クソタチ悪ィよな。俺にはぴったりの、馬鹿見てェな話さ。だけど今日はこいつに感謝した」


 兄は険しい顔に見えた。だがそれはただの仮面で、きっと兄は今悲しく思っているんだと思う。言葉と表情がどこまでもちぐはぐなのに、兄は気付いているんだろうか。


 反面、兄の言葉から拾った意味深なものをパズルのように繋ぎ合せていく。どんなに精神が不安定でも悪夢だけを見続けるなんてことはないはずだ。しかもそれが現実になるなんて。


 つまるところそれは予知夢。それが分類されるとするなら、超能力か、あるいは。


「これが無けりゃ、俺ァあの餓鬼を轢き殺してたかもしンねェ。あの《真っ黒な左足》怪我しただけじゃ、俺は自分を許せなかったかもしんねェ」


 ――――パズルのピースが、綺麗に嵌った。


「……お兄ちゃん、ねぇ、もしかしてさ」


 私は訊いた。もしかして、なんて言いながら、ほぼ確実だろうと思いながら。


「お兄ちゃん、その夢を見るようになったのって、私がいなくなった後で――――お兄ちゃんはその夢を見るから人が死んじゃうんだとか、思ってない?」


 兄の返事は無かった。だけれど、その身体が強張ったのは傍目にも明らかだった。


 ああ、そうなのか、と私は思いがけず嘆息した。毎晩見る夢。それが現実になる。黒い左足。ああなんてこったと頭を抱えたくなった。私は立場上魔法の種類には精通しているわけだけれど、そんな特殊な魔法の心当たりはひとつしかない。


 ――――《単独系》上位、未来観測魔法。「未来のことを知りたい」と願った人間に与えられる、あまりにもえげつなくて残酷な魔法、〈夢測(フォーサイト)〉。


 兄は、もうほぼ間違いなく、《魔法使い》に選定されている。だからその夢は決して兄のせいなんかじゃないのだ。誰かが作った趣味の悪い魔法を、運悪くもあてはめられてしまったってだけで、兄は何にも悪くないのに。


 私はだが、その魔法のことを今告げるのはためらわれて言葉を呑みこんだ。それより言わなきゃならないことがあると思った。私は今だけは、魔法同盟関東支部64号局局長じゃないと思った。


 目の前の、小柳悠樹の妹。一年と半年前に兄にひどいことを言って消えた、小柳燐花だ。


「……お兄ちゃん、ごめんなさい」


 ずっと言いたかった言葉だった。兄が身じろぎする。


「私、お兄ちゃんにひどいこと言った。自分のことで頭がいっぱいで、お兄ちゃんのことなんか全然考えてなくて、ひどい嘘ついたの。……本当にごめんなさい」


「……燐花」


「お兄ちゃんと会いたくないとか大嘘だし、大嫌いなんて思ったことない。まさか自分で怪我しにいくほどお人好しだなんて思わなかったけど……でも、お兄ちゃんのこと、嫌いじゃないの。むしろ優しい人だって思ってる。ううん、もっと言うと馬鹿かもしれないね」


 おせっかいで、世話焼きで、お人好しなところ、私にそっくりだよ。


 私は泣いていたのか、微笑んでいたのか分からない。ただ、兄は、……お兄ちゃんは、そっと私の頭に手を載せた。ずっと昔そうしてもらったときより、手は大きくて骨ばっていて、何より温かかった。


「……ごめんな、燐花。駄目な兄貴でよ。謝りたくてここまで来たんだ」


「……そんなこと、ないよ」


「燐花はちゃあんと、前向いてたんだな。……あのガキどもは、友達か」


「ううん。家族」


「……そうか」


「そう」


「良かったな。新しい、家族」


「何言ってるのお兄ちゃん。お兄ちゃんも、明日から、ううん、今からニュー家族だから」


「……何言ってんだ」


 くしゃり、と柔らかく頭をかき混ぜられる。


 呆れたような優しい声は、ひどく懐かしかった。


 私は敢えて兄に顔も向けずに、言う。


「明日、みんなに紹介する。私の、自慢のお兄ちゃんですって。わざわざ妹を捜して九州から一人旅するくらい根性のある、頼りになる年上だって言ってあげる。私の今の家族ね、怖がりな子が多いから、きっと喜ぶよ。みんな年下だけど」


「……俺、十七で最年長かよ」


「うん。あ、そうだ、言い忘れてたね。一ヶ月ちょっと遅れだけどさ、誕生日おめでとう」


 これからも、よろしく。


 私は微笑んで、兄は不器用に笑った。月明かりがようやくかと言いたげにため息をついたような気がした。





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